[5-1] 戦慄
山脈が崩れた。
と言うよりも、それはまるで、身を潜めていた者がマントを脱ぎ捨てて立ち上がったかのようにも見えた。
魔法で山を削って作られ、山に埋まっていた城が、浮かんだ。
崖から突き出して外に見えていたのは、一部の尖塔部分のみ……つまり、城の頭の先だけだったのだ。
崩れて転げ落ちる岩の下から現れたのは、壮麗、巨大にして堅固な、漆黒の魔城だ。中心にある本城を軸として、いくつもの建物を繋げた構造の王宮だった。あちこちが装飾的に尖らせてあって、遠目にはまるで、黒い茨に城全体が覆われているかのようにも思われる。
それは普通の城のように城壁を備えていたが、その形は独特だった。
城壁は、城への攻撃を遮るほどの高さは無く、その代わり下方向に分厚く、城の基部と一体化していた。
どちらかと言うと、ホールケーキのような形の台座の上に、城を載っけたような姿だった。
城によって抱え込まれた屋内部分こそが、この都市の本体。
“機動凌雲廃都”シエル=ルアーレ。
それは、都市機能と民を抱え込んで空を飛ぶ城塞都市である。
*
銀幕の如く、宙に浮かんだ水鏡に、幻影が映し出されていた。
遠く、帝国の南の果ての光景が。
水晶玉から投射される光は、ク=ルカル山脈という殻を破って生まれ出でた、巨大な空中都市を水鏡に描いていた。
「ふ、ふふふ、ふはははははは!
あっははははははは!!
奴らは本気でこんなものを作っていたのか!」
ケーニス皇帝・竜淵は、玉座の肘掛けを叩いて笑っていた。
本当に愉快そうにひとしきり笑ってから、やにわに、竜淵は水鏡を鋭く見据える。
「なるほど、なるほど……
あんな馬鹿げたものへの対策など、どこの国もできていない。
これで『シエル=テイラ亡国』は、少なくとも向こう幾年かの優位を得た」
どうすれば、あの浮遊都市と戦えるか。竜淵は頭の中で既に考えを巡らせていた。
仮に勝てるとしても準備には時間が掛かる。そして、それこそが重要なのだ。
この世界は今、“怨獄の薔薇姫”の手番。賽は彼女の手中にあった。
「おそらく“怨獄の薔薇姫”は、あの浮遊都市が無敵である間に、天下に名を轟かせる最高の勝利を求めるでしょう。
……確かにあれは重大な脅威。なれど、大国は落とせませぬ。列強の広さに、あれだけでは対抗しきれまい」
傍らの大将軍・星環は、過小にも過大にもならぬよう、慎重に評価を述べる。
竜淵も同意見だった。
「左様。即ち……北だ」
勝つことができて、その旨味がある戦場は、彼女にとってどこか。
あのグラセルム鉱山群を手中に収めたとしたら、勢力拡大に繋がる大戦果となる。
何よりも、為政者には物語が必要なのだ。
“怨獄の薔薇姫”はやり残した復讐を遂げるため、災禍の軍勢を率いて、雪深き北の地へ帰郷する……
* * *
王城の庭園は、ガラス張りの温室に改装されていた。空を飛ぶ以上は風よけが必要になると考えての措置である。
毒草の花が咲き乱れる庭園は、燦々と日光が差し込んで、冬の空を飛んでいるというのに温かかった。
バルコニーのように少し張り出したデッキからは、王宮全体と、その向こうの下界が見渡せる。
草原が、小川が、林が、まるで足下に吸い込まれるように流れ去っていく。
「…………よかったああああ、ちゃんと飛んだわあ」
「皆の前では言わないでよね、それ」
「そりゃもちろん」
空を飛んでいるという実感がようやく湧いたのか、エヴェリスは手すりにもたれて脱力する。
この都市の設計者である彼女は最高の仕事をしたのだろうが、どんなにミスを潰しても、部位ごとのテストを行っても、実際に運用してみるまで見つからない不具合というのは往々にして出てくるものだ。
都市が巡航モードに入ったので、ルネたちは小休止中だ。
ルネは『一口で死ぬけれど美味しい』と評判の毒草茶を飲んでいた。
「どうかな、姫様。ご感想は」
地を睥睨するエヴェリスの隣まで行って……身長が足りなくて下が見えなかったので、ルネは手すりに飛び乗った。
流れゆく大地を見て、それからルネは、頭上の雲を、太陽を見上げた。
“凌雲”の名を冠するこの都市は、実際飛ぼうと思えば雲より高く飛べるが、飛行のために地と風の術式を併用している都合、大地に近く大気が濃い、しかし風は浴びられる程度の低空飛行で最大の燃料効率を発揮する。
まして、いくら高度を上げても、神の座すという天界に届くわけではない。
「まだ遠いわね」
「その意気や良し」
ルネの言葉を聞いて世界征服コンサルタントは、実に軽い調子でカラカラと笑った。
「そんじゃ、私はあちこち見回って来るわ。
今現在動いてるこの街全部が、貴重な研究データの宝庫だもの」
「成果を期待してるわ」
「それとミアランゼには一時間以上日光浴をさせないように」
言われてルネは、花壇の方を見た。
庭園の真ん中の特等席、柔らかな草の上でミアランゼが丸くなっていた。
降りしきる日差しに黒髪が艶めき、耳がそよぐ。尻尾の先の赤い花が、活き活きと日を浴びていた。
「……不摂生行為なのね、これ」
「気持ちよすぎて蕩けそうです……」
「本当に溶けるわよ」
猫獣人と植物の本能が、吸血鬼の体質とせめぎ合っていた。
* * *
ク=ルカル山脈の東の果てから、ジレシュハタール連邦のすぐ東まで行くという事は、つまり世界を南東から北西へ、ほぼ横断するに等しい。海の上を迂回していてはとんでもない遠回りだ。
すると航路上の国々を横切らねばならない。
大陸の中部には二つの大国が存在する。
北側にノアキュリオ王国。南側にディレッタ神聖王国。
シエル=ルアーレはク=ルカル山脈に沿うように、やや南寄りの進路を取り、やがてディレッタ神聖王国の東端に現れた。
そして国境付近の都市・フェジェラを見下ろす位置までやってきた。
『ディレッタ神聖王国に告ぐ!
我々はシエル=テイラ亡国である!』
空中の巨影は朝日を背負って、街に大きな影を落とした。
それを街壁や、その周囲に展開した軍勢が見上げていた。
街壁上に並ぶは大量の大砲、攻城弩、そして弓兵たち。
地上にも魔動兵器類や、発進を待つ空行騎兵、それを援護するように構える兵士や騎兵が陣を構える。
さらには白と金の毛並みを持つ奇怪な獣たち……神聖魔法によって神官が天より賜る召喚獣『神獣』の類が控えている。
シエル=ルアーレは、流石に鳥が飛ぶほど速くはない。
接近を知り、それに備えるだけの猶予はあったのだ。ディレッタ神聖王国は防衛のための部隊を準備し、これを展開した。
ただし、備える時間はあれど、空を飛んで向かって来る街にどう備えればいいかなんて知識は、この世界の何処にも存在しなかった。少なくとも、今は。
そのためか、部隊規模も中途半端に大きいように見受けられた。死守する気か、転進も視野に入れているのか、小手調べのつもりか、いまひとつ判然としない。宮廷の混乱が目に浮かぶ有様だ。
『我が国はディレッタ神聖王国による極めて不当な侵略を受け、現在国土を占領された状態にある。
我々は、我らが国土よりディレッタ神聖王国全軍が即時撤退することと、被害回復のための賠償を求める!
この要求に一切の妥協は無く、拒否するのであれば血の代償を支払うことになるであろう』
魔法によって拡声された国軍元帥アラスターの呼びかけが、ディレッタ神聖王国の空に轟いた。隣街くらいまでは聞こえているだろう。きっと、遠話を通じて宮廷にも。
シエル=テイラの旧領土は東西に分裂し、その東側は実質的にディレッタ神聖王国の傀儡であった。
これはディレッタ軍が“怨獄の薔薇姫”を追い出して王都を『解放』した経緯と地続きだ。ディレッタと、ディレッタ側についた諸侯は、グラセルム鉱山の権益を共有しており、西アユルサ王国とジレシュハタール連邦にそれを奪われないよう、ディレッタは抑えとなる程度の戦力を駐留させていた。
もちろん、それは『シエル=テイラ亡国』にとっては不当な侵略と占領であった。
『その一環として我々はフェジェラ市に対し、魔石10万ユニット相当の魔力と、金貨1000枚相当の食料を要求する。
これはディレッタ神聖王国から、我が国への賠償支払いの一部と見做すものである。
要求に従い、敵対的行動を取らないのであれば、我らは…………』
アラスターの声に負けぬほど大きな、砲声が轟いた。
フェジェラの街壁上に並んだ大砲が、一斉に実体弾砲撃を行ったのだ。
打ち上げる形になったが射程は充分。それに、なにしろ的が大きい。砲弾はほとんどがシエル=ルアーレの外壁に突き刺さった。
大抵、街壁・城壁には魔法に対する防御機構があるもので、それ故に魔力投射ではなく、実体弾で壁を崩していくのが基本だ。
だが、シエル=ルアーレの外壁装甲に揺るぎは無し。穴すら空かない。外見的には全くの無傷である。突き刺さったはずの砲弾が、ぼとりぼとりと地に落ちていく。
黒光りする外壁装甲は、石ではなかった。表面は実験的な設計の流体金属装甲だ。
硬化による防御、軟化による受け流し、そして穴埋めも自在。一般的な対魔法防御に加え、最小の魔力消費で最高の対物理防御性能を備える。
こんなものを作る技術は列強にも無い。
いや、仮に作れたとしてもここまで壁そのものにコストを掛けないだろう。
障壁展開装置や砲の一門でも付け足した方が、効率的に壁を守れるからだ。
だがシエル=ルアーレに限っては事情が別だった。都市攻囲をする敵軍が大砲を持ってくるだけの地上の都市とは異なり、対都市の砲撃戦も想定している。敵対都市街壁からの苛烈な攻撃にも耐えうる防備だった。
戦いの前に双方が戦場で正当性を主張するのは儀礼であり、これを遮ることは最悪の敵国同士でも普通あり得ない。
相手を軍ではなく、討伐すべき魔物の群れと見ての対応だった。
『よろしい。では強制的に徴収致す』
シエル=ルアーレ外壁の一部である第十一から第二十七砲塔が、収納していた砲を一斉に展開し、眼下の街に砲門を向けた。