[5-5] 憎悪の囁き
大地を揺るがすほどに拡声された大声で、驚かされた鳥や虫が、木の葉を撒き散らして森から飛び立った。
『聞け! 獣人たちよ!
共和国の奴隷狩りによって、どれほどの同胞が連れ去られた?
隠れ場所など無い森の中に隠れ続けるのか!?
傍らの友を、親を子を、兄弟姉妹を、生け贄として己は逃げ延びるのか!?
未来永劫搾取を受け続けるのか!?』
文を読み上げるムールォの声には、決して演技とも言えぬ熱がこもっていた。
奴隷にされた者たちが皆、抱いている怒りだった。
獣人は大きな国を作らず、世界のあちこちに部族単位で暮らしている。
人族国家に(つまり大抵は人間の国家に)内包されている場合もあるが、ファライーヤ共和国のすぐ北のここは、特定の国家に属さぬ獣人居住区。猫獣人たちの森だ。
それ故に、この森は闇奴隷商人たちの狩り場となっていた。
闇奴隷商人が罰されるよう、獣人たちは共和国と協定を結んでいるが、取り締まりはおざなりだ。賄賂も飛び交っている。
『怒りある者は集え!
我らと共に戦え!
これは裁かれざる罪に罰を下す戦いである! 戦いに命を捧げた真の戦士には月の救いがもたらされるであろう!!』
燃えるような言葉が森を渡り、それから、しばし。
「来たな」
「ああ」
姿が見えるより遙かに早く、耳と鼻でウヴルは察した。
二十人ほどがやってくる。そのうちほとんどはミスリルの武具で武装していると。
踏み固められただけの道の向こうからやって来たのは、予想通り、この地に住まう部族の戦士たちだった。
獣人たちはエルフほど閉鎖的でなく、交易を行う割合も高い。装備は共和国から仕入れたのだろう。
戦士たちに守られて中心に立っているのは、老いぼれた白猫の獣人だ。
『騒がしい。何をしに来た?』
立派な魚の骨が付いた杖をついている彼は、金と青の目で胡乱げにウヴルを睨み、唸るような吐息を漏らす。
「聞く方はなんとかなる。俺の言うことを訳せ、ムールォ。
こいつらの頭に、脳みその代わりにミルクが詰まってても分かる程度に、暴力的な言葉を選べ」
部下に通訳をさせ、ウヴルは人間の言葉で、長老とおぼしき白猫に話しかけた。
「言ったとおりだ。
シエル=テイラ亡国に集え。
戦える者は我らと肩を並べ、戦うがいい。そうでない者も民として住まい、働くことを許す」
『フン!
なるほど、魔物どもの飼い犬か。尻尾を振る相手を間違えたようじゃな』
その名を聞いて長老は事情を把握したらしく、侮蔑的に吐き捨てた。
『愚かな戦いをすれば、この世の全てが敵となる。
好きなように戦って、化け物どもと傷を舐め合って死ね。
わしらまで同じ考えだと思うなよ』
「なれば、お前らは永劫に奴隷として生きるのか」
『奴隷にはならぬさ。我らはここで生きる。
それを阻む者には我らの力で報いてきた』
「守れていないではないか」
『全ては無理だ!
それは村に踏み入った魔物に一人二人食われるのとどう違う!?
貴様らの破滅的な戦いとどちらがマシだ!?』
長老に怒鳴りつけられ、それを受け流しながらウヴルは、なるほどと思う。
奴隷狩りに遭いながら逃げるわけでもなく、人間に怒りながら降りかかる火の粉のみを払う。
一体全体どうしてそれで平気なのかと不思議だったが、合点がいった。彼らは生きるということを、こういうものだと思っているのだ。
まして長老は、ずっとそうやって生きてきたのだから、今更それを変える気にもならず、その必要性も感じないのだろう。生きた時間の長さは人を頑固にする。そういう輩はそう簡単に動かせない。
「よろしい。年寄りの考えは理解した。
だが、果たして全員が同じ考えかな?
来たい者だけ来れば良い。歯抜けの群れで何ができる?」
『貴様……』
ウヴルは口の端を歪めて、鼻で笑った。
この距離で静かに向かい合っているなら、ウヴルには相手の動揺さえニオイで分かる。
長老の周りを固める戦士たちすらも、誘いに心動かされている様子だった。
たとえば有力な戦士が十人も居なくなれば、魔物や奴隷狩りから身を守るのも厳しくなるだろう。
その家族まで居なくなれば、部族は縮み、やがては消えゆく。
長老はマズルに皺を寄せて牙を剥き、ウヴルを睨んでいた。
「いいか。
これは相互に利益のある取引だが、慈善事業ではない。
拒否した者に如何なる不利益があろうと関知せぬ」
『立ち去れ、痴れ者が』
長老がウヴルに杖を向けると、戦士たちが一斉に剣や鎗を向け、それに習った。
中には気が進まない者も居るようだが、この場で団結を崩すには至らぬようだ。
ウヴルは不動。
威嚇にビビってやる義理は無い。
いっそこの場で刃向かってくれるなら話が早いまでと思ったが、そうはならなかった。
ウヴルたちの背後から、顔に草の汁を付けて迷彩とした猫獣人が一人、転がるように駆けてきたのだ。
『長老様! 奴隷狩りの連中です! 奴隷狩りの姿を確認しました!』
『なんだと? このややこしい時に……!
戦いの準備だ! 目に物を見せてくれる』
長老の号令を受けて、猫獣人の戦士たちも一気に殺気立った。
実際、長老の言も事実ではあり、彼らは奴隷狩りに対して積極的反撃を行っていた。
奴隷狩りと、重武装化していく獣人たちの戦いは、終わりの見えない紛争だ。
時には犠牲も出しながら、彼らは戦い続けている。
ただ、今日だけは事情が違った。
「いいや、戦わなくてもいい」
『貴様らがやると言うのか?』
「半分だけ当たりだな。
やっぱり猫獣人は、犬獣人ほどは鼻がきかねえか。
……もう全部終わってるぜ」
背筋の怖気をごまかすように、ウヴルは笑った。
ウヴルの鋭敏な嗅覚は、己の背後、遠くで大勢の人間が血を流していると察していた。
それを誰がやったのかも、ウヴルは察していた。
猫獣人たちも、やがて何かを感じ取った様子で顔をしかめる。
『これは……一体?』
『血のニオイ……のようだが……』
彼らは背中の毛を逆立て、尻尾を膨らませる。
生ある者なら感じ取らずにはいられまい。血のニオイと共に横溢する、命を呪い、冒涜するかの如き、闇の気配を。
血まみれで、びっこを引くようにフラフラと、こちらへやってくる人間の姿があった。
野伏の冒険者みたいな、野山を駆けるに適した服装。軽く、森に紛れる革鎧。
戦うことや略奪は考えず、森に潜んでこっそりと子どもを攫っていく類いの奴隷狩りだろう。
赤く光る目をしたその男の肌は、徐々に焼けただれて炭のように黒く、やがてはそれすら通り越して灰のように白くなっていく。
苦痛と絶望の表情で彼が己の胸を掻きむしる度、その身体は脆くも崩壊していった。
「た……たす、け……たすけ、おごっ、おぼぁっ!」
異様に犬歯の長い口から、彼が真っ黒な血の塊を吐いたと思った次の瞬間。
奴隷狩りの男は人間大の灰の塊となって、着ていた服や装備だけを残し、崩れ落ちた。
あまりに冒涜的な死を目撃して、猫獣人たちは慄然としていた。
これはヴァンパイアが生み出す下等吸血鬼、ブラッドサッカーだ。
本来は下僕や尖兵として用いるものだが……おそらく、ブラッドサッカーになるかならないかギリギリのところまで血を吸ってから日の下に放り出すことで、酷たらしい苦痛を味わった上でゆっくりと消滅するよう仕向けたのだ。
「無様」
真冬の夜空の星の輝きのように冷たい声がした。
崩れ落ちた男の向こうに、漆黒のメイド装束の女が居た。
彼女は肌は一切露出しておらず、顔すらも喪服のようなヴェールで隠して、さらに真っ黒なパラソルで日を遮っている。
黒一色の色彩の中で、ヴェールの下の真白い顔と、そこで血潮のように赤く輝く双眸が際立つ。
何より彼女の特徴は、艶やかな黒髪の中に存在する三角形の耳。そして、背中にある大きな皮膜の翼だった。
外見的には人間に近いが、彼女は人間ではなく、そして生者でもなかった。
時が止まったように誰もが凍り付いていた。ウヴルですらそうだ。
太陽さえも、闇に恐れをなして光を弱めたかのようにウヴルは感じた。
黒い女は、身動きできぬ長老に近づき、死に行く者を迎えに来た死神のように柔らかく微笑む。
『ご無沙汰しておりました、ウルドーニ様。
ミアランゼをお忘れでございましょうか』
『何……だと!?』