[4a-37] 四ノ獄 凍牢②
長くて分岐だらけの石廊下の奥から、けたたましい声が響いていた。
「……きえええええい!……」
『……オオオオオオオ……』
『……アアアアアア……』
亡者たちの声も、洞穴を吹き抜ける風の如く、怖気を誘う響きを伴って聞こえてくる。
どこかで戦いが起きているのは確かだった。
おそらくキャサリンの持つ『銀鞭』の効果圏内には居るのだろう。少なくとも戦いになってはいるのだから。
だが、これだけ多くの敵が居る状況で戦いになってしまえば、いずれにせよ詰みだ。
「くそっ、反響してどっちから聞こえてるやら……」
「道もなんだかおかしいです、同じ方向に四回曲がったのに別の場所に出ました」
向こうがどんな状況かは不明ながら、取り残されたキャサリンとウィルフレッドは、ひとまず合流を目指していた。
だが何かがおかしい。
すぐ近くから声が聞こえている気がするのに、同じような景色の違う場所を延々歩かされているように思われた。
「待て」
そんな最中に突然呼び止められ、ウィルフレッドは口から心臓が飛び出すかと思った。
こんな場所で声を掛けてくる者が居るはずないからだ。
それは、概ね三十路ほどに思われる人間の男だった。
亡霊や魔物にも見えず、まして生存者にも見えない。
これと言って特徴の無い、どこかくたびれた、野ざらしの案山子のような雰囲気の男だった。
黒い髭と髪が整えられぬままに伸びた様子で、黒白の縞模様というステレオタイプな囚人服を着ている。そして闇のように黒い目で二人を見据えていた。
「戦いの場を探していては、貴重な時間を浪費するだけだ。
それよりも、君たちはこの隙にやらなければならないことがある」
「……誰だ?」
「済まんが語れば長くなる。そんな時間は無い」
男は近づいてくる。
ちゃんと足音がしたし、足は透き通っていなかった。
「一つであるべきものが三つに分かれている……
これは、良くない。君のせいだが責めるわけにもいかない」
「何を……」
「いいか、落ち着いて聞け!
ケーニス帝国の者らが予想外の奮戦を見せている。“怨獄の薔薇姫”を釘付けにしてしばらく時間を稼げるだろう!
その間に『ルネ』を探せ! 助け出すんだ!」
男は妙なことをキャサリンに言って、道順の書かれたメモを手渡した。勢いに圧された様子でキャサリンはそれを受け取る。
「ケーニス帝国の連中を助けるにせよ見捨てるにせよ、今できるのはそれだけだ。
……騎士に気をつけろ、あれは亡霊ではない。
“怨獄の薔薇姫”の使い魔のようなものだ。『ルネ』を助けようとするなら邪魔するだろう」
彼がそう言ったときにはもう、ガチャガチャと鎧を鳴らす足音がどこからか聞こえ始めていた。
噂をすればなんとやら、ではなく単に彼は最初から追われていたようだ。
「まずいな……騎士が来る。
俺が引きつける。その隙に行け!
それと、もうすぐオルゴールが鳴る時間だ。これはどうしようもない、耐えて進め!」
言うだけ言って、男は踵を返し走り出した。
そして十字路を曲がる。
『いタ……ぞぉ!』
『捕らエろ!』
全身を騎士鎧に包んだ何かの集団が男を追いかけ、ウィルフレッドとキャサリンには気付かぬまま、目の前の十字路を横切っていく。
そして全てが去って行き、二人だけが取り残された。
謎の男と出会ってから、一分足らず。
嵐が吹き抜けていったような時間だった。
「なんだってんだよ、一体……!」
流石にこれは、唖然とするより他にない。
極限状態で幻覚でも見てしまったのかと一瞬疑うが、それが幻覚でない証拠に、キャサリンの手には奇妙なメモが残されている。
曲がるべき道と入るべきドアが文字のみで記された、道案内のメモだ。
「……これ、従いますか? 罠かも知れませんが」
「現状が既に罠に掛かっているようなものです。
これ以上悪化はしないでしょう」
「まあ、確かに」
「それに……なんだか悪い方には思えませんでした」
妙に思いながらも、しかし罠に嵌めるつもりならこんな回りくどいやり方をする必要は無いだろうとウィルフレッドは考えた。
冬黎のことも心配ではあるが、居場所を探しても埒があかないのが現状だ。
それに謎の男が言う通りなら、今こそ奇妙な異世界の核心を暴く千載一遇の機会やも知れない。この世界から逃げ出す道を見つけられなければ、助けるも何もあったものじゃないのだ。
コンバット摺り足で足音を殺し、周囲の気配を探りながら、ウィルフレッドはニンジャの如く進んだ。
キャサリンが押しつけられたメモに従って道を選んだが、やはりこの建物の中は空間が歪んでいる様子で、一周して同じ場所に戻ってきたはずなのにさっきと違う廊下に行き当たったり、脇道の中に先が見えないほど長い廊下が存在したりしていた。
帝国兵たちと悪霊の戦いの音は、相変わらず、近くか遠くか分からない場所から響いていた。
「建物の構造がメチャクチャだ。こんなの道が分からなくちゃとても進めないな」
脈絡無く存在している、かまどに蜘蛛の巣が掛かったキッチンを抜けながら、ウィルフレッドは呟いた。
――しかし、あんな風にこっちを転移させて罠に嵌めることができるなら、なんで今までやらなかったんだろうな? 何か重大なリスクでもあるのか?
ふと、ウィルフレッドは冬黎と帝国兵たちが消えた先程の出来事が気になった。
おそらく彼らを転移させて、悪霊たちが待ち構えるど真ん中に放り込んだものと思われるが、そんなことができるならもっと早くしていればよかったはずだ。
そんなことを考えていた時だった。
「オルゴールの音が……どこからか……」
キャサリンが呟き、立ち止まった。
「何?」
「この曲は……
『我が祖国の白き輝きは永久なり』。シエル=テイラ国歌です」
ウィルフレッドはいくら耳を澄ませても、どこか遠くから聞こえる戦いの音と、反響する亡者たちのうめきしか聞こえない。
そう言えばキャサリンは、この世界に来た最初の夜にも、オルゴールがどうのと言っていた。
二日目の夜は地下で、三日目は遠く東側で、彼女は何も言わなかったけれど。
「そんなもの全然聞こえな……」
「うううっ!」
「キャサリン!?」
唐突にキャサリンが頭を抱えてうずくまった。
「……う、ああ……やめっ…………そんな、何っ……このようなっ……」
「ど、どうしたんです!?」
「眠い……どうして……」
押し潰された悲鳴みたいな声を喉で鳴らしながらキャサリンは、身をよじり、丸くなる。
顔面蒼白で、呼吸は激しく乱れていた。
そのような状況でありながら、キャサリンは眠ってしまいそうになっていた。
瞼は重たげで、身体は力を失って弛緩している。
世の中には相手を眠らせる魔法というのもあるが、それを受けたときの反応に似ているようにウィルフレッドは感じた。
キャサリンは覚束ない手つきで、ベルトに固定してあった野外活動用のナイフを引き抜く。
そして。
「あああああああっ!」
「な!?」
彼女は叫びながらそのナイフを。
自分の左手の甲に、突き立てた。
鋭く磨がれた(もしかしたら『鋭刃化』を施したマジックアイテムかも知れない)ナイフはキャサリンの手を貫通して手の平から刃を生やし、雪のように白かった彼女の手を滴る鮮血によって赤く染める。
閉ざされかけていた彼女の目が、見開かれた。
「…………はぁっ、はぁっ……」
「キャサリンさん……」
「大丈夫です……大丈夫です……でも、こんな……」
水を被ったように冷や汗を流す彼女は、うわごとめいた口調で言った。
「うううっ……!」
うめきながら彼女はナイフを引き抜く。
そして治癒ポーションを取り出し、自ら穿った傷にぶっかけて治療した。
「妙な……夢を見せられました。
それで色々なことが分かりました……」
キャサリンは何かに取り憑かれて動かされているかのような調子で訥々と語る。
「ニール・メイリッジ氏は……旧シエル=テイラの動乱に加担していたようです」
「何?」
「ヒルベルト二世によるクーデターの際、ファライーヤ共和国は、いわゆる『隠密』に当たるような特殊部隊を派遣してヒルベルト二世を支援しました。
彼もその中に居たようです。
彼の所業を、その記憶を……叩き付けられました。おそらくはルネ自身の記憶を……」
キャサリンはそこで胸を押さえ、短く呼吸をする。
彼女は、自分が何を見たのか具体的に語ることを巧妙に避けた。
「きっと、ルネは……音楽を媒介とした魔法によってそのイメージを伝播させているんです。
それで悪霊たちは誰が『罪深き者』なのか悟って、捕まえに来た……」
そこでようやくキャサリンは、傍らに人が居ることをやっと思いだしたかのようにウィルフレッドの方を見た。
赤と灰のオッドアイが、視線の定まらぬままウィルフレッドを見ていた。
「……ところで、ウィルフレッドさんは何も見えなかったのですか?」
「いや、全然……
オルゴールの音なんて、欠片も」
「……帝国兵の方々も今まで何も言わなかった。
もしかしてこれは女性だけに聞こえて……」
決意を固めるように深呼吸を一つして、それからキャサリンはふらりと立ち上がる。
「すみません、私は大丈夫です。行きましょう」
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃなかったとしても、立ち止まれる状況ではないでしょう」
「まあ、そうなんだよなあ……」
謎の男は『オルゴールに耐えろ』と言った。こういうことだ。
キャサリンは一瞬よろめいたが、毅然として立ち上がる。
「ウィルフレッドさん。もしメイリッジさんを助けることになったとしたら、何が起こったのか私に代わって彼に聞いてくれますか」
「いいけど、どうして代わりに?」
「冷静に話せる自信が無いんです」
キャサリンは表情を見せないままウィルフレッドに囁く。
常にそつなく振る舞っているように思えるキャサリンにしては珍しいことに、彼女の言葉には最大限の軽蔑が含まれているようにウィルフレッドには思われた。