[4a-17] 一ノ獄 鎖された街③
やがて太陽は銀嶺を登りきり、不気味な夜闇は嘘のように祓われた。
ただただ黒く沈むばかりだった街並みは太陽に照らされ、雪に濡れ塗れながらも艶やかに輝くものとなる。ウィルフレッドやキャサリンにとっては懐かしき故郷の景色だ。シエル=テイラは石材も豊富で、石はちょっとばかり魔法的に加工するとシエル=テイラの厳しい冬にも堪えうる断熱性建材となる。
黒々とした石の市街はシエル=テイラ全土で共通のものだ。
ウィルフレッドが今居る街は、迷宮のように複雑で、あり得ないほど……王都テイラ=ルアーレはおろか列強五大国の首都にも勝るのではないかと思えるほどに……広いのだが、建物の造りは幼き日に見慣れたものだ。
そして、高く澄んだ空に向かって突き上げられた剣のようにそびえる城が、勾配のある屋根の向こうに見える。
「見覚えのある城だな……
やっぱりここは王都なのか……?」
ウィルフレッドは周囲の気配を探りながら慎重に歩いた。
怪しいもの、邪悪なものが蠢く気配は感じられない。攻撃が通用しない奇妙なアンデッドたちも陽光には弱い様子だ。
憧紗から逃げるときは複雑な市街をかなり走り回ったが、この程度で道を忘れるようでは冒険者は務まらない。
昨夜皆と別れた辺りまで戻って来たら、辺りの様子を調べている一団をウィルフレッドは見つけた。
「冬黎様!」
「ご無事でしたか」
キャサリンが声を掛けると冬黎も、供の帝国兵たちも安堵の表情を浮かべる。
だが、その人数は昨夜別れたときの半分ほどになっていた。
「他の方は……」
「分からぬ。無事と信じたいが」
「その、冬黎さん。俺たち、憧紗さんに会ったんです」
「まことか!」
「は、はい。ですがその、普通の状態ではなかったと言うか……」
あんな出来事をどう説明すればいいのか悩むウィルフレッドは、その時、妙なことに気が付いた。
帝国兵の一団に見覚えのない男が混じっているのだ。
40過ぎくらいで体格の良い男だ。短く刈り込んだ頭に薄っぺらな帽子を被り、シエル=テイラの冬に立ち向かうには心許ない薄手の防寒着を何枚も重ね着にしている。
肉体労働者……いや、武人だろうか。なかなかに鍛えられている風情の男だが、彼は憔悴し疲労した様子で、兵たちの間に隠れるように立っていた。彼の頬には、獣にでも表皮を掻き剥がされたような傷跡があった。
「……って、その人は?」
「待て、待て、落ち着け。今は安全なようだ。落ち着いて話を整理しようではないか」
* * *
赤々と燃える暖炉が体と心を暖める。
一行は近くにあった家に不法侵入し、勝手に暖炉を使って暖を取ることにした。
衣装箪笥を解体して作った薪が不規則に爆ぜる。
「私はニール・メイリッジ。この街で冒険雑貨を商っていた者です。
……ああ、この街とは言いましても、このように全く違う奇妙な風景になる前の普通の街に、ですが」
沈み込むようにソファに座って、溜息のような口調で男は語る。
冬黎たちと共に居た彼の名はニール。シエル=テイラではなくファライーヤ共和国の住人だ。
「わしらは偶然、彼に会って助けられたのだ。
彼はこの街で生き延びる術を知っておる」
「偶然ですよ……運良く生き残っているうちに、どうすればこの街で死なずに済むか分かっただけです」
ニールは頭を抱える。
彼の口調には、『生き延びている』のではなく『死を先延ばしにしている』だけだという無力感と絶望が滲んでいた。
「もう半月は前になるのか……この街は悪夢の中に沈んでしまった。
街並みは全く変わってしまい、悪霊が徘徊する呪われた街になってしまった」
「悪霊……」
悪霊という単語を聞いてウィルフレッドは、胃液が込み上げてくるように感じた。
血まみれで絶叫する悪霊の姿が瞼の裏に焼き付いている。
顔見知りの仲間が殺されてアンデッドになり、それに襲われて戦うことになるなんて、冒険者として体験しうる最悪の悲劇の一つだ。
憧紗は仲間と言うには浅い付き合いだったが、それでもあんな姿は見たくなかった。
「……俺たち、憧紗さんに会ったんです。
でも彼女は酷い姿で、悪霊になっていて……狂乱して俺を殺そうとした。
光で目を眩ませた隙に、どうにか逃げてきたんです」
「なんと……」
帝国兵たちは衝撃を受けた様子だった。小さく祈りの言葉を述べる者もあった。
「奴らに殺された者は、奴らの仲間になってしまう……
トルハの街の住人だった者は、もはやほとんどが悪霊と化しています。
この変質した街はあまりに広すぎて、特にこの辺りの地区にはあまり出てこないので、出遭う事は少ないのですが……」
ニールの指が、刈り込まれた己の頭を掻き毟る。
「この街に何が起こったんですか」
「分からない……分からないんだ……
逃げ出す手段が無いか、助けを呼ぶ手段が無いか、俺はずっと探してる……
でも、何も分からない。生き残ってる者も僅かで、そいつらも今まだ生きてるかは分からないんだ」
「わしらはどうも、彼を失望させてしまったようでな。助けが来たと思ってわしらに声を掛けたようで」
「いや、そんな言い方をしないでください。やっと外の人に会えたんです。それだけで希望が持てました」
彼は、気休めと思いつつ自分に言い聞かせるように、そう言った。
実際この状況は遭難者が増えただけとも言える。
「確かなのは、夜になるとあいつらが出てくるって事です。
あいつらは生きてる者を見れば殺そうとする。店に置いてた聖水も何もかも、対アンデッド用のアイテムが効きやしねえ。私はずっと逃げてきたんです」
そして一同、無言。薪の爆ぜる音だけがした。
恐怖の一夜を皆が思い出しているに違いなかった。そして日が暮れればまた、同じ事が繰り返される。
分厚く雪が降り積もったような沈黙の中、黙考していたらしきキャサリンが口を開く。
「メイリッジさん、あなたは『半月前から』とおっしゃいましたよね?」
「ああ、はい。この街がおかしくなったのは私の数え方が正しいならその頃です」
「そんな長期間、この街が音信不通になっていたなら、共和国は大騒ぎになっていたはずですが……
私たちが知る限り、そんな事は起こっていません」
「左様。
そも、わしらがこの街に連絡を取って飛行許可を得たのも一昨日のことだ。その時には少なくとも通信が生きておったはず」
ニールは変幻狸に化かされたような顔になった。
彼が嘘を言っているようには見えないが、しかし、状況は彼の証言と矛盾している。
「おそらく、この異界では時間が加速しています。外で一日が過ぎる間に、私たちは一ヶ月や一年を過ごしているのかも知れません」
「……何ですって? どうして、そんなことに?」
「分かりませんが、もしそうした時間の流れのズレに何者かの意図があるのだとしたら……」
キャサリンは昇っていく太陽を窓から見つめる。
否、その目はもっと遠くの何かを見ていた。
「目的は、異変を察知されないこと。
街ひとつが異界に飲まれた異変を外部の者が察し、解決に動き出す前に、この中で何かをする時間を稼ぐため……ではないでしょうか」
ニールは小さく、喉に何かつっかえたような音を立てて呼吸をした。
「ここで何が行われているのか、心当たりはありませんか?」
「分かりません……本当に何も……」
彼の目が泳いだのを、ウィルフレッドは見逃さなかった。