[4b-34] 武装侍女 ミアランゼ
亀裂が入り、綻んでいた蕾が、ぶるりと震えたようにスティーブには見えた。
堅固な『殻』であった蕾が、花弁となる。花となる。
花弁は内も外も鮮血のように赤い色を持っていたが、同時にそれ自体、血まみれであった。
花が開いていくと共に、まだ花の中に溜まっていた血が、ぼたぼた滴り落ちていく。
花弁の上で舞踏会が開けそうなくらい、巨大な花が咲いた。
その巨大すぎる花弁は自重によって、だらりと、地に垂れる。
肉厚な花弁は、内側からの爆発によって傷つき、一部は裂けていたが、その傷は決して致命的ではない。この巨大花が持つエネルギーの前では掠り傷とすら思えた。
滑らかな花弁の表面を、涙のように血が流れ落ちた。
巨大な蔦によって街中の人々から集めた血の、最後の残りが。
そして、それと一緒に花弁の上を滑り落ちてくるものが一つ、あった。
巨大な花と比較したら、種のように小さかったけれど、見落とすことなどあり得ない。異質でおぞましい存在感ゆえに。
色彩は、白と黒。
羊膜に包まれて丸まっている人……の、ように見えた。
肌は死体のように青白いのに美しく、長く美しい黒髪が濡れ濡れと輝いて、裸体に纏わり付いていた。
「くああああ……」
それは動き出し、産まれ出で、猫のように背中を伸ばして欠伸をした。
そして粘液塗れの身体を引きずるように起き上がる。
若い女であった。少なくとも外見上は。
外見的にはほぼ人間であるが、奇妙なことに、頭頂部に三角形の耳が、そして腰からは長くしなやかな黒い尾が生えていた。さらに尻尾の先には、まるで赤いリボンを結んだように、真っ赤な花が一輪咲いていた。
彼女は手の甲で顔を拭って……そこで、己が裸であると気付いたようだ。さっと何かを払うように手を振る。
すると一瞬、彼女の周囲に血煙が渦巻いて、像を結ぶ。
次の瞬間、彼女は、服喪の黒を思わせるメイド服を身に纏っていた。
背中から全身の血管を引きずり出されているような、おぞましい重圧をスティーブは感じていた。
スティーブは直感した。
自分たちを苦しめた吸血花の猛威は、謂わば、眠れる吸血鬼の寝返りや寝言のようなもので、その本体、本質は、彼女だったのだと。
その時、崩落した天井の穴から、一直線に降ってくるものがあった。
白いドレスをたなびかせて落ちてきた小さな人影は、血飛沫を上げて着地した。
「おはよう、ミアランゼ」
「……姫様」
スカートに鮮血の薔薇を刻んだ、銀髪銀目の少女。
“怨獄の薔薇姫”だ。
ミアランゼ、と呼ばれた吸血鬼は彼女の前に跪く。
――“怨獄の薔薇姫”が、ここに! では地上の戦いは……
四人の滅月会隊士が“怨獄の薔薇姫”と戦っていることは、スティーブも察していた。彼らも地下の巨大花を止めようとしたが“怨獄の薔薇姫”に捕まってしまったのだろうと。
……事実は逆で、四人は地下の仕掛けなどには目もくれず“怨獄の薔薇姫”を深追いして、捕らえたと思ったところで返り討ちに遭ったわけなのだが、スティーブは知る由も無い。
ミアランゼはぺたりと耳を伏せ、膝の前に尻尾を巻いて、深く頭を垂れていた。
「申し訳ありません。
大変な遅参を致しました」
「大丈夫よ、遅刻ではないから。
それと……」
“怨獄の薔薇姫”は、ミアランゼと共に跪くエルフの戦士の前に行く。
「よく戦ったわ、ガトルシャード。
ミアランゼの復活まで、よく耐えてくれたわね」
「もったいなきお言葉にございます」
エルフの戦士、ガトルシャードは、跪いたまま感動に打ち震えている様子だった。
「あら、もう生まれてた」
聞き覚えのある声がした。
いつどこから入ってきたのかも分からないが、ジャスミン・レイと名乗るあの女が、パーティードレスのままで、そこに居た。
血の池は波立ってジャスミンを避け、ドレスを汚さないよう、彼女の周囲だけ床を露出させていた。
「上は大丈夫なの?」
「なんとか目途は立ったかな。
今は助手ズに任せてるけど、メディカルチェックだけ終わったらすぐ戻るわ」
「魔女様。
私のために手を尽くしてくださいましたこと、朧気にではありますが覚えております。
ありがとうございました」
「あははは、いいのいいの!
むしろ私も色々と実験できたからね。仕事の良い息抜きになったわ」
ジャスミンはカラカラと笑う。
彼女らの間の空気は、面食らうほどに和やかだった。
「で、あれは?」
「はっ。
蕾を狙っていた敵にございます」
一通り話して、ようやく皆の意識がスティーブたちの方に向いた。
スティーブがここに居ることは、それ程の些事であった。
二人は辛うじて陰謀に一矢報いたが、もはやそれさえ、『シエル=テイラ亡国』ご一行様にとってはどうでもいい事になっていたのだ。
殺す必要があるなら最初に殺されていただろう。もはや、その必要すら無いと言う事。
もっとも、だからと言って生かして帰す理由も、無いわけだが。
「姫様。お目汚しを謝罪致します。
あのゴミを速やかにお掃除致しましょう」
進み出たのはミアランゼ。
血潮の色に輝く彼女の目に浮かぶのは、憎しみと嫌悪だった。
彼女はスティーブらを掃除すべきゴミとしか見做していない。
スティーブは頭の中で構築した術式の最終チェックを切り上げ、己にミスが無いことを祈りながら、ままよと、スーツの裏に忍ばせていた杖を振り下ろした。
その途端、世界がねじれて曲がって、流転した。
*
「消えた?」
二人の警察官僚は、忽然と消え去っていた。
エヴェリスは首をかしげつつ、二人がさっきまで居た場所を見に行く。
彼女は魔法で血溜まりを払っているが、その彼女の足下に、小さな魔法陣が姿を現した。
金貨の転送のため、部屋全体の床に描いたものとは違う、新たに描かれた小さな魔法陣が。
「お、私ほどじゃないけどすごい。
即興で完璧な転移魔法陣、描けるのか」
「今のは『ノームの左手の杖』?」
「だわね。
陣を床石に刻んで、この血を魔力リソースに使ったのね。
転移魔法陣の起動に使うなら、聖も邪もないし」
これにはルネも、なるほどと思った。
流れ出して部屋中を満たしている血は、まだまだ濃厚な魔力を宿している。
それを使えば、二人まとめての転移くらい可能だろう。
「表まで追いかけて殺したくはないのよね」
「そーねえ。
そこまで読んでたとしたら大したもんだけど……」
ここで殺して召し抱えたところで、当面、表に出すには外聞の悪い駒になる。
だからまあ別にどうでもいいかと思っていたルネだが、意外な有能さを見せつけられた。逃した魚はちょっとだけ大きかった。
まだ殺意が収まらぬ様子のミアランゼの喉をルネが撫でてやると、たちまち彼女はゴロゴロと喉を鳴らし始め、たまらぬ様子でルネの腹の辺りに頬を擦り付けてきた。
彼女の髪に見えるものは、人の髪とは質感が異なる獣毛だ。それは実際、獣毛のように抜けやすく、白かったドレスはぽつぽつと黒くなった。
「ま、いいわ。
まずは目的の達成を優先。
成功しかけた時の最後の一歩が一番危ないんだから」
「おっと、それも姫様の故郷の名言かい?」
「木登り名人の言葉だそうよ」
「あっはっは、木登りか!」
一夜の馬鹿騒ぎもクライマックスを過ぎ、終局へと向かう。
無責任な観客たちにとってはそれで終わりだが、シエル=テイラ亡国の戦いはその後に続くのだから、最後まで気を抜くわけにはいかないのだった。