[4a-21] 二ノ獄 道標②
シエル=テイラの崩壊。
王弟ヒルベルト二世のクーデターに端を発する一連の騒動は、未だ、語るを憚るような空気があった。
関わった……あるいは巻き込まれた者たちのほとんどにとって触れがたい傷であり、各々に割り切れない想いがあり、誰を悪者にすればいいかも曖昧な混沌とした話だからだ。
唯一気を吐いているのが、“怨獄の薔薇姫”を追い出して東西分裂したシエル=テイラの東側(と、そこにある豊かな鉱物資源)を押さえたディレッタ神聖王国で、『正義』と『宗教的勝利』を為し得た彼らの恩着せがましい政治宣伝だけが銀嶺に虚しく響いている。
「王都陥落の一ヶ月ほど前でした。私が……ルネではないルネと会ったのは。
そう……後から思えば、あれは彼女が王都で処刑されたすぐ後のことだったんです」
「死んだ後に会った? それって……」
「本来のルネは霊体系のアンデッドだと推測されます。
……王都の戦いで第一騎士団長に敗れた彼女は、おそらく……一時的に身を隠す場を探していたのだと思います。
それが私の知り合いだった冒険者パーティーのメンバー、イリス。
イリスはルネに取り殺され、憑依能力によって成り代わられていた……のだと、思います」
キャサリンが訥々と話し始めたのは、『アンデッドと化した元王女による王都陥落』という、世界を揺るがした大事件の陰の、奇妙な出来事だった。
ルネの処刑から王都陥落まで、『一月王』とも揶揄されるヒルベルト二世の治世。
その間、王宮は、姿をくらましたルネ……冒険者ギルドが送ったネームド名称に曰く“怨獄の薔薇姫”を探し続けていたという。
そこまではウィルフレッドも知っていたのだけれど、ルネが何処に潜伏していたかなんて考えもしなかった。
「父がイリスたちのパーティーを雇って私の護衛に付けている間、私はイリスと少し仲良くなったつもりです。……イリスに成り代わったルネと。
気が付いたのは……全てが破滅に向かって転がり始めてからのことでした」
シエル=テイラは崩壊した。
キーリー伯爵家は、当主であるオズワルドとその子ら三人が“怨獄の薔薇姫”と戦い討ち死に。
長子のトレヴァーは戦いに参加しなかったため生き残り家督を相続したが、今度は連邦の意向によってお家取り潰しとなった。
それは客観的には、キャサリンにとって奈落の奥底へ転げ落ちていくような悲劇だ。
だというのに、キャサリンの溜息は官能的と思えるほどに熱を帯びたもので、ウィルフレッドは気まずいような慄然とするような奇妙な気分だった。
「私の世界が壊れていく中で……彼女の記憶だけが鮮烈に赤く色付いて……
不思議と過去も未来も、彼女以外の全てが色褪せてしまったんです。まるで、太陽を見続けて目を灼かれた愚かな花のように。
私はルネを憎み、憐れんでいます。許すことができないのに愛おしく思っています。
矛盾する気持ちを抱けるほどに、彼女に心を捧げている……恨み、怒ることさえ幸せなんです。
私はあの、国と私自身の命の瀬戸際で、少しおかしくなってしまったのかも知れません」
ウィルフレッドは相槌も打てなかった。
キャサリンが言うことの狂気的な内容もそうだったが、それ以上にキャサリンが美しすぎて声を失った。
彼女は笑っていても、その笑顔が完璧すぎて人形めいた作り物感を感じさせていた。事実それが作り物だったのかも知れないと、世を忍ぶため人らしい感情の仮面を被っていたのかも知れないと思わされる。
なぜなら今のキャサリンは、瑞々しく香り立つかのように色付いた悲しみの表情をしていたから。
偽りなき剥き出しの『キャサリン』は、あまりに美しく、危険だった。
「どうすれば全てを解決できるのか知りたくて、私は連邦に来てから学問に打ち込みました。
この世界の全て……は無理でも、なるべく多くの知識を身につけなければいけないと思ったんです」
「ギルドの資料を閲覧するために管理官になった、というのも」
「はい。文字通りです。
……未だ先は見通せませんが、ある意味で収穫はありました。
ウィルフレッドさん、彼女に関するギルドの調査資料を覚えていますか?」
ウィルフレッドは頷く。
いつぞや、ルドルフ記念図書館でキャサリンに出会った折、膨大な資料を見せてもらった。
「彼女の治世は名君・仁君のそれです。
なれば彼女には、味方の中に理解者がいることでしょう。あるいは、彼女を崇敬し尽さんとする者があることでしょう。
それを裏付けるような情報も存在します。
きっと……私が今寄り添わずとも、味方という立場からあの子に寄り添い救おうとする誰かが居る。その点で私はあまり心配をしていません」
キャサリンはその言葉の通り、本当に一欠片の安堵を得ているようだった。
ルネの孤独を案じ、そして、それが取り越し苦労だったことを喜んでいる。
ウィルフレッドは魔物の軍勢なんてどこまでも殺伐として力によって支配されるものだと思っていたから、キャサリンの言葉には意表を突かれたが、なるほど確かにあんな治世を布くのであればありうるのかも知れない。
キャサリンは迷い無く澄んだ目で、閉ざされた地下の闇を見据えていた。
「ならば私はあの子の敵になります。恨んだ分だけ、心置きなく敵します。
そしていつか、敵としてあの子を救おうとする者が必要になったとき、私はそれを為しましょう」
長い語りを終えてキャサリンは、ウィルフレッドにちょっと笑いかけた。
『複雑でしょう?』とでも言うかのように。
ウィルフレッドは、キャサリンが言いたいことはとりあえず理解できたが、それが腑に落ちるまでは少し時間が掛かりそうだった。
彼女の心情は一言では言い表せぬもので、そして常軌を逸している。
それでも分かったのは、キャサリンの望みは『ルネに関わり続けること』と『ルネを救うこと』。だがルネを救う方法なんてものは未だキャサリンにも見当が付かず、それが見える日に……光明が差す日に備えている。
ギルドや帝国に身を置き、ルネの敵という立場になるのも、つまりキャサリンの言うことを要約するなら『場合によっては敵である方がルネを救うため都合が良いかも知れないから』という話でしかない。
「込み入ったお話を……ええと、ありがとうございます」
「いえ、どうかお気遣い無く。
あまり誰かにお話するようなことではないかも知れませんが、私に恥じるところはありませんから」
キャサリンがけろりとして微笑むものだから、ウィルフレッドは弱々しく苦笑するしかできなかった。
相手がウィルフレッドだからこそキャサリンもこんな話をしたのだろう。それは信頼しているということなのだろうし、実際ウィルフレッドはこれでキャサリンを恐れ嫌うようなことはしない。
だがそれはそれとしてウィルフレッドは、鍋にこびりついた焦げのように苦くモヤついた気持ちを抱えていた。何者も入り込めぬほど強いキャサリンの気持ちを感じ取って。
彼女の傍らに留まれると分かったとき、この世界の全てを手に入れたかのように嬉しかったのに、キャサリンの心はウィルフレッドではない誰かのものだ。まさかあの“怨獄の薔薇姫”に嫉妬する日が来ようとは夢にも思わなかったが……
その時、耳の奥を微かに引っ掻くような足音がした。
「誰だ!」
0.1秒の間も置かずウィルフレッドは抜刀し、弾かれたように立ち上がって身構える。
残りの同行者……帝国兵らと冬黎、ニールは通路の両端に陣取っている。
足音が聞こえた脇道は完全な行き止まりで誰も居ないはずの方向だ。……聞こえないはずの方向から足音が聞こえた。修行と戦いで鍛えられたウィルフレッドの感覚はそれを確かに察知していた。
静かではあるが忍んでいない、小さな足音が近づいてくる。
曲がり角の向こうに居る。
ウィルフレッドは片手に刀を持ったまま、もう片方の手で照明器を構えて光を照射した。
スポットライトめいた光の中にまず見えたのは、ドレスの裾の赤いフリル。
数え切れないくらいの装飾リボン。
ほっそりした足。その小さな体には重そうにも見える靴。
艶やかな長い髪は、特徴的な蜜柑色。
白魚のような手で軽く庇を作って、彼女は魔力灯の光を遮り、赤と灰のオッドアイでウィルフレッドを見ていた。
「小さい……キャサリン……?」
年齢以外はキャサリンそのものと思われるような少女が、そこに居た。