プロローグ
どうぞ、よろしくお願いします。
「ひゃああああああああ!!」
喉の奥から、人生で1度も出したことがない声が出た。
そして、後ろにすっ転んだ。尻餅をついた形で、両足が地面を離れて天を向く。
幼い子どもでもやらないような無様な転び方だ。
けれど、転んでいるのは幼子ではなく、学園一プライドが高い侯爵令嬢だ。
周りにいた生徒たちから驚愕したように凝視されたけれど、すぐに目を逸らされる。
……そうよね。高慢ちきな侯爵令嬢の転倒シーンを目撃したなんて、後からどんな文句を言われるか分からないもの。見なかった振りをしたくなる気持ちは分かるわー。
皆に同感しながら心の中でうんうんと頷いたのだけれど、大勢の行動とは一線を画すように、私から目を逸らさなかった人物が一人だけいた。
―――王国が誇る、冷静沈着にして有能なる王太子殿下だ。
王太子は軽く腕を組んだまま、目を逸らすことなく私を見下ろしていた。
その下劣な者を見るような酷薄な眼差しを見て、私の背中にびりりっと悪寒が走る。
「エ……、エルネスト・ハイランダー王太子殿下……!?」
全身で確信しているというのに、最後の悪あがきとばかりに彼の名前を確認する。
「……どうした? 私のフルネームなど呼んで。何かのたくらみか、―――ルチアーナ・ダイアンサス侯爵令嬢?」
意趣返しとばかりに、腰に響くようなぞくりとした声で、私のフルネームが返される。
……ああ、その声好きです。大好きでした。
ではなくて。
「私が……ルチアーナ・ダイアンサス侯爵令嬢……!!」
声に出した途端、まるで雷に打たれたかのように色々なものが思い出され、がくりとその場に崩れ落ちる。
「ル、ルチアーナ様?」
「きゃ――! ルチアーナ様がお倒れになりましたわ!!」
周りでは女子生徒たちが騒ぎ始めたけれど……すみません。今だけは、静かに気絶させてください。
私が悪役令嬢だと思い出してしまった、今だけは―――……
そう思いながら、私はぱたりと気絶した。
◇◇◇
『魔術王国のシンデレラ』
なんとも乙女心をくすぐるそのタイトルは、私が前世で夢中になってプレイした乙女ゲームのものだ。
舞台になるのはハイランダー魔術王国。
魔術王国という名前の通り、その国では魔術が発達していた。
王国の初代国王が絶大な魔力持ちであり、その力でもって国を救い、国を興したため、魔術を使える者が尊重されていたためだ。
とはいっても、魔力というのは遺伝するため、魔力持ちを婚姻相手として代々を積み重ねてきた貴族のみが使える力だった。
まれに貴族の庶子だか、突然変異だかで平民の中にも魔力持ちが現れるらしいけれど、せいぜいそれくらいだ。
だというのに、平民であるゲームの主人公は、絶大な魔力を持っていた。
それはもう、王国一といわれている王太子の魔力を凌ぐほどに。
このゲームは、その主人公が男爵家の養女となり、15歳でリリウム魔術学園に入学するところからスタートする。
主人公は平民という理由で、入園してきた途端に学園中の貴族令嬢からいじめられる。
けれど、主人公はそれらの困難に、平民根性で前向きに立ち向かっていく。
そして、持ち前の根性と高い魔力で、大抵のことは自分で解決するのだ。
解決できない事件に関しては、うまい具合に攻略対象者であるイケメンたちが現れて、主人公を救ってくれるというご都合展開だ。
その攻略対象者の中で最も人気があったのが、魔術王国の王太子であるエルネスト・ハイランダー……先ほど私を冷たく見下ろしていた、銀髪翠眼のきらきら王子様だ。
そして、主人公をこれでもかといじめ倒すのが、ルチアーナ・ダイアンサス侯爵令嬢……つまり、私だ。
ルチアーナは典型的な敵役だ。
『傲慢で怠け者、唯一のとりえの火魔術ですら中の下なのに、実家の権力を笠に着て威張り倒している悪役令嬢』―――そう、完全なる嫌われ役だ。
一方、ゲームにおける主人公の攻略対象者は、全員が高位貴族か高い職位持ちだ。
主人公はその中から一人を選び、その相手をヒーローとして、2人で様々な困難に立ち向かうのだけれど、その際、2人の関係をことごとく邪魔するのがルチアーナだ。
主人公が誰をヒーローに選んだとしても、『彼には、高位貴族である私の方が相応しい』と言って絡んでくる。
その結果、ラストでは、主人公とヒーローの関係を汚い手段で邪魔をしたという理由で、ルチアーナは断罪される。
15歳以上を対象にしたゲームだったため、そんなに過激なシーンはなく、断罪も緩めだったので、大抵の場合はお家取りつぶしの上、ルチアーナ一家が追放されるというものだった。
ゲームをプレイしていた時は「ちょっと軽すぎるんじゃないかー」って思っていたけど、とんでもない。
傲慢なだけで、能力もなければ、人好きする性格でもない貴族令嬢が、追放後にどんな生活ができるというのか。しかも、同じように役に立たない両親と兄弟がついてくるというのに。
「終わった。人生、詰んだわ……」
私は薄暗い自室のベッドで横になったまま、独り言をつぶやいた。
―――学園で倒れ込むように気絶した後、私は侯爵家に運ばれていた。
そして、大事をとってベッドに寝かされていたらしいのだけど、目覚めて以降、「詰んだ」という言葉と、絶望のため息しか出てこない。
あああ、昨日までの私は、何の心配も憂いもなかったというのに。
どうして私は思い出してしまったのだろう?
学園であの時、―――王太子の目の前で転倒する直前、私はいつものように王太子に対して誘いかけているところだった。
そして、やはりいつものように王太子から穏やかに、けれどきっぱりと誘いを断られていた。
普段であれば、『この私の誘いを断るなんて!』と怒り出すところなのだけれど、その時は『仕方ないよね、だって悪役令嬢だし』と、ふと思ったのだ。
そして、自分の思考を理解できなくて、首を傾げた。
『悪役令嬢? 何言っているんだ、私?』と、自分を不思議に思ったことを覚えている。
けれど、次の瞬間、まるで天啓のように頭の中に閃いたのだ。
『私は、悪役令嬢だ!!』
そして、その閃きに衝撃を受けた私は、王太子を前に無様な格好で後ろに転倒してしまい……それから暗転。気絶して今に至るというわけだ。
―――回想を終了した私は、ベッドから降りるとぺたぺたと部屋の中を歩いていき、鏡台の前に立った。
ごくりと唾を飲み込み、おそるおそる鏡に映っている人物を覗き込む。
鏡には、腰までの紫の髪に琥珀色の瞳の非の打ち所がない美女が、はっきりと映っていた。
その姿をしばらく見つめた後、私はがくりとうつむいて、諦めのため息をついた。
……間違いない。
私はルチアーナ・ダイアンサス侯爵令嬢。
前世でプレイしていたゲームに登場する悪役令嬢だ。
だけど一体なぜこんなことに……と考えたところで、はっと自分の前世を思い出す。
前世の私はアラサーで、男性と付き合ったことがなかったから、「生まれ変わったら、モテモテの人生がいいなぁ」なんて、この世界を舞台にした乙女ゲームをプレイしながら妄想していた。一人暮らしの部屋で、その望みを口に出したこともあったかもしれない。
……だから、望みが叶えられたということ?
一瞬そう考えたけれど、思い直して激しく否定する。
―――いやいやいや、ない! これはない!!
確かにルチアーナは非の打ちどころのないすんごい美女で、侯爵令嬢だ。
でも、『おほほほほ、望みが叶ったのかしら?』なんて、とても言えない。
なぜなら、ルチアーナは美女にもかかわらず、実際は全然モテていなかったから。
主人公のライバル役として、攻略対象者からは全員に嫌われていたのだ。
彼女の周りにいるのは、彼女の家柄に惹かれる腰ぎんちゃくの男性のみ。
しかも、何をやったとしても、最後に待っているのはヒーローから断罪され、追放される未来だ。
男性にモテモテの人生だなんて、とても言えやしない。
そして、残念なことにルチアーナは、モテないことに何の違和感もない人物だった。
なぜなら、ルチアーナが持っているのは美貌と家柄だけで、いいところなんて一つもなかったから。
常に威張っているし、怠け者で勉強しないし、高位貴族のくせに魔力だって強くない。
それなのに、実家の権力を笠に着て、あれやこれやと悪事を重ねれば、それは断罪されるだろう。
現状に絶望し、がくりとうなだれたところで、私はあることに気付いた。
あれ、私、まだ16歳……?
自分の年齢に気付いた私は息をつめ、必死でゲームの記憶を辿る。
断罪イベントが行われるのは、……17歳だった!
ということは、私が断罪され、追放されるまで、あと1年あるということだ。
よかった、まだ間に合うわ!
私はどきどきと早鐘を打つ心臓をぎゅっと抑え込みながら、ほ――っと安堵のため息をついた。
……私は今、リリウム魔術学園の2年生。季節は秋。
主人公が学園に入学してくるのは、半年後の3年生の春。
そして、断罪されるのはさらに半年後の3年生の秋だ。
主人公はまだ入学していないし、ゲームは始まってもいない。
決めた! それまでに人生を仕切り直して、断罪イベントを回避しよう。
よかった、前世では全然モテなくて、喪女(=もてない女性)だったから、人生に恋愛がなくても平気。元庶民だから、お金がなくても平気。
ああ、解決策見えた―――!!
安心した私はそのままベッドに戻り、眠りについた。