[4a-43] 終ノ獄 怨獄の薔薇姫②
ウィルフレッドの唐突な叫びに、誰もが唖然としていた。
一体何を言いだしたのかと。
だがウィルフレッドは大真面目だ。
上着を脱ぎ捨て、文字通り腹を括り、ウィルフレッドはワキザシを手にする。
「ハラキリは我らサムライにとって、誉れある自裁だ!
恥を雪ぐため! 罪を精算するため! サムライは腹を切る!
……だがそれも、ハラキリの一側面でしかない!」
道場で教えられたことは全て学んだつもりだ。
しかして、その神髄を知る事は叶わぬ。
誇りを賭け、魂を賭け、キャサリンの命すら賭かったこの死地にて、サムライの極意を己の心から掴み取った!
「恥を! 罪を!
家に、先祖に、子孫に、兄弟姉妹に……そして大切な人に被らせぬため、それを引き受ける自己犠牲!
それこそがハラキリの精神、サムライの魂と! ウィルフレッド・ブライスは見つけたり!!」
目を閉じれば今でも思い出せる光景。
ウェサラ崩壊の日。
押し寄せる異形の軍勢。
命懸けで人々を、そしてウィルフレッドを救った……一人のサムライの背中。
ウィルフレッドはテヌグイをワキザシに巻いて、刃を直接手にした。
そして、その先端を自らの腹部に向ける。
「【気刃】を丹田に直結し、経絡を短絡暴走させる。さすれば俺の身体は爆発四散して……死ぬなあ」
己を死の淵へ立たせ、ウィルフレッドはギロリと周囲を睨め付ける。
「知ってるぞ! お前ら、二人殺せば助けて貰えるんだろ!
だがここに獲物はもう二人っきりだ。俺がハラキリで死ねば、お前ら二度と助からねえ!
ああ、既に一人殺してる奴も居るかもなあ! だがそいつらも助かるチャンスは半分になるぜ! 獲物が二人なら運良く片方取れるかも知れねえが、キャサリンだけじゃ厳しいだろ!」
ウィルフレッドのしようとしていることを理解して、背後でキャサリンが息を呑む気配があった。
ウィルフレッドはこの土壇場で、己を人質にしたのだ。
傷ついた姿の悪霊たちは、きっと、死の瞬間の痛みを抱えたままで彷徨わされている。
その苦痛から逃れるためルネに従っているのだ。役目が終われば解放すると言われて。
彼らはもう、ウィルフレッドとキャサリンを殺せることを疑っていない。事実それは確かだろう。この数の悪霊に一斉に襲いかかられたら為す術が無いのだから。
となれば、気に掛かっているのは『誰が殺すか』。つまり『自分が殺せるかどうか』だ。
焦ったのか、最前列に居た者の一人が一歩踏み出そうとする。
「おっと、動くな!」
同時!
ウィルフレッドはワキザシを己の腹に突き刺した。
「きゃあ!?」
「……なんてこと、ねえぜ……!」
ウィルフレッドの首筋に冷たい汗が浮かんだ。
自分自身の刃は、熱く、鋭い。
だが急所は外した。まだ生きている。ハラキリを完成させるにはハラキリ十字を描かなければならないのだ。
ウィルフレッドが本当に腹に刃を突き立てたことで、悪霊たちは衝撃を受けた様子でどよめく。
掴みかけた獲物を逃したくないという考えもあるだろうし、ウィルフレッドの狂気的な覚悟に驚愕したのかも知れない。
「俺の首が欲しいなら、ちっと賢くやらなきゃならんなあ。
だから取引をしようぜ。お互いにチャンスを掴める取引だ。だがこのままじゃ落ち着いて話し合いもできねえ!
分かったらお前ら、頭の後ろに手を組んで正座しな! それ以外の動きをしたら、即座にこの腹、掻っ捌くぜ!」
冷たい風の音すら吹き飛ばし、見得を切るウィルフレッドの朗々たる声だけが、幻の王都に轟いた。
悪霊たちは呆然としていた。
彼らは苦痛のあまり狂乱しているだけで、知性を失ったわけではない。
むしろ苦痛で判断力が低下しているのは好都合だったとも言える。
これだけ居れば一人や二人は言われるままに動いてしまう。
さすれば後は、雪崩を打つ。
ばらばらと、悪霊たちが膝を折って座った。
正座が何なのか分からないらしい者も手を組んで伏せる。
瞬く間に、包囲陣の四割ほどが戦闘放棄の体勢となり、残りの者も戸惑っている様子だ。
それで充分だった。
昏い闇に沈んだ王都の風景が明け方の夢みたいに霞んで、厳冬のシエル=テイラにはあり得ない生ぬるい風がウィルフレッドの頬を撫でた。
そんな気がした。
――世界が揺らいだ……?
まばたきをすれば、また同じ景色。
しかしルネの引き攣った表情を見れば、この異界に致命的な瑕疵が刻まれたことは瞭然だった。
『今だ、キャサリン!!』
「は、はいっ!」
念話の男の声を聞き、キャサリンは己が為すべき事を悟ったようだ。
祈りの形に手を合わせ、そして銀鞭を空に掲げた。
ぴしり。
涼やかな音を立て、夜天に光の亀裂が入る。
そして、空が砕けた。
無限に続くように思われた闇夜が、書き割りみたいに薄っぺらい、黒いだけの破片となって砕け散る。
空に空いた大穴の向こうには、嵐が過ぎ去った雲一つ無い青空。
目も眩むようなまばゆさで初夏の陽光が降り注ぎ、闇を払った。
ぬるく湿った風が吹き込み、吹き下ろしてくる。
こんどはウィルフレッドが呆然とする番だった。
しかし、陽光に灼かれる悪霊たちの悲鳴を聞いて、はっと我に返る。
邪気を祓う浄化の苦しみだ。
「おい、お前ら! 上だ、飛ぶんだ!
天国だか地獄だか知らんが、行けるぞ! 逝けるぞ! 逃げられるぞ!!」
ウィルフレッドの言葉に呼応して、轟、と風が逆巻いた。
異界に縛り付けられ、悪霊として彷徨っていた者たちが、逆さ竜巻の如く空の穴へと吸い込まれていく。
「嘘……そんな」
血まみれのルネは、石畳と、自身が流した血の上にへたり込んで空を見上げていた。
ルネの手勢であった悪霊たちはことごとく昇天していき、辺りはたちまち閑散としてしまった。
そんな中、どこからか姿を現した、みすぼらしい囚人服姿の男が一人。
「やれやれ……仕事はできたかな」
「さっきのおじさん!」
「『おじさん』はよしてくれ。こんな格好じゃ分からないかも知れないが、俺はまだ『お兄さん』と呼ばれたい歳なんだ」
「じゃあ『少年』とか言わないでくださいよ」
「そうか、これは墓穴だったか」
大げさな溜息をついて、男は、二人のルネの前に進み出る。
「こういう展開を予想できなかった時点で負けだ。
結局のところ……弱点を捨て去った“怨獄の薔薇姫”など最強でも最悪でもない。
怨嗟の下に存在する人間性の残滓こそが。人心を惑わし掴む、最強の武器なのだから」
疲れ切ったように昏い目をして、男は小さく首を振った。
ルネの手が赤刃を強く握りしめていた。
「遅かれ早かれ噴出していた矛盾だろう。
孤独なままでは戦えないのに、『孤独である事の強さ』を守ろうとしていたのではな……」
「どうして……邪魔をするの」
「『どうして』? そんなこと分かってるはずだろう?
お前は俺なんだから」
男は虚無的に笑う。
その笑いは皮肉と言うよりも、自嘲に近いように思われた。