[5-3] 是正措置
昼下がり、ディレッタ神聖王国の宮廷にて。
「フェジェラ市上空を通過した飛行都市は、そのまま北西へと進行中。
進路上のドッタグル、メレーレ両市に対し、遠話にて投降勧告と物資の要求を行っております」
輝くような白と金の装飾は、まさに天井の宮のごとし。
そこに居並ぶは戦の天使ではなく、ディレッタの廷臣たちだ。
端的にして衝撃的な現状報告がされるなり、円卓に座す貴族たちは爆発した。
「だから最初から全力で迎え撃つべきだと言ったのだ!」
「では全軍を投入すべきだったのか!?
此度の戦いでは多くの重要な情報を得られた。それが無いままで戦えば、出せば出しただけ討ち取られていたぞ!」
「魔物の軍勢に負けたという事実そのものが大いなる傷だ!」
「もっと空行騎兵を増やすべきだった!」
「その程度では無理だ!」
この場に集うのは、騎士団長を始め、主立った指揮官や参謀など、ディレッタの武を司る者たち。
彼らの意見は決して一様ではなかった。
空飛ぶ城塞都市なんてものが攻めてきて、どうすればいいか意見をまとめるには時間が足りなかったし、政治的な利害を調整する時間も足りなかった。
時間に背中を押されて無理矢理に話をまとめ、フェジェラ防衛のための部隊をどうにか編制はできたが、それが壊滅したものだから話は余計にややこしくなる。
意見を通した者は責任を免れようとし、不満を飲み込まされていた者はいきり立つ。
「まあ待て、皆の衆」
議論に収拾がつかなくなる前に、機先を制して止める者があった。
やや肥満気味の肉体を、白と金と真紅を組み合わせた豪奢な僧服に包んでいる、禿頭の老人だ。
その男の名は、クリストフォロ・ダ・ドロエット。
筆頭枢機卿の地位にあるクリストフォロは、中央大神殿……すなわち本来政治的に独立している教皇庁と、ディレッタ王宮を結ぶ者。
ディレッタ神聖王国において、神殿勢力は政治と分かちがたく結びついている。その筆頭が、国王の相談役として宮廷に入る筆頭枢機卿なのである。
神殿の代弁者たる以上、普通なら軍事への関与は限定的だ。
だが、今は別だ。
魔物が相手とあらば、神殿は存在感を増す。
神殿騎士たちはもちろん、神殿勢力が擁する地上最強の対邪悪戦闘部隊……『滅月会』によって。
「まずは私から、神殿としての見解を述べても構わぬかね。
……奴らがこのまま立ち去るならば、戦うべきでない」
クリストフォロが一言。
一同は一瞬沈黙し、そしてそれから、また即座に騒々しさが戻った。
「では!
あんなものが神聖王国の空を横切るとも、放置しろと!?」
「左様」
「ドロエット卿、なんという事を!
貴公は誇りを捨てたか! 悔しくはないのか!」
「悔しいに決まっておろうがぁ!!」
窓がビリビリ震えるほどの大声でクリストフォロが咆吼し、震える拳を円卓に叩き付けた。
そして沈黙。
武人たちが、あくまで聖職者で政治家である、クリストフォロの剣幕に気圧されていた。
「あの化け物はっ……
我が息子、神の贈り物、エルミニオの仇!
叶うなら今すぐにでもこの手で引き裂いてやりたいわ!」
クリストフォロは顔を覆い、禿げ頭をかきむしり、慟哭した。
彼の次男、エルミニオは冒険者だった。それが“怨獄の薔薇姫”に殺されたのは、もう十年近く昔の話だが、歳月はクリストフォロの心を癒やしてなどいなかった。
シエル=テイラの解放は、ディレッタ神聖王国にとって久方ぶりの華々しい勝利で、多くの利益をもたらしたが、クリストフォロにとっては苦い記憶なのだ。
「しかし……それとこれとは別だ。
邪悪を討つことと同じくらい、民草を救い神の力と成すことも大切だ。
限られた力はそのために使うべきだろう。今すぐに全力で市民を避難させるのだ」
「……魔物どもは市民を傷つけず、物資と魔力のみを奪って立ち去ったそうだが、避難に注力する意味があるのか?」
「だからこそだよ。
魔物どものそんな姿を市民に見せるわけにはいくまい?」
クリストフォロにこうまで言われては、皆、腑に落ちたようだ。
神の剣たる神聖王国が、魔物の軍勢に敗れたとあっては、顔に泥を塗られたようなもの。それを取り繕う一手を彼は考えていたのだ。戦術的には無意味かも知れないが、戦略的な意義を持つ、政治家としての一手を。
勇敢なる神聖王国の騎士たちが、恐るべき魔物どもの侵略から民の命を守るため動いた……そういう格好ができる。国の体面を取り繕えるのだ。
「此度のフェジェラ防衛部隊には滅月会隊士も派遣されていた。だがそれが戦えもせずに死んだことの意味を考えろ。むやみに戦力を送り込んだところで、掠り傷すら付けられんのだ!
隊士は補充できるが、経験浅い者が増えれば質は落ちる。資源の浪費は勝利を遠ざけるぞ……」
*
白亜の廊下に、色とりどりの光が差し込んでいた。
ガラス窓の代わりにステンドグラスがはめ込まれた廊下が、ディレッタの宮殿にはいくつかあるのだ。
神々の威光を讃えるステンドグラスは、単純に芸術品としても美しい。特にちょうど日が差し込んだ時などは、廊下全体が幻想的に色づいて、天上の絶景を作り出す。
そこに天上の住人が佇んでいた。
不思議な輝きの鎧を身に纏う有翼の女性だ。
僧衣の如き丈の長い装束の上に、乳白色に近い色の胸甲とスカート状の鎧を身につけている。
背中の羽は一切の瑕疵を持たぬ無垢なる純白。柔らかな質感ながらも骨太な印象で、決してこの天使が無垢なだけではないのだと思わせる。
聖印を象った面覆いによって顔は覆われ、表情は口元しか窺い知れない。
光の乱舞の中で、翼を折りたたんで物憂げに壁に背を持たせ、腕組みをしている彼女の姿は、まるで宗教画のように神々しく美しかった。
少なくとも、彼女が大あくびを一つして、スカートの隙間から手を突っ込み尻を掻き始めるまでは。
「てーんーしーさーま!」
「わっ!」
パメラが声を掛けると、かの天使は……ディアナは飛び上がらんばかりに驚いた様子だった。
「やっと見つけた。何してるんですか、こんなとこで」
「あんたこそ、なんでここに居るんだい」
「あなたが居る場所なら私は入れるんです! お世話係ですからね」
パメラはまだほんの20歳で、しかも女で、平民の生まれだ。
だが普通ならあり得ないことに司祭の地位を持ち、時にはこうして宮殿の奥深くにまで立ち入ることが許されている。
それはパメラが極めて特別な役割を持つためだ。
神々の御使いとしてディレッタ神聖王国に送り込まれた戦乙女、このディアナの傍近く仕え、侍女として彼女の世話をするというお役目が。
そのお世話係に行き先も伝えず、ふらりと己の宿を出てきたディアナは、ちょっと決まり悪そうに弁解する。
「アタシぁ呼ばれたから来たのさ。
ま、別にアタシが居なくても大丈夫そうだから、終わりかけた頃に義理で顔だけ出してやろうと思ってんだけど」
「それでいいんですか?」
「別に上から、どうしろとは何も言われてないんでね。今のとこ。
陰険な話し合いが好きな奴らに頑張ってもらおうじゃんか」
ディアナは親指で廊下の先を指した。
この向こうで今まさに軍議が行われているようで、騎士たちの議論する声が二人のところまで聞こえていた。
具体的な内容までは分からないし、聞こえてもパメラには理解できないだろうが、声音の雰囲気から察するに先は長そうだ。
「まだ掛かりそうだね。
適当に酒でも飲んでるよ」
「おばっ……
天使様!」
ディアナが宙に手をかざすと、その手の中に巨大な酒瓶が現れた。
収納の魔法だ。
天使であるディアナは、定命の者らとは段違いの魔法力を持つのだが、その魔法力を彼女は、よりによって酒瓶を携帯するためなんぞに使っているのだ。
しかもそれをコップさえ使わずにラッパ飲みし始めたのだから、パメラは慌てて周囲を見回して人が居ないか確認した。
「あーあ、これきりじゃ酔えやしない。この身体も良いことばっかじゃないねえ」
「人目につく場所でそういうことをしないでくださいと、何度……!」
「だーかーら、文句を言いたい奴にゃ言わせときゃいいのさ。
あいつらが困ったとしてもアタシは困らないよ」
「私も困るんです!」
悲鳴に近い声でパメラは言って、ディアナの手から酒をひったくった。
「いいですか? 私はあなたの立場をかなり理解していると思っています。
ですが、だとしてもあなたが自堕落な生活を送ることは容認しません。
夜に寝て朝に起きること。部屋を散らかしたなら自分で片付けること。外に出るなら適切な装いをすること。お酒や煙草は適切な場所で適切な量を嗜むこと。
多くを求めはしません……と言うかもう諦めてますから! せめて真っ当な人と同程度の振る舞いをしてください!」
まくし立てながらにじり寄る剣幕に押され、ディアナは徐々に後退し、ついには壁に追い詰められた。
手を上げてホールドアップしたディアナは、そのまま器用に肩をすくめる。
「あんた、アタシの母ちゃんか何かかい?」
「お世話係ですっ!」