第四百六話 帝国公爵・上
テッドは無我夢中で走っていた。
「はぁはぁ……急がないと……」
途中まで一緒だった兵士たちはもういない。
敵の目をひきつけるため、彼らは目立つルートを行った。
自分たちの死を予感しながらテッドを行かせたのだ。
敵も子供の伝令がいるとは思わなかったようで、テッドが追われることはなかった。
しかし、眠ることもせず一日中、馬を駆けさせるのは過酷だった。
ましてやテッドは地図を見ながらの移動だった。
あっているのかどうか。常にその不安と戦いながらも、テッドは強靭な精神力で耐え抜いた。
そしてテッドはもうすぐツヴァイク侯爵領の領都・デュースが見えるところまでたどり着いたのだった。
だが、そこでテッドが乗っていた馬が限界を迎えた。
走ることができず、崩れ落ちた馬を見て、テッドは励ますことはしなかった。
よく頑張ってくれた。もはや息も絶え絶えな馬にお礼を言って、テッドは自らの足で走り始めた。
だが、疲労はピークに達していた。
いつまで経っても街には着かない。
焦りの中、
テッドの目に休憩中の騎士たちの姿が見えた。
注目したのは繋がれた馬だった。
テッドは迷わず走った。
「会うんだ……! 皇子に!」
幾度も呟いた言葉を口にしながら、テッドは騎士たちの目を盗み、繋がれた手綱をほどき、馬に跨る。
だが、疲労困憊な状態ではどうしても早業とはいかない。
「おい! 何をしている! 小僧!」
「離せ! 皇子に会わなきゃいけないんだ!」
騎士たちに捕まえられたテッドは、馬から引きずり降ろされた。
それでもなお暴れるテッドの前に、一人の男が立った。
身なりの良い服で、明らかに貴族とわかる。
「少年、なぜ私の馬を盗もうとした?」
「盗むんじゃない! 借りるんだ! すぐ返す! 俺は皇子への伝令だ!」
「信じられるわけないだろ……とりあえず事情を話してみなさい」
「時間がないんだ! 離せ!」
「事情もわからずに離せるわけないだろ! 大人を馬鹿にするのもいい加減にしろ! どうした? 売るつもりだったのか? それも興味本位か?」
呆れたため息を吐く貴族の男にテッドは殺意が湧いた。
そしてそのままテッドは貴族の男の脛を蹴り上げた。
「っ!? なにをする!?」
「違うって言ってるだろ! 皇子に会わなきゃいけないんだ! 大事なことなんだ! 馬を貸してくれ!」
「まだ言うか……盗みの現行犯で突き出してもいいんだぞ? 嘘を言うのはやめて、正直に言いなさい。悪いようにはしないから」
「どうでもいい! いいから馬を貸せ! 俺は伝令なんだ!」
らちが明かない。
早く街に行って皇子に会うということしか、テッドの頭にはなかった。
そんな中、新たな一団が到着した。
「何事です?」
「これは……ユルゲン様」
貴族の男がそう言って頭を下げた。
現れた小太りの男は馬上のままだ。それだけ位が高いということだった。
見下ろされたテッドの中、一気に何かが沸き上がってくる。
「この少年は?」
「馬泥棒です」
「馬泥棒?」
「違うって言ってるだろ!! お前らはいつだってそうだ! こっちの話は一切聞かない! 高いところから見下ろしているから、俺たちの声なんか耳に入らないんだ!」
「お、おい! 誰に口を聞いて!」
「知るか! 身分なんて関係あるか! こっちは人の命がかかってるんだ! 伝令として必死に走ってきた! 馬が必要なんだ! 街にいって皇子に会わなきゃいけないんだ!」
「まだそんなことを……かなり大ぼら吹きですね」
「どうせ信じないんだろ!? お前らは平民の言うことなんて信じない! わかってるさ! 同じ貴族しか人間としか思ってないんだろう!? 何が貴き一族だ! 反吐が出る! 貴さなんか微塵も感じない!」
「このガキ! いい加減にしろ!」
テッドのことを取り押さえていた騎士が、さすがにまずいと思ったのか、テッドを地面に押し付けた。
だが、テッドの言葉は止まらない。
「クズどもめ! お前らなんかがいるから、平民が苦しむんだ! 何もしないでも飯が出てきて、周りが頭を下げて! さぞや気分がいいだろうな! そうやって他人から搾取して楽しいか!?」
「このっ!」
さすがに我慢の限界だったのか、貴族の男が腕を振り上げた。
だが、その腕をユルゲンが掴む。
しかし、ユルゲンの目は真っすぐテッドを向いていた。
「――ほかに言うことは?」
「……なにぃ……?」
「見たところ、本気で走ってきたんだろう。疲労も見て取れる。それで、貴族への文句を言うために走ってきたのかい?」
「そんなわけ……そんなわけないだろ!?」
「僕らは君を信じる理由がない。ましてや口汚く罵られれば、聞く耳を持たないのも当然だ。だが……君にはどうしてもやり遂げなきゃ駄目なことがあるようだ。そんなことをしている暇が君にあるのか?」
ユルゲンに諭され、テッドは激しい葛藤に苛まれた。
だが、想いが葛藤をねじ伏せた。
地面に頭をこすりつけながら、テッドは助けを求めた。
「……どうか馬を貸してください……必要なんです……助けてください……」
正式な伝令ではないテッドには、身分を示すものがない。
周りにいた軍人たちも持っていなかったし、彼らの軍人としての証を持っていたとしても盗んだとあらぬ嫌疑をかけられただけだろう。
アルに会えさえすれば、ミアからの袋がある。だが、そのためには街に行かなければいけない。そこにたどり着きさえすれば、騒ぎを起こしてでも皇子に会うとテッドは決めていた。
屈辱はあった。後悔も。
だが、それでもテッドは貴族に頭を下げた。妹を助けてくれと頼んだとき以来のことだった。
あの時との違いはただ一つ。
頼んだ貴族の質が明確に違った。
「いいだろう。乗りなさい」
「はい!? ユルゲン様! 信じるのですか!?」
「信じます。最初の様子を見れば、よほど貴族が嫌いなんでしょう。それでも助けを求めてきた。嫌いな相手に頭を下げるのは簡単ではありません。嫌いという意思が明確な、この少年のようなタイプは、自分のためには頭を下げません。やるならば、自分以外の誰かのためです」
そう言ってユルゲンはテッドに手を差し伸ばした。
だが、テッドはその手を取れなかった。
貴族の馬に乗るというのに、拒否反応が出たのだ。
しかし。
「貴族の馬には乗れないかな? 安い誇りだ。貫くならもっと大きな誇りにしなさい。何をしても助けたい人がいるのでは? なら乗りなさい。僕の馬は東部一の駿馬だ。僕みたいな重い者が乗っても風のように走ってくれる」
「……くそっ!」
ユルゲンの手をテッドは取る。
ユルゲンは簡単にテッドを引き上げると、自分の前にテッドを乗せた。
「急ぐから掴まっていなさい」
「え? おわっ……!」
ユルゲンは宣言通り、馬を全力で走らせた。
テッドは振り落とされないように必死に馬にしがみつくことしかできなかった。
ユルゲンはそんなテッドの必死な様子に目を細め、さらに速度を上げる。
供回りの騎士たちも追いつけないほどの速度だった。
そしてすぐに街が見えてきた。
だが。
「おい……ここって……」
「軍の陣営だ。突っ切る」
「嘘だろ!?」
テッドの言葉を聞かず、ユルゲンは真っすぐ陣営に突入した。
馬が陣営内を走るのは珍しくはないが、周りを気にせず全速力というのはめったにない。
誰もが顔をしかめる行為だった。
しかし。
「殿下への伝令である! 通せ!」
まるで竜の咆哮のような大声でユルゲンは告げる。
訓練をしていた貴族や、武器の手入れをしていた騎士たちは慌てた様子で道を開けていく。
そして決まって、道を譲った貴族や騎士が頭を下げていた。
「あんた……何者だよ……?」
「しがない貴族さ。親が貴族だから生まれたときから貴族だった。君の言う通りだ。我々は貴くなどない。だからこそ、貴くあろうとする努力は怠れない」
そう言ってユルゲンは街の門に向かって馬を走らせ続けた。
しかし、その門は閉まっていた。
「門が閉まってるぞ!?」
「開門! 殿下への伝令である! 開門せよ!」
なんて力技な。
そう思いながら、テッドは耳を塞ぐ。
あまりの大声に耳が馬鹿になりそうだった。
だが、その甲斐あって門が上へと上がり始めた。
しかし、ユルゲンは止まらない。
「おいおい……」
「門が開き切る時間すらもったいない」
「そうは言っても……」
「恐れるな。今稼ぐ時間がきっと役に立つと思えば、何だってできる」
そう言ってユルゲンは体を横に傾けて、開きかけた門に滑り込む。
なんとか馬一頭が通れる隙間だ。
テッドは馬にへばりつくが、ユルゲンはそれでは間に合わない。
一瞬のあと、ユルゲンたちは何事もなく走っていた。
だが。
「お、おい……血が……」
「掠っただけさ。それに血なら君も流している。おあいこさ」
ユルゲンの頬は少し切れていた。
ギリギリ掠ったからだ。
それを心配するテッドも、体のあちこちに傷があった。
そんなテッドの頭にユルゲンは手を乗せた。
「もうすぐだ。殿下は屋敷にいらっしゃる。大きな声で呼ぶんだ。殿下は必死な者を見捨てはしない」
そう言ってユルゲンとテッドを乗せた馬は屋敷に突入したのだった。