[3-49] 魔物にとっても絶対住みにくいでしょ毒沼とか
ゲーゼンフォール大森林の中心部、『大霊樹』にも近い森の中。
そこに、かつては清らかな泉が存在した。
木漏れ日の輝きを湛えた泉は森に住まう鳥獣の喉を潤し、エルフの巫女たちが禊ぎのために使うこともあった。
今や見る影もない。
邪気によって汚染され、黒く染まった森の中。
その泉は、膿のように呪いの泥が湧き出す、邪気の沼地と化していた。
さして広いわけではない沼の中央には、泥中から生えた黒い蔓草が固く結び合って土台を形成し、さらにその上に壁と天井を拵えて、蔓草の砦のようなものを構成していた。
この場所は言わば、政治犯収容所。
部族の幹部に当たるエルフたちのうち、敵対的姿勢が明白だった者や"怨獄の薔薇姫"に恭順しなかった者らが囚われていた。
黒い蔓草によって仕切られた独房の一つに、クルスサリナは居た。
「……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
邪気に冒された体は一呼吸する度に、悲鳴を上げるかのように痛んだ。
両腕は禍々しく黒い茨によって縛られて天井から吊され、自らの重さで茨のトゲに食い込んで血を流す。この茨は時折、蛇のように自ら動いてトゲの位置を変える。満遍なく血まみれにしようとしているかのように。
引き裂かれた巫女装束の残骸は、滴る血に濡れては渇き、また濡れていた。
足も茨によって床に磔られ、座り込んだまま身動きも能わない。
茨の格子の向こうに見える、蔓草の狭い通路しか見えるものはない。
背後に存在する小さな窓から差し込む明かりで(なんだか昼閒でも薄ら寒い暗さを感じるが)おおまかな時間を把握できるだけだ。最初は囚われてからの日数を数えていたが、日付の感覚も徐々に失いつつあった。
ここでクルスサリナは、ほぼ放置されていた。
尋問など通り一遍のものが施されたきりで、その後は全く捨て置かれていた。
拷問すらされない。魔物たちは既にクルスサリナへの興味を失っている。
刃向かった罰に責め苦を与える対象として、以外は。
爆心にて汚染を受けたクルスサリナの肉体は邪気に蝕まれ、未だ耐えがたい苦痛に苛まれていたが、しかし、何故か死なない。
一日に二度、無理やり流し込んで飲まされる流体状の食事に何かが仕込まれているのではないかとクルスサリナは睨んでいた。……苦しめるためだけに、生かされている。
苦痛の余りまともに眠れず、まどろみ続ける朦朧とした意識で終わらない悪夢の中を彷徨っているようだった。
しかし、ふと、背後の窓から聞こえた声がクルスサリナの意識を鮮明にする。
「……クルス」
「リエラ!?」
囁くようだったが聞き間違えようのない、親友の声だった。
思わず大きな声を上げてしまったクルスサリナは、何者かに聞き咎められることを恐れて声を低める。
「私を助けに……?」
「違うの……ごめんなさい。
クルス、あなたは今、里がどうなっているか何も知らないの?」
「何も……魔物どもは私に何も教えないわ。今までこうして誰かがここへ来ることもなかった」
状況が分からないことでクルスサリナは気を揉み、焦りと不安の渦中にあった。
あるいはそれさえ魔物たちの狙いなのか。
リエラミレスは何かを言い淀む。
少し間があって、少し硬い声音で、彼女は意を決したように。
「今、シエル=テイラ亡国は森のエルフたちを従え、魔物兵と同じ戦場に立たせて帝国と戦っているわ」
それはクルスサリナが何パターンか想像していた悲劇のうち一つだった。
「戦奴にされているというの……!」
「いえ、違うの。今のところは志願者だけ。
それと、戦った者は働きに応じて『軍票』? というのを貰っているわ。
これは食料とか……多めに軍票を出せば森の外の食べ物や嗜好品も貰えるわ。ゆくゆくはお金とも引き換えてもらえるんだって」
「食料を?」
「森から取れる食料の分配を管理されているのよ。
ただ、帝国軍に奪われた森を少しずつ取り返しているし、部族は…………人数が、減ったから。足りてはいるわ。
辛うじて生きていける量の食料は配給されて、足りない分は軍票を持つ者が買って、みんなで分けているの」
リエラミレスの話は奇妙な方向に展開した。
それでは戦奴と言うよりも、人間の国の兵士のようだ。
徴兵される者ばかりでなく、金を受け取って戦う者もあるのだと言うが。
「皆は、無事なの? 魔物に支配される暮らしだなんて、どのような目に遭わされるのか……」
「森の中で見かけるのは、ほとんどが心を持たないアンデッド。
彼らは私たちを監視してこそいるけれど、人形のようなものだから、叛意を示さない限りこちらには何もしないわ」
クルスサリナは困惑する。
邪悪な魔物たちが、ただじっとそこに居るだけで狼藉を働きもしないだなんて。
逆に不気味だった。
「何を、企んでいるというの……」
「強いていうなら……効率的で継続的な支配。
公正に扱うことで、自発的に協力させるシステムに組み込んでいく……
私も……そうして戦っているわ」
「そんな! どうして!」
胸を押し潰されそうに思ってクルスサリナは悲鳴を上げる。
リエラミレスまでも戦いに駆り出されるだけならまだしも、彼女が自らの意志で魔物と肩を並べ戦うなど!
暗闇の中に独り取り残されるような気持ちだ。それは、絶望だった。
「静かに、クルス」
「……あなたともあろう者が、魔物と共に……」
「クルス……私、あなたの助命と引き換えに戦うことを誓ったの」
静かな告白がクルスサリナを貫く。
臓腑が血を吹いているかのようだった。
「やめてリエラ! 私を助けるために魔物に加担するだなんて!
それなら私を死なせてちょうだい!!」
「『七人茶会』も、もう残っているのは私とあなただけなのよ!
あなたまで失ってしまったら、私……!」
涙声で言い返されて、クルスサリナははっとする。
空気が固まってしまったかのように喉で詰まっていた。
「死んで……しまったの!? エイルも……ウィタも……」
「聖域の封印が破られた時、四人全員あそこに居たのよ? 生き延びたのは私たち二人だけ……」
いつまでも一緒と誓った、年の近い仲良し七人。
帝国との戦いの中で先代巫女長サーレサーヤを含む三人が死に、聖域の封印から飛び出した女吸血鬼に二人を殺され、そして今、ここにあと二人。
『父祖』と言われていた何かの意志に操られている間の事をクルスサリナは朧にしか覚えていないが、森をこんな滅茶苦茶にした災いの爆心地に居たのだ。生きている方が奇跡とさえ言えた。
ずるりと、壁に背を預けるようにへたり込む音が窓の向こうから聞こえた。
「もはや私たちが生き延びる道は、シエル=テイラに協力するしか残されていないの。
もう、帝国と亡国、どちらに対抗する力も無い。
部族の重宝も……大戦で神々より賜った物品で、まだ残っていたものは皆、召し上げられて……
魔神への捧げ物にされたそうだわ。帝国を討つ力を授かるのだと」
「そんな……」
「真に恐ろしいのは、それが知れ渡ってなお反発する者が少ないという事よ……
シエル=テイラ亡国軍は、現に帝国に勝っているし、皆の命と利益は保証しているから。
何もかも計算されている……私たちはとっくに、蜘蛛の巣に掛かった蝶なのよ」
恐れるように、畏れるように、微かに震える声。
まるで、古木に寄生して幹を絞め壊してしまう蔓草のようだとクルスサリナは思った。
魔物たちは、武力ではないが圧倒的で太刀打ちできない何かによって、静かに染み入るように森へ侵略している。
「でも、あなただけでも…………このままになんてさせないから。私が必ず、あなたを助ける」
「そんな、そんなこと、私……」
「……見回りのジャック・オ・ランタンが来るわ。
また彼女たちの目を盗んで来れそうならここに来る」
「あ、リエラ……!」
唐突に会話は終わった。
一目顔を合わせることも叶わぬまま。微かな足音だけを残して声は途切れ、そしてもう何も聞こえなかった。
「どうして……どうして…………」
床に滴り乾きかけた血を、涙が溶かして滲ませた。