第七章66 『ヒアイン・ヤッツ』
――剣奴孤島ギヌンハイブでの生活は、スバルにとってそう悪いものではなかった。
スバルの『スパルカ』での戦いぶりは、どうやら剣奴孤島で鎬を削る剣奴たちにも好評だったらしく、どこへいっても大広間と同じような歓迎を受けた。
戦うことを強いられる環境でも、ヴォラキア帝国の流儀は変わらない。
なので、強い人間が評価される主義なのはおんなじらしく、彼らにとってスバルたちの『合』が繰り広げた『スパルカ』は、そのお眼鏡に適ったらしかった。
「どう見てもひょろひょろのガキなのに、いい度胸だった」
というのが、おおよそのスバルの評価であるらしい。
その気になれば片手でひねれそうな子どもであるスバルが、剣闘獣のライオン相手に善戦したのがよほど面白かったのだろう。
同年代の偽セシルスと違い、スバルが年相応の子どもだったのも、もしかしたらその印象を手伝ったかもしれない。そのぐらい、偽セシルスの評判は悪かった。
「僕は僕として生きているだけなので周りの方にどう思われようとといったところなのが本音ですかね。結局のところ皆さん、結果を見れば文句も言えなくなるでしょう。あ、今のは物理的じゃなく心情的な理由でって意味ですよ」
一応、それとなく周囲の評判を耳に入れたときの反応がこれだ。
何となくそんな気はしていたが、偽セシルスには自分を曲げるという考えも、周りと合わせてなあなあで生きようという配慮も一切ない。
自分を曲げない強固な意志と、それを貫き通せる力量がある――それが、偽セシルスの傍若無人な自我を肯定させている。
そしてそれは、剣奴孤島と帝国、どちらのルールでも正しいとされるのだ。
「だが、それで嫌われるのはいい傾向とは言えない。『合』がそうであるように、私たちは一人では島を生き抜けないのだから」
「それを生き抜く力がある、という話だろう……。あのガキの横暴な振る舞いも、それが通せるという自信ありきだ……」
「けっ、気に入らねえが、俺たちには関係ねえ話だろうが。薄気味悪いガキなら、もうこっちは二人で十分って話だぜ」
とは、『合』の仲間たちの偽セシルスへの印象だった。
厳しいとも言えるけれど、自然な考えとも言える。そもそも、よほど強くて安全圏にいない限り、剣奴たちはみんな今日明日を生き抜けるかの意識で必死だ。
それこそ、周りに構っている暇なんてほとんどないのが当たり前だった。
「まぁ、俺たちを薄気味悪いガキ扱いするヒアインには文句があるけど、タンザはどう思う? セッシーのこと」
「……どうでもいいです。それよりも、シュバルツ様」
「うん?」
「――シュバルツ様は、本当にここをお出になるつもりがあるのですか?」
ふと、呆れるような責めるような、そんな声でそう聞かれて、スバルは思わず「え?」と目を丸くして振り返った。
剣奴に与えられる共同部屋――雑居房とでもいうべき空間で、スバルと同室のタンザはその丸い眉を顰めて、これ見よがしにため息をついた。
「え、ではありません。この数日、シュバルツ様は剣奴の皆様と楽しく過ごされていらっしゃるようですが、最初の方針を覚えていらっしゃいますか?」
「最初の方針……?」
「――っ、この島を離れ、カオスフレームへ戻るというお考えです」
一瞬、心当たりのない声を出したスバルにタンザの声が硬くなった。
そのまま少女はスバルから視線を外して、「すみません」と前置きし、
「できれば、シュバルツ様の方針に従うつもりでした。でも、シュバルツ様が積極的に動かれないなら話は違います。私は、ヨルナ様の下へお戻りしなくては」
「――――」
「今も、カオスフレームのその後は何もわからないんです。ヨルナ様のご無事だけは、私への寵愛が残っていることからもわかりますが……」
そう言いながら、タンザが自分の右目に触っている。
その仕草が意味しているのは、魔都でスバルも目にした住民たちの変化――ヨルナの『魂婚術』の影響を受けた人たちが、その瞳を燃やしていたのと同じこと。
ライオンの首を一息で刎ねたのも、タンザ本来の実力ではないのだろう。彼女には、ヨルナから与えられた寵愛の力が活きている、ということだ。
「つまり、ヨルナさんは無事ってことだよな」
「……お体は。そのお心までは、わかりません」
「それは、うん、そうだな。ヨルナさんは、街のみんなを大事にしてたから」
優しすぎるから、帝国の方針に従えないで何度も謀反者扱いされていた。
そんなヨルナの境遇と、そのヨルナの考えに守られていたタンザたちの気持ちが、スバルにもちょっとはわかるつもりだ。
だから、ヨルナのところにすぐにでも帰りたいタンザの気持ちもわかる。
「でも、焦りすぎてもダメだ。闇雲に足掻いても欲しいものは手に入らない」
「ですが! シュバルツ様のように悠長にしていられません!」
「う、悠長……」
「そうです。この二日間、島の中を歩き回って脱出する方法を探すのかと思えば、『合』の方と無駄話をしたり、他の剣奴の方と談笑したり……」
指折り、タンザが二日間のスバルの行動をあげつらう。
確かにこの二日、スバルがしていたのは抜け道を探したり、外と通じているという唯一の跳ね橋を動かす方法とかではなく、人と話していることばかりだった。
『合』のヴァイツたちと過ごすこともあれば、剣奴孤島が長いという人からあれこれと島のルールや面白話を仕入れるのを優先していたのだ。
それがタンザの目にはとても悠長で、もしかしたらこの島にスバルが骨をうずめる準備をしているように見えたのかもしれない。
でも、そうだとしたら――、
「それは大間違いだ、タンザ。俺も、タンザがヨルナさんと会いたい気持ちと同じぐらい会いたい相手がいる。絶対に、帰らなきゃいけないんだ」
「……あの、ご一緒だった方たちですか?」
「アベル以外はそれもそうだし、他の……でかい壁の街にもいるんだ。それに帝国のお隣の国にも。大忙しなんだよ、俺」
「――――」
あっちにもこっちにも会いたい相手が、と答えるスバルにタンザは押し黙った。
たぶん、相手が複数いるスバルよりも、ヨルナ一人を大切に想う自分の気持ちの方が大きい的なことを思ったのかもしれないが、彼女は口には出さなかった。
それだけで十分、彼女の真面目なところがわかる。彼女に色々教えたのがヨルナなら、ヨルナの教育熱心さにも感心してしまうくらいだ。
「それでも、たぶん俺の方が頭の使い方がうまいと思う」
「――? それはどういう……」
と、スバルの言葉にタンザが首を傾げた瞬間だった。
「――バッスー! 跳ね橋が上がりますよ! 新しい方々のご到着です!」
そう、騒々しい声を上げながら、廊下を駆けてきた偽セシルスが顔を見せる。その勢いと大声にタンザが肩を跳ねさせるが、スバルの反応は真逆だ。
「きたか!」とその場に跳ね起きて、
「聞いてたよりも早いな、こんなペースでくるの?」
「いえ、だから前回のバッスーたちの『スパルカ』は例外だったんですよ。バッスーたちと同じ『合』の三人以外は逃亡失敗して湖の底……足りない人員不足を急遽バッスーたちで補ったわけで」
「そうだった」
肩をすくめた偽セシルスの言葉通り、前回の『スパルカ』開催はイレギュラー開催。
元々、ヴァイツたちと一緒に剣奴孤島に入るはずだった剣奴候補たちは、島に入る前に一斉逃亡を企てたが、これに失敗して馬車は横転。跳ね橋から湖へ逃げ込んだものたちは全員が水棲魔獣の餌になった、という経緯だったらしい。
結果、人数の足りないヴァイツたちの『スパルカ』開催は見送られ、『合』が組める人数が補充されるまで棚上げにされていたそうだが――、
「そこに俺とタンザがきて、ヴァイツたちはすげぇガッカリしてただろうなぁ」
人員が補充されたせいで『スパルカ』をやらなきゃならなくなり、おまけに追加されたのがスバルとタンザ――それも、タンザは寝てる状態だった。
実質、目つきの悪い子どもが一人加わった四人での『スパルカ』だ。
きっと三人とも、人生で一番ついてない日だと思ったに違いない。
「ただし、人生で一番ついてる日だったんだけどね」
「おや、なかなか自信ありげでいい表情ですね。それでそれでバッスー、どうします?」
「ああ、跳ね橋見にいく。外からきた人たちとも話したいけど」
「それはちょっと難しいかもですねえ。前回と違って今回はわりと早めに『スパルカ』が始まると思いますから、接触する機会はないかもしれませんよ」
「そっか……厄介だけど、それならそれで方法はあるから」
顎に手を当てて、そう答えるスバルに偽セシルスはピンと眉を上げる。
スバルの答えに興味か、あるいは好感を持ったのがわかりやすい反応だ。ちっとも隠し事ができないタイプの性格、でも油断は禁物の相手。
世の中、好感度が高くても相手を殺せる人間はちょこちょこいるのだ。
島内で噂される偽セシルスの性格は、爆弾だと思って接するぐらいでちょうどいい。
もちろん、あんまり怖々と接しても導火線が短くなるだけだろうから、そこのところはちょうどいい塩梅を探すのが吉だ。
ともあれ――、
「ようやっと進展がありそうだ。タンザ、どうする?」
「いえあの、どういうことですか? セグムント様と、企てを?」
「企てなんてとんでもない! 僕はバッスーが何考えてるのか全然知らされてませんし知らされても大したこと言えませんよ。ただ単に跳ね橋が上がりそうなら教えてほしいって言われてただけです。ここから先はバッスーの頭の中ですね!」
「……シュバルツ様?」
あっけらかんと無知をひけらかす偽セシルスから情報は得られないと、タンザの視線がスバルの方に向けられた。まるで隠し事をしていたと責められているみたいな目だが、スバルの方は隠し事をしていたつもりはない。
わりと、慎重に動いていたつもりではあるけれど。
「とりあえず、跳ね橋を見にいきながら話そう。見逃したら馬鹿すぎるから」
何か言いたげなタンザと楽しげな偽セシルスを引き連れ、スバルは共同部屋を離れて跳ね橋が見える島の上層へと向かう。島内、剣奴の行動はかなり自由が許されていて、よほど日頃の態度が悪質なもの以外、就寝と死合い以外は行動を縛られない。
一応の水浴びと食事の時間の決まりはあるので、そこも従う必要はあるらしいが、想像していた奴隷の生活や刑務所の囚人生活とは雲泥の差だった。
剣奴孤島は島の中央に剣闘場があり、そこが外部からの観客などを入れて、盛大な興行が行われるイベントステージになっている。なので、剣闘場とその周りは部外者の目に触れる部分だと、かなり派手で目立つ風に飾り付けられている。
一方、それ以外の剣奴たちの自由・生活のスペースは簡素なもので、最低限の生活に必要な施設以外は全体的に『灰色』という感じだ。
「でも、治癒室もあるし、図書室もあるんだよね」
「書物を入れ始めたのはグスタフ総督が島主になられてからだそうです。意外と、皆様の憩いの時間のお供になっているとか」
「うん、本はいっぱいあったね。俺も読めたらよかったんだけど」
タンザの話に頷きながら、スバルは指で自分のこめかみを掻いた。
勉強したはずのこちらの世界の文字だが、どうやら縮んだ脳みそからは早々に追い出されてしまったらしく、ふわふわとしか読み取れない状態だ。
一部はぼんやり覚えているので、頑張れば解読できないこともないけれど、一ページ読むのに宝探しみたいな頭の使い方をしなくちゃいけない。
「こんなの知れたら、姉様にめちゃめちゃどやされそう……」
なんだかんだ、スバルの文字の勉強に一番付き合ってくれたのは姉様――ラムだった。なので、今のスバルの体たらくを知ったら、とても怒られそう。
それでなくても、レムを一人にしてしまっている。そのことを知っても、きっとラムは怒るだろう。それは、スバルも怒られたいと思っていた。
「シュバルツ様?」
「――この島を出るために、俺たちの壁になるのが二個。その一個が、島と向こう岸を繋げてるのが跳ね橋ってこと」
「……はい、存じ上げています」
湖の真ん中、孤島の上に築かれた剣闘場を運営するための舞台。
孤島側から半分、岸川から半分と、両方から橋をかけなければ渡れるものにならないという跳ね橋は、普段は渡れないように上がっているというから困りものだ。
「ですから普段は下がってるんですって。かかるときに上がるんですよ」
「それ、何回言われてもピンとこない。だから実物を見たいんだよ」
聞き分けのない相手に言い聞かせるみたいな偽セシルスの口調だが、スバルの中での跳ね橋のイメージは、どうしても一本の橋を真ん中から二つに分け、その橋をそれぞれの側が起こして引き取るものなのだ。
当然、そのイメージなら跳ね橋は『下ろす』ものになるのだが。
「それで、シュバルツ様、二つ目の壁というのは……」
そのスバルの頭のイメージ図を手で振り払い、タンザが話の先を聞きたがる。その言葉にスバルは「ん」と小さく息継ぎしてから、
「言うまでもなく、呪則だよ。グスタフさんが剣奴全員にかけてるってやつ」
「――――」
丸い眉の眉尻を下げて、タンザが難しい顔になる。
当たり前だが、彼女も言われなくてもわかっていた問題――それが呪則だ。
剣奴孤島の剣奴全員に与えられた呪印、呪則を破ったものにはそれが発動し、そのものの命を奪うのだと。それが、グスタフが総督として、この剣奴孤島で絶対の支配者に君臨し続けている最大の理由だ。
誰もグスタフに逆らえず、逆らえば命を落とすことになる。
逆らわなくても、呪印が解けない限り、呪則違反でいつ命を奪われるかわからない。
その解き方も、呪則の詳細もグスタフ本人しかわからない。
「何が怖いって、詳しいルールがわからないことだよ。ただ普通に過ごしてるだけで、うっかり違反してても気付かないで死ぬかもしれないのに」
「まぁ、グスタフさんが総督になって最初の頃はそういう不安もあったらしいですが、このところはその不安はだいぶ風化してるみたいですよ。それこそグスタフさんも無闇に剣奴を減らしたいわけではないようなので絶対やっちゃいけないことは明言してくれてますし安心ですよね」
「明言……看守に逆らうなとか、剣奴同士で死合い以外の揉め事禁止とか、この島から勝手に逃げるなとか、だよな」
「ですです」
「――やはり、最後が問題ですね」
剣奴孤島で暮らしていくためのルールの整備、それがグスタフの敷いた呪則。
とはいえ、それがスバルやタンザの目的と真っ向からぶつかっているのは事実だ。
「裏道以外に、呪則を解いて剣奴をやめる方法もあるんでしょ?」
「ええ、ありますとも。そちらの場合は年に一度開かれる大規模な興行、皇帝閣下をお招きしての御前死合いでの褒賞なんてのが有名ですね。その機会以外にも興行の観客の方が大金を払って召し上げるって方法もあるとか。ですから剣奴も見目麗しく、華々しく美麗に魅せる必要が出てくるというわけです」
「……何となく、俺のイメージするグラディエーター感」
いわゆる、ローマ帝国なんかの剣闘士のイメージと近そうだ。
あまり詳しいことは知らないが、剣を持って戦わされる奴隷的なニュアンスで、それは字面的にも剣奴と同じような立場と言える。
有名な剣闘士には、他の剣闘士と一緒に反乱を起こしたような人物もいたと聞いたこともあるが――、
「したいのは反乱じゃなくて脱出だから、監獄からの大脱走とかの方かな」
ヒントになるのは、刑務所からの脱走物のパターンだろう。
ただし、そういう映画や漫画を見た知識も、スバルの中ではわりとおぼろげだ。それがそのまま使えることもないだろうし、スバルなりの正解を見つけるしかない。
「どうあれ、島の外に出るには跳ね橋と呪則、この二つをどうにかしなきゃいけない。そのためにも、跳ね橋の観察は絶対に必須、わかった?」
「……承知しました。それでも、跳ね橋が動くまでの時間をシュバルツ様が悠長に過ごされていたことの説明にはなっていませんが」
「根に持つなぁ……」
じと目のタンザに言われ、スバルは頭を掻きながら困り顔。
そんな話をしている間に、三人は目的の高台へ。孤島の中心にいくにつれて山なりになった中腹、湖の半分なら見渡せる位置に作られたバルコニーだ。
露台というより、物見台のような場所だが、そこにはスバルたち三人以外にもちらほらと先客がいた。他の剣奴も、野次馬にきているらしい。
その野次馬の列の中、ふと振り返った人影がスバルたちに手を振った。
「シュバルツじゃねえか。なんでここにいやがる」
「お、ヒアインもきてたんだ。冷やかし?」
「冷やかしなわけあるか! ……次の生贄がくるって聞いて、それで」
目を逸らし、その先の言葉が続かないのは蜥蜴人のヒアインだ。
スバルと同じ『合』の一員で、強気な態度と裏腹に結構なビビリである。悪い人間ではないが、かといって手放しに褒められた性格でもない。
今の言い訳も、冷やかし目的の部分を否定し切れていないし。
「ヒアイン様は、次にいらっしゃる方々を見ておきたかったのですか?」
「ぬぐ……」
「言いたくないなら、別に構わないのですが」
控えめなタンザの問いかけに、ヒアインがその大口を曲げて答えに躊躇う。が、すぐに沈黙に耐えかねて、ヒアインは「そうだよ!」と声を震わせた。
彼は手すりに肘を乗せて、眼下の湖を睨みつけながら、
「次にくる奴らの顔が拝みたかったんだ。悪ぃかよ」
「悪くないけど、どういう理由で? 自分は『スパルカ』を生き延びたから、次にくる人たちが『スパルカ』を生き延びれそうか見にきたとかだと性格悪いぞ」
「んな性悪なことするか! ……そういう奴も、いねえわけじゃねえだろうが」
自分は違う、とヒアインはスバルの勘繰りを否定した。
その答えはひとまず信じておく。スバルも、ヒアインは臆病なだけで悪人じゃないことはちゃんとわかっている。この、剣奴孤島のルールに一番馴染めなさそうなのも。
「……お前らは、なんできたんだよ」
「俺たちは冷やかしでも野次馬でもないよ。もちろん、今回連れてこられる人たちにも興味はあるけど、跳ね橋が見たいんだ」
「橋が見たい? ガキかよ……ガキじゃねえか!」
「いや、そうだよ、声でかいな」
自分の気持ちを誤魔化すためか、やたらと大きい声のヒアインにスバルは唇を曲げる。それから彼の隣に並んで、眼下の湖を眺めた。
まだ日の高い時間ながら、剣奴孤島の周辺は曇り空でうっすらと暗い。
どういうわけか、この辺りはこの雲が晴れることがないらしく、年がら年中曇り空となっているそうだ。空模様からして、人の気持ちを暗くする場所である。
「まぁそういう環境を少なからず楽しむ人もいるわけで好き好きですよ」
「意外だ。セッシーは晴れの日大好きなのかと……でも、雷光って名乗ってるんだから、雲があっても気にしないのか」
「なるほど、気にしたことありませんでしたが言われてみれば」
口元に手を当てて、意外な発見と目を輝かせる偽セシルスに肩をすくめつつ、スバルたちは手すりの前に並び、そうして問題の跳ね橋がかかるのを待った。
そして、そう時間の経たないうちに――、
「お、おおお――!」
最初は、ガラガラとどこかで歯車や機械的なものが動く音が聞こえた。
剣闘場の鉄柵が跳ね上がったのと同じような仕組みだと思うが、跳ね橋のそれは規模が段違いだ。なんといっても、ものすごい長さの橋を作らなくてはいけないのだから、それに見合った大きな歯車か、数の多い歯車を回しているのだろう。
そんなスバルの目の前に、ゆっくりと跳ね橋が『上がる』――。
「――――」
ゆっくり、ゆっくりと姿を見せたのは、湖中に深々と沈んでいた跳ね橋だ。
それは偽セシルスが何度も訂正した通り、歯車の回転する機構に合わせて動かされ、湖中から『上がる』ことで姿を見せた。
上がった跳ね橋を下ろすのではなく、沈めた跳ね橋を『上げる』のだ。
正確には一本の橋が上がったのではなく、連結した複数の橋が湖の底から浮上し、一本の橋となる仕組みであるようだった。複数に分割された橋が水平に持ち上がったところで連結して一つになり、大量の水を排水しながら完成する。
同じ仕組みが岸側の方でも動いていて、向こう岸でも跳ね橋が上がる。そうして上がった二本の跳ね橋が一つとなり、剣奴孤島を一時だけ孤立から解き放った。
「あの橋を動かしてるのは……」
「一応、跳ね橋を制御している塔がありますからその中で操作ですかね。実際にあの中に入ったことはないので何が待つのかはわかりませんが」
「――制御塔の中」
あれだけの規模の橋となると、こっそりと上げ下げするのは難しいだろう。
かといって、小舟のようなもので湖を渡るのも、水の中の魔獣の存在が邪魔をする。現実的な脱走手段を用意するには、まだまだ考えが足りなそうだ。
「……どうやら、あれが次の方々を乗せた馬車ですね」
考え込むスバルの傍ら、向こう岸を見ているタンザがそう呟いた。
黒い、巨大な疾風馬が一台の馬車を引いて、ゆっくりと跳ね橋を渡ってくる。疾風馬は鎧を装備させられた軍馬の様子で、見るからになかなかタフそうだ。
その馬車の周りを、その疾風馬より小さめのものに乗った兵士が守っている。それこそ前回の馬車の横転を気にして、警戒が強まっているらしい。
「おや、グスタフさんですね。直々のお迎えみたいですよ」
一方、孤島側の跳ね橋、その袂で馬車の到着を待つ一団。黒い制服に身を包んだ看守たちの真ん中で、ひと際大きい胸を張っているのはグスタフだ。
こちらも、前回の馬車の横転を警戒してのことか。もしくはグスタフなら、毎回こうしてちゃんと立ち会っている可能性も高そうだった。
「向こう岸まで一キロちょっと、二キロないくらいか……?」
距離があるので滅多なことは言えないが、跳ね橋の距離はそのぐらいに見える。
重さを分割した仕組みとはいえ、これだけの長さの跳ね橋なんて想像を絶する。基礎に魔法やその類の特殊な魔具が使われていても、相当な代物だった。
そうして、目的の跳ね橋の状態を確かめていると――、
「あ――っ!?」
そう声を裏返らせたのは、スバルたちと同じく跳ね橋を眺めていたヒアインだ。
――違う、彼が見ていたのは跳ね橋ではなく、渡ってくる馬車だった。巨大な疾風馬に引かれる馬車が跳ね橋を渡り終えて、中に乗っていた人たちが下ろされる。
剣奴として、正しくは剣奴の候補としてグスタフに引き渡される人たちだ。その顔ぶれを見て、ヒアインは目を見開いていた。
「あの、馬鹿共……捕まりやがった……!」
両手で顔を覆って、水かきの大きい指の隙間からヒアインが眼下を睨みつけている。
その彼の言葉の意味が、新しい顔ぶれを見たスバルにはわかった。連れてこられたのはみんな、ヒアインと同じ蜥蜴人――鱗の色の違いから細かい人種は違いそうだが、それでも大別すればそうカテゴリーされる人たちだ。
そして、ヒアインの反応はそんな彼らを知っている反応で。
「……俺を囮にしてまで、逃げたくせに」
苦々しく呟いたヒアインに、スバルは目を細めた。
『スパルカ』の最中、何度も何度もやり直して、一緒に参加したヒアインたちのことを知ろうと頑張ったとき、彼が剣奴孤島に連れてこられた事情も聞いた。
鱗の色を変えて擬態できる能力で囮をやらされ、奴隷商から仲間が逃げる時間を稼ぐ捨て石にされたと、そう話していた。
つまり、ヒアインの反応からして彼らが――、
「ヒアインを囮にした奴らか」
「ぐ……っ」
「ヒアイン様……」
スバルの言葉に表情を変えたヒアイン、その彼をタンザが心配げに見る。タンザも彼に好感はないだろうが、言葉を交わした相手への情はあるのだろう。
でも、ヒアインは少年少女の視線に「へ」と鼻を鳴らした。
「い、いい気味だぜ! 人をダシにするからてめえも馬鹿を見る羽目になんだ! 俺を苦しめといてあの様……馬鹿馬鹿しい!」
「ふむ」
「な、なんだよ、文句でもあんのか!?」
口を歪めて、吐き捨てたヒアインに偽セシルスが片目をつむった。その反応にヒアインが無謀にも噛みつくと、偽セシルスは「いえいえ」と首を横に振って、
「文句なんてありませんとも。ただただ凡庸なやられ役の発言だなぁと思いましてビックリと同時に感心していただけです」
「やられ役だと……?」
「他になんと言えましょう。これは僕が前々から思っていることなんですが、どうしていかにも端役という方々はこぞってそれっぽいことを口走るのか。絵物語の一本でも見てみればそれがどれだけ愚かなことかわかりそうなものでしょうに」
声を震わせたヒアインの前、偽セシルスが自分の手と手を高く合わせる。
パンと乾いた音を鳴らして、偽セシルスは周囲の注目を自分に集めながら、
「見渡して御覧なさいな。古今東西というほど読みふけったわけでもありませんが、目につく物語を片端から読み解けばそこには多くの配役がいます。そして名ありの人物はそれに相応しい言動をし、そうでないものは愚かしさに見合った言動をする。そしてこれは思いの外絵物語の外の現実にも適用されるのですよ」
「な、何を言ってやがる……?」
「弱い人は弱そうなことを言い! 強い人は強そうなことを言う! 花形役者はカッコいいことを言い、そうでない端役は聞こえづらい声でぼそぼそ喋る! ああ実に奇々怪々、不思議でなりませんそう思いません?」
「――――」
「何故皆さんこぞって自分から端役へ下ろうとするのか。みんな自分の人生を生き抜く必要のある役者でしょうに。もちろん主演役者は僕しかありえませんが」
視線を自分に集めたまま、偽セシルスはゾーリの足下で軽やかに音を鳴らし、視線だけでなく音の注意も一身に集中させる。
そして――、
「何か発言する前にじっくり考え直してみては? その発言、なんだかすぐ死ぬ雑魚っぽくないかと」
「――ッ」
ぐいっと顔を近付け、偽セシルスに真下から見られるヒアインが喉を鳴らした。
そんなヒアインの反応に笑みのまま、偽セシルスがすっと後ろに身を引く。でも、ヒアインは偽セシルスの目が怖かったようで、気付けば息を荒くしていた。
そのまま、偽セシルスから逃げるようにヒアインは背中を向けて――、
「ヒアイン」
「なんだ! もうほっとけ! お前らに関わるのは『合』のときだけで……」
「下の人たちは? 仲間だったんじゃないのかよ」
立ち去ろうとするヒアインを呼び止めて、スバルはそう問いかける。そのスバルの言葉にヒアインは「は!」と息を吐いて、
「言っただろうが! あいつらは俺を囮にして、そのあともヘマしたんだよ! そんな馬鹿共のことなんざ、知ったことか!」
「――でも、崖下に鞄を落としたとき、食い物を分けてもらったんだろ?」
そう、遮るスバルの言葉を聞いて、ヒアインが「あ」と目を見開いた。
愕然としているヒアインに、スバルは「他にも」と言葉を続ける。
「野盗から逃げるのに手を引いてもらったり、火が起こせなかったときに代わりにやってくれたり……最後の記憶は、悪いもんかもしれないけど」
「――――」
「その最後の顔が、その人の全部だと思うのは寂しすぎるよ」
極限状態で人間の本性が出る、なんて話がある。
なんて馬鹿馬鹿しい話だと、スバルはあの理屈にふざけるなと言ってやりたい。
非日常、どうしようもない事態に置かれたとき、そこでその人がしてしまった行動で、その人の全部を決めつけるような馬鹿げた話だ。
だったら、『スパルカ』の場面でヒアインが、ヴァイツが、イドラがやってしまったことが、彼らの本性だとでもいうのか。
臆病で卑怯で詐欺師で、それがその人の全部だと決めつけるのか。
逃げずに、出し抜かずに、騙さずに、スバルと協力した瞬間があったから、こうして全員で命を拾っているんじゃないか。
だから――、
「話してみたら、違う話が聞けるかもしれない」
今、スバルが大好きだと思う人たちも、最初から大好きだと思えたわけじゃない。
その人たちの嫌な顔も見た。それでも、スバルはみんなを好きでいたいと思った。そしてそれは何も、スバルだけが特別なことじゃないと思うのだ。
「……薄気味悪いガキだ。何でもかんでも知ったような口ききやがって」
スバルの訴えに、ヒアインは憎々しそうにそう呟いた。
彼からすれば、スバルに話した覚えのない話をされて、さぞかし具合が悪いだろう。それでも、薄気味悪さよりも先立つものがあった顔で、
「あいつらに『スパルカ』は越えられねえよ。だから、もう無理だ」
それだけ言い残し、ヒアインは今度こそ足を止めずに高台から歩き去っていく。
でも、彼は気付いているだろうか。今の答えはヒアインの気持ちではなく、状況が塞がるからできないという言い訳でしかない。
その状況が変わったら、その言い訳はもう通用しないのだということに――。
「シュバルツ様、ヒアイン様とそのお知り合いは気の毒と思いますが……」
ヒアインの背中を見送りながら、タンザがそっとスバルの袖に触れてくる。彼女の丸い瞳は、同情心と一緒に焦る気持ちが揺れていた。
自分たちのクリアしなくてはならない障害、その一つである跳ね橋を目にしたことで、よりこの島から抜け出したい気持ちが強くなったのだろう。
当たり前だが、タンザにはこの島を出ることの方が、ヒアインの気持ちよりもずっとずっと大事だ。もちろん、それはスバルも同じである。
スバルにも、ちゃんと大事なものも、優先したいものもある。
ヒアインと、これまでスバルが出会ってきたものたちと、比べるまでもない。
でも――、
「――バッスー、それは茨の道というやつですよ」
「セッシー……」
沸々と、自分の胸の奥で熱くなる感覚と戦っているスバルに、偽セシルスが言った。
振り向くスバルの前で、偽セシルスは「よ」と軽々と手すりの上に立つ。見ていてヒヤッとする光景だが、彼は細い手すりの上で器用にバランスを取りながら、
「置かれた状況の中、最善の選択をどれだけ選んでもあらゆることを思い通りにできることは稀です。そうした全てを手に入れる存在には前提となる資格がある。選ばれた主演役者であるという資格が。もしそうでないのに分不相応を望めば――」
「望んだら?」
「ただ死あるのみ、ですよ」
言いながら、偽セシルスの体が大きく手すりの向こう側に傾く。それを見て、タンザが「あ」と目を見開いてとっさに手を伸ばそうとする。
でも、それよりも早く、膝を曲げた偽セシルスが倒れる勢いを殺した。そうしてしゃがみ込む偽セシルスが、手すりの前のスバルと顔を突き合わせ、
「ですから割り切った方がずっと楽に物事を進められます」
「……割り切る?」
「ええそうです。運命は変えられないと、目の前にあるものを至極当然と受け入れる。自分の力で切り抜けられないものは必然その先の道で滞るもの。自らの道は自らで切り開く他にないと割り切るのです」
しゃがんだまま、器用にピクリともしないで偽セシルスが言い放つ。その言葉を真っ向から浴びながら、スバルの脳裏に偽セシルスの噂が蘇った。
彼は自分が参加した『スパルカ』で、味方が全滅するまで動かなかったと。
その後、一人になった途端に剣闘獣を殺し、以降は『合』の仲間不在のままで死合いをこなし、相対する全員の命を奪って今に至っていると。
「それが、セッシーが人を助けない理由?」
「どのような障害も己の力で拓くことができなくては。他人の力を借りて物事を成し遂げれば、次また同じ物事と遭遇しても越えられない。永遠に力は借りられませんよ。人はいずれ死ぬ。僕ですら不死ではない」
意図はわかる。理屈も、わからないではない。
でもそれは、偽セシルスが強くて問題を斬り拓ける人だから言えてしまう理屈だ。それはとても厳しくて、優しくない。
「それにセッシーはそう言うけど、出会いが人を変えることもあるじゃないか。そうしたら変わったその人は、次の障害を乗り越えていくかもしれない。それに」
「それに?」
片足で手すりの上に立って、曲げた膝の上に肘を乗せて頬杖をつく偽セシルス。その笑みを含んだ顔を睨みつけて、スバルは歯を剥いた。
この、何でも一人で切り抜けられる超人に、一人で生きられない凡人として。
「セッシーは割り切れっていうけど、この割り切れない気持ちが大事なんだよ」
「――――」
「この割り切れない気持ちが、誰かを救う原動力になるんだ。これを、青臭いガキのワガママだって言われても、そうなんだ」
そう、スバルは信じていたい。
これは体の大小は関係ない。ナツキ・スバルが、大きくても小さくても思うこと。
信じることだ。大人ぶった賢しさで割り切らない、青臭い理屈を。
「あはっ」
スバルの宣言を聞いて、偽セシルスの表情が変わった。
薄笑いから、満足げな大笑に。
それを目の端に留めながら、スバルはやるべきことを決めたと歩き出した。
「シュバルツ様!? セグムント様、何を……」
「ああ、いいですね、バッスー! 僕の理屈にも合っています。カッコいい人はカッコいいことを言い、強い人は強そうなことを言う。いずれの配役も見合ったことを言うことから始まるのです。その意気込みまさしく運命の反逆者!」
「セグムント様!」
手すりの上、けらけらと笑っている偽セシルスにタンザが食って掛かる。が、その二人に構っている時間もスバルには惜しい。
向かう先が二ヶ所、一ヶ所は立ち寄るだけでいいにしても、もう一ヶ所とはちょっとした議論か説得、もしくは言いがかりみたいなものが必要だ。
それはおいおい、用意するとして――。
「ヌル爺さん!」
早足に島内に戻ったスバルは駆け足で治癒室に向かった。扉を乱暴に開けると、中でこっくりこっくりと舟を漕いでいた背中が慌てふためく。
細い体に伸びっ放しの長い髭、綿棒みたいな印象のお爺さんは治癒室にこもって癒者をしているヌル爺さんだ。
頭を振り、飛び込んできたスバルに目をぱちくりさせるヌル。その相手にスバルは「ごめんごめん」と前置きしてから、
「――頼んでたもの、できてる?」
△▼△▼△▼△
「次の『スパルカ』があるそうだ……オレたちには見る理由があるだろう……」
なんて、空気の読めない誘いをしてきたヴァイツを、ヒアインは憎々しく思う。
同じ『合』の一員に組まれているから、仕方なく一緒にいることが多いが、そもそもヒアインはヴァイツとは気が合わないのだ。
それも、衝動的に突っかかる自分と、本当に度胸があるヴァイツとの相性の悪さ――引っ込みのつかない自分が、まず売り言葉をしてしまうところにあるとわかっている。
わかっていても、どうしてもこれが治らない。
そのせいで、これまでも散々嫌な思いをしてきた。剣奴としてギヌンハイブに送られる羽目になったのも、この口が災いしたのが原因だった。
一緒に行動していた連中、彼らを奴隷商から逃がすための捨て石にされたのは事実。でもそもそも、奴隷商に目を付けられたのはヒアインの失言が理由だ。
日雇いでも真っ当な仕事が見つからず、イラついていたとはいえ、明らかに危険な信号が出ていた連中と酒場で揉めて、それを根に持たれた。
何日も嫌がらせのような追跡を受け、ついには直接的な暴力に訴えられるようになり、仲間たちは自分たちを守るため、決断したのだ。
「わかってんだよ、そんなこと……」
臆病者のくせに、気が逸って噛みついて、それが理由で問題を招いて、それでもギリギリまで仲間たちはヒアインを見捨てようとはしなかった。
それに甘えっ放しが嫌で、「どうしようもなくなったら、俺は捨ててくれ」なんて格好つけたのだ。言っても、どこかで自分を捨てる勇気が彼らにないと思っていた。
最後の最後で、仲間を切り捨てる勇気を彼らは持てないと、彼らも自分と同じ臆病者なんだと思い込んで、甘えていた。
「てめえが一番どうしようもないなんてこと、わかってんだよ……」
それを見捨てられと、囮にされたと、捨て石にされたと騒ぐなんて馬鹿げてる。
とても愚かなことだと、ヒアインも自分でわかっていた。
でも、そうでも言わなくては自分の心を守れなかった。自分は悪くないのに、相手が悪かったからひどい目に遭ったんだと、そう信じ込みたかった。
せめてそうして仲間を呪うことで、助かった彼らを呪って自分を正当化したかった。
「なのに、なんでてめえらも捕まってんだよ……っ!」
せっかく、自分がこうして捕まって、絶望的な状況に放り込まれてやったのに、どうして彼らも捕まったのだ。呪う大義名分を奪われて、ヒアインはただの嫌な奴だ。
ただの嫌な奴に成り下がって、仲間が死ぬところを為す術なく見ているしかない。
「今回は連れてこられた人員で『合』が成立しているそうだ。私たちのときと違い、到着してすぐに放り込まれるとは……」
剣闘場を観客席から見下ろし、腕を組んだイドラが声を震わせている。
震える声を隠そうとしているが、隠せていない。イドラも強がっているが、その根っこの部分はヒアインとそう変わらないほど臆病だ。
それでも、イドラには装えるだけの気概がある。自分にはない。惨めだった。
「――これより、『スパルカ』を始める!!」
観客席が剣奴たちで雑多に埋まると、総督であるグスタフの太い声が響き渡る。
自分たちの『スパルカ』のときには余裕がなかったが、剣闘場の一角にはグスタフが会場を見渡せる舞台――というより、興行のときにお偉方の席になる場所があった。
そこから会場を見下ろし、グスタフが四本の腕を大きく広げる。
途端、グスタフの真下、剣闘場の奥と通じる通路が開かれ、鉄柵で閉じられた通路の奥から剣闘獣がゆっくりと姿を見せる。
それはヒアインたちと戦った魔獣とは違い、その両腕に鳥の翼を生やし、全身に柔らかそうな毛で包まれた大きな大きな鼠だった。
ただ、違うのは見た目だけで、その獰猛さや危険さに大きな違いがないことは、ヒアインの本能の警鐘がわかりやすく伝えてくれる。
つまり、違う剣闘獣だから『スパルカ』の難易度が下がる、ということはないのだ。
「連中が、今回の参加者だな……」
剣闘獣の低い唸りが聞こえる中、ヴァイツの言葉通り、手前の通路の柵が開いて、そこから今回の『スパルカ』の参加者――蜥蜴人の五人が現れる。
それぞれ、不安と緊張に鱗を震わせている面々、全員の顔に見覚えがあった。
遠目だったから見間違えた、という最後の希望は潰えた。
ヒアインはぐっと顔を俯けて、自分の逃げ場がどこにもなくなったのだと理解する。
何の因果か、『スパルカ』を生き延びてしまった臆病者のヒアイン。
ヒアインと同じ場所へ連れてこられ、『スパルカ』を生き延びられずに命を落とすことになるだろう仲間たち――いったい、これは何の呪いなのか。
自分が呪った結果、彼らがこんな目に遭ったのだろうか。
だとしたら、ヒアインの呪いの効果も大したものだ。いっそ、自分以外の、この島にいる全員を――否、この帝国の全員を呪って、呪って、呪い尽くしてやるのに。
「……馬鹿な」
「――ぁ?」
手始めに、やるなら自分や仲間をここに落とした奴隷商たちからだ。
そんな益体のない現実逃避に走っていたヒアインを、唖然としたイドラの呟きが正気に戻した。
何事があったのか、イドラは目を見開いて、愕然と剣闘場を見ている。そして、それはイドラだけでなく、その隣のヴァイツも――否、二人だけではない。
――会場の、観客席にいる大勢の剣奴たちが、驚きにどよめきを起こしていた。
その理由は明白で、剣闘場を見下ろしたヒアインも周りと同じ顔になる。
何故なら、五人の蜥蜴人の傍には、いるはずのない六人目の人影がいて――。
「な、な、な、何してやがんだ、シュバルツ――!?」
喉を震わせて、ヒアインはいてはいけない存在、黒髪の少年の名前を呼んだ。
先ほど、高台で別れたばかりの、生意気な言葉を投げかけてきた少年、彼はヒアインの情けない絶叫を聞くと、くるっとこちらに振り返った。
そして、命懸けの『スパルカ』を目前に震える蜥蜴人たちの中、ビシッと観客席のヒアインの顔を指差して、言ってのける。
何をしているのかと、そう聞かれて――。
「――最強の援軍」と。