[3-54] 光堕ちってこういうことじゃないんですか?
何かがせめぎ合うかのように、呪いの沼地は泡立っていた。
『我が血の下に生まれし子よ。その務めを果たしたまえ……』
「どうか、祈らせてください……
どうか、ただ祈らせてください……」
黒い蔓草の監獄にて。
囚われたクルスサリナは呪文のように言葉を繰り返し、頭の中にガンガンと響く言葉から耳を背けようとしていた。
父祖の依り代となっただけでも激しく消耗していたのに、その後まともに眠ることもできぬまま苦痛に苛まれ続けたクルスサリナは既に妄想と現実の境も曖昧になり、この部屋に住むアリたちの王国が炎を吐くカブトムシの侵略を受けているのだと思い込んでいたが、それでも、自分に呼びかける言葉に流されてはならぬという想いは持ち続けていた。
森を奪われたあの戦いの日以来、この監獄に囚われてからも、父祖の声はクルスサリナに囁き続けていた。問うてもいないのにご託宣をくださるなど勿体ないことだ、本来は。
しかしクルスサリナは呼びかけに答えようとしなかった。父祖への疑いなどとはクルスサリナ自身認めたくなかったが、全てを委ねた結果が現状の破局だ。
言いなりになって成功するとは限らない。……仮にその原因が、エルフたちの非協力や力不足にあったのだとしても。偉大なる父祖の御方々に責任が無いのだとしても。もし託宣に従った結果、事態が悪化するのであれば、言いなりになるべきではないのだと思い始めていた。
だからクルスサリナはただ祈っていた。どうか心を静め、勝ち目がない戦いへ駆り立てるのではなく、全てを丸く収めるような解決策を示してくれるようにと。
そうしてどうにかやり過ごしていたのだが、クルスサリナに呼びかける声が急激に強まっていた。
「どうか、ただ祈らせてください……」
『クルスサリナよ……そなたが戦わぬからだ……』
「……え?」
呼びかける声のトーンが変わったと思った瞬間、クルスサリナの意識はその身体を離れて地の底を駆け抜け、遠き地を幻視していた。
そこは森ではなく平原地帯、川のほとりにある人間どもの街。
異形の軍勢が街を包囲し、それに抗う人間……ケーニス帝国の兵だ……との間に激しい戦闘が起こっていた。
巨人とゴーレムが重量級の戦いを繰り広げる傍ら、狼に乗って走り抜けるのはエルフたち……
ではない。エルフでこそあるがその肌と髪は闇に染まり、さらに女たちは破廉恥な鎧を身につけている。
全てのエルフの敵、邪悪に堕ちた闇の眷属、ダークエルフだ。
その戦いの先頭に在るのは誰か。
――リエラ……!?
リエラミレス。
何故。どうして。そんな言葉がクルスサリナの中で渦巻いた。
『……そなたが戦わぬからだ……』
「私が……戦わなかったから……」
囁きかける声を、クルスサリナは呆然と繰り返す。
――リエラ! リエラ!! どうしてこんなことを!?
それは決して犯してはならぬ罪。絶対の禁忌だ。
あってはならない。ありえない。何が彼女をそうさせたのか。いや、そんなことはどうでもいい。
彼女を元に戻さなければ。仮にそれが不可能だとしても、止めなければ。
ダークエルフなど存在することそれ自体が罪なのだから、彼女がこれ以上、罪を重ねる前に。
「リエラ……あなたを止めなきゃ……私が、止める……!!」
その瞬間。
まるで奈落へ身を投げたかのような浮遊感と共に、既に壊れかけていたクルスサリナの精神は芯まで侵し尽くされた。
* * *
「はあああああっ!」
ゼフトと石枕、二人は挟撃に近い形で同時に"怨獄の薔薇姫"に攻撃を仕掛ける。
「≪七連魔弾≫!」
彼女が血のように赤い魔剣を一振りすると、その軌跡からおぞましく赤黒い魔弾が七つ飛び出し、それぞれ意思を持つかの如く飛翔し、ゼフトを包囲するように襲いかかった。
「くそっ!」
大剣を打ち振るってゼフトは魔法弾を相殺、飛び退いて回避、一発が鎧の胸部に血痕のような傷を残した。≪聖別≫を受けた鎧は邪気の攻撃に耐性を持つ。ダメージはまだ小さい。
その間に石枕は"怨獄の薔薇姫"に肉薄。
竜頭を象った巨大な籠手で連撃を仕掛けた。
「はぁっ!」
稲妻の如き突きが一息に三度。
だが、その出がかりを潰すかのように"怨獄の薔薇姫"は斬りかかる。
受け止める。躱す。躱される。回り込まれる。
常人には目が追いつかぬであろう速度の攻防。
異常なまでに最適化された"怨獄の薔薇姫"の回避を見て、石枕は何か種があるのではと訝しむ。
――読みが早すぎる。まさか心を読まれているのか?
……相手は強大なネームドモンスター。それも有り得るか。ならば牽制やフェイントは無意味!
瞬時の判断だ。石枕は手数をやや減らし、全てを必殺の一撃とした。
「せいやあっ!」
体重と満身の力を乗せた正拳突きを石枕は放つ。
"怨獄の薔薇姫"は魔剣を振るって弾き返す。深紅の魔剣と竜の籠手の間に赤い火花が散った。小さな身体だというのに信じられないほどの力だった。
「せいやあっ!」
だが石枕は踏み込みつつさらに一撃。"怨獄の薔薇姫"は手の内で魔剣を滑らすように斬り返す。火花が散り、彼女は一歩退いた。力は凄まじくとも体重が無い分、重さを比べるような打ち合いなら石枕に分がある。
「せいやあっ!!」
さらに一撃。
鐘のように重い音が辺りに響く。踏み荒らされた地面を少女の踵が削った。
「食らえっ!」
そこへ大剣を振り上げたゼフトが、石枕の頭を飛び越えて躍りかかる。
これを回避する余裕は無い、と思われた。
しかしゼフトが剣を振り下ろしたその瞬間、"怨獄の薔薇姫"の姿は掻き消える。
「転移!?」
「ぐあっ!」
背後から悲鳴が聞こえたその時にはもう、石枕は踵を返していた。
『零下の晶鎗』の魔術師クレールが、鮮血滴る傷口を押さえながらこちらへ逃げてくる。
彼は肩口を深々と切り裂かれていた。と言うか、肩から股まで両断される一撃を受け、それが不自然に中途で止められたように見えた。
さらに背後より追撃を加えようとする"怨獄の薔薇姫"に、大盾を構えたカインが立ちはだかった。
「させるかよ!」
体がすっぽり隠れるほどの大きな盾を突き出し、押し潰すほどの勢いで突進する。
それを見て"怨獄の薔薇姫"は、深紅の魔剣を弓でも引き絞るように構えて、深呼吸でもするみたいに溜めを作る。
カインがぶつかる、その一瞬。
ズンと大盾を震わせて、魔剣の切っ先が盾の裏側に突き出していた。
「どええ!?」
カインが驚き後ずさる。
盾手の持つ盾は、重量や値段など様々なものを犠牲にしてとにかく頑丈に作られている。
第六等級の冒険者の装備ともなれば相応の逸品に違いなく、そう簡単には傷さえ付かないはずだ。
とは言え流石にこのまま貫いたり斬り落とすことはできなかった様子で、カインが退いたら魔剣は盾からすっぽ抜けた。
「危ねえ、あとちょっとで死んでた」
「全力攻撃だと魔法盾すらぶち抜くか。気をつけろ」
用心深く盾を構えるカインと"怨獄の薔薇姫"は睨み合う。
「≪恩寵:大治癒≫!」
転がるように逃げてきたクレールに、アルビナが回復魔法を掛けた。
「くそ……」
「無事か!」
「ギリギリだ、げふっ……ギリギリで護符を使った。あの剣は物理的なダメージじゃない。魔法だ」
クレールは眼鏡を光らせ、黒ずみ黒煙を上げる金板を摘まみ上げる。
全ての魔法を遮断する絶対防御アイテム、護符。
斬られた瞬間に攻撃の性質を把握し、最適な手段によって防御したのだから、この伊達男は柔弱そうな外見にそぐわぬ胆力を備えた一流の冒険者に違いなかった。
「分かってはいたが……手強いな」
「ああ、だが、こいつを倒せば……」
ゼフトはぎりりと憎しみに奥歯を食いしばっていた。
「チェンシーは……解放される!」
◇
――状況報告を。
特殊戦闘兵たちと対峙しつつ、ルネは念話によってアラスターに問いかけた。
ルネが作り制御しているアンデッドたちは、ルネから一方通行の精神的な繋がりを持ち、ルネの意志通りに動く。
その応用で、ちょっとした言葉を伝えたりルネが持つ情報を共有することも可能だった。
『各所、問題ありません。敵側の作戦に対する対抗策は全て有効に機能しております』
ルネの頭の中にアラスターの声が響く。
これはルネの能力ではなく、向こうに待機させているリッチが≪念話≫の魔法でルネとアラスターを繋いだ結果だ。
戦闘開始前に敵の陣容はほぼ把握できており、敵の作戦もほぼ予測できていた。
そしてそれぞれに対抗策を用意していたのだが、今のところそれは全てハマっていた。
『増援は止められてる?』
『敵援軍のそちらへの到達は困難でしょう。姫様のペットが発憤しております』
南側からは狼煙のような黒煙が上がっていた。
あの犬の巨体と火炎放射は、少数精鋭よりも大群を相手にしてこそ光る。故にルネは乗騎を別行動させていた。
『余力がありそうなら、南の援軍到着に備えている特殊戦闘兵をわたしの所へ送れるかしら?
敵のエースっぽいパーティーと戦ってるけど結構手強いわ。今は向こうが疲れるのを待ってる』
『かしこまりました、そのように……』
『ごめん姫様、緊急連絡!』
思考の速度でアラスターと情報交換をしている最中、太ももに手挟んでいた通話符が青白く燃え上がってエヴェリスの声で叫んだ。
声を聞き咎めた特殊戦闘兵たちも何事かと訝しむ。
『森側に展開してた青軍が地脈の聖転術式打ち込んできたみたいで、それだけならよかったんだけど、なんか今、そのせいで地脈に異常なエネルギー反応が観測……』
「……あれは?」
南より迫る、異様な力の波動をルネは感じていた。
速い。走るより駆けるより飛ぶより速く、何かが地を這いやってくる。
否、地を這っているわけではなく、それは地中を進んでいた。
敵味方問わず戸惑いざわめく声が、最初は遠く、徐々に近く、波のように迫ってくる。
地面が割れていた。
細く長く、ほぼ一直線の地割れが馬より速くやってくる。
何かが地面を割りつつ、割れた部分から光を噴き上げながら地中を移動している。
「光るモグラ……? の、わけないよね」
戦闘のため『感情察知』の能力を展開していたルネは、何かひやりとした無機質で恐ろしいものに触れた気がして、咄嗟に心を読む目を閉ざした。
――これって……!
覚えがある。
神の意志を宿してしまったモノの感覚。
迫る光の地割れはルネの近くで止まり、間欠泉の如き光を爆発的に噴き上げた。
と言うか地面が爆発していた。
「うわあっ!?」
何人かが巻き込まれて地面ごと吹き飛ばされる。
そして立ち上る光の柱の中に、何かが居た。
光を形にしたような簡素な貫頭衣姿。本来は金細工と宝玉による装飾さえ、テクスチャを貼る前のポリゴンみたいな、輝かしくものっぺりとした白だ。
それは人の姿をしていたが、人ではなかった。
憤怒の表情が能面のように固定されたクルスサリナが光の中に舞い、宙よりルネを睥睨していた。