第七章55B 『城郭都市狂騒曲』
――時は、翼持つ存在の襲来よりわずかに遡る。
「うう~、また失敗してしまったであります……僕は本当にダメダメであります……」
ゆるゆると、桃色の癖毛を頂いた頭を振りながら、一人の少年が通りを歩く。
裾丈の短いズボンで白い足を露わにするのは、都市で一番大きな屋敷から出てきた少年――シュルトだ。浮かない顔をしたシュルトはため息をついて、自分の細くて柔らかい、ちっともたくましさのない手を握ったり開いたりしている。
まだ幼いシュルトは、すでに自分の終生の主人をたった一人に定めている。
貧しい村の生まれだったシュルトは、その年の徴税の重さに口減らしされ、家から追い出されて道端で飢えて死ぬはずだった。空腹と渇きで泥を齧り、それが人生最後の食事になりかけたシュルトを救ったのは、そこに通りがかった眩い太陽――。
その、世界全部を焼き尽くすような生き方に救われ、今のシュルトがある。
だからこそ、シュルトは自分の持てる全部と、これから持つだろう全部を大恩ある主人に捧げ、尽くしていきたいと本気で思っているのだ。
それなのに――、
「ちっとも役に立てなくて、自分が嫌になるであります……」
深いため息――そのため息すら、肺活量の問題で人並みより弱めに吐きながら、シュルトは自分の不甲斐なさに頭と胸と心をまとめて痛めていた。
先頃も、大事な主に命じられた役割を果たさんと奔走し、失敗してしまった。
湯殿にお湯を張るだけの簡単な作業なのに、水は溢れさせるわ、湯を沸かすための魔鉱石は扱いを間違うわで、てんやわんやの状態だ。
まだ、プリシラに仕えて日の浅い、それも足が悪いレムに迷惑をかけてしまい、今度ばかりは自分の情けなさに愛想が尽きてしまう。
「プリシラ様もアル様も、焦って変わらなくてもいいと言ってくれるでありますが……」
優しいプリシラと心の広いアルが、そう慰めてくれる気持ちは嬉しい。
でも、そんな二人に何も返せない自分がシュルトは嫌なのだ。その点、二人とは違った見方でシュルトと接してくれるハインケルは、わかってくれている気がする。
アルから教わった剣の練習、そのやり方はシュルトに向いていないと、そう違うやり方を教えてくれたのもハインケルだ。おかげで、前よりちょっとだけ、力こぶのところが固くなってくれた気がする。
「一日素振りしたら、十日もお休みするアル様のやり方より、毎日続けるハインケル様のやり方の方が僕向きだったであります。アル様をガッカリさせたくないから、アル様には言えないでありますが……」
ともあれ、そうした成長の兆しもあり、シュルトはちょっと調子に乗っていた。
そして、そんなシュルトの甘えと驕りを天は許してくれなかった。それが、あの湯殿での大失敗に繋がったのだと、シュルトは大いに反省する。
今頃、お湯を張り直した湯殿で、レムが主人――プリシラの湯浴みを手伝っている頃だろうか。レムは何でもできて、尊敬できるとしみじみ思う。
「まるで、ヤエ様みたいであります。……ヤエ様、お元気なんでありますか……」
ふと、シュルトの脳裏に蘇ったのは、以前、プリシラの下で働いていた元気で明るいメイドのヤエ・テンゼンという女性だ。
プリシラの身の回りの世話を担当し、アルともいつも楽しく話していて、シュルトにも優しくしてくれる彼女が、シュルトはとても好きだった。
しかし、彼女はある日、家族に不幸があったらしく、突然に屋敷の仕事を辞めて田舎へ帰ってしまったのだ。シュルトは挨拶する暇もなく、とても寂しい思いをした。最後に彼女を見送ったアルの話では、シュルトによろしくと言っていたらしい。
もしかしたらレムは、プリシラの傍仕えとしてヤエの後釜になるかもしれない。
優しくて努力家のレムがそうなってくれると、シュルトとしてもとても嬉しい。プリシラとも仲良くしているし、きっとレムも楽しいはずだ。
何より――、
「プリシラ様とご一緒なら、みんな幸せいっぱいでありますから」
他ならぬ自分の実体験が、シュルトにプリシラの存在の大きさを物語らせる。
レムも、色々と悩み多い年頃なのか、物憂げに考え事をしていることが多い。そんな思い悩む暗い顔も、プリシラという太陽が眩く晴らしてくれるだろうと。
「ア、シューきタ」
「むむ! であります!」
そんな思いを胸に、頭を上げたり下げたりしていたシュルトが足を止めた。理由は聞き覚えのある声と、自分を指差す相手を正面に見たからだ。
通りを歩くシュルトの真ん前、こちらを指差しているのは黒髪の先を桃色に染めた幼い少女だった。その少女は隣に一人の青年を連れていて、意識し合ったシュルトと少女の様子に気付いた彼は、「やや!」と明るい声を出した。
「そこにいるのは執事くんじゃないか。あのお姫くんは一緒じゃないんだね」
「プリシラ様は屋敷でゆったりであります、フロップ様。ウタカタ様と一緒に、お散歩の最中だったでありますか?」
「ウー、様って呼ばれるの珍しイ。面白イ」
柔らかく微笑み、手を振る青年――フロップが、シュルトの質問に「そうなんだ」と頷く。彼と一緒にいる少女、ウタカタも頬に手をやり、何やらシュルトからの呼び名に感慨深げにしている雰囲気だ。
フロップとウタカタの二人とは、シュルトもこのグァラルにきてから初めて知り合った関係だ。聞いた話だと、フロップは街から街へ旅をしながら商売をする行商人で、ウタカタは『シュドラクの民』という部族の戦士であるらしい。
二人とも、自分の寄って立つ場所があって立派な人たちだ。
「おや? なんだか浮かない顔だね、執事くん。もしかして、その顔は悩みがあるんじゃないかと思ってしまうよ」
「ええ!? す、すごいであります! フロップ様、わかるでありますか!?」
「ああ、もちろん、わかるとも! なにせ、大抵の人には悩みがあるからね! なんと、悩みなんてなさそうな僕の妹にもあるんだよ!」
「ミディー、悩みなさそうだっタ」
「あるんだよ! ビックリだね!」
自分の腰に手を当てて、フロップが大きく口を開けて大笑い。そんなフロップの明るい態度を見ていると、シュルトもなんだか気持ちが明るくなってきた。
フロップも、プリシラと同じで周りを明るくする太陽みたいな人だ。きっと、フロップの周りには色とりどりのお花がたくさん咲くことだろう。
「お花畑の王子様みたいであります」
「ははは、王子様なんて大層なものじゃないさ。僕は単なる一介の行商人だとも! それで執事くん、どんな悩みを抱えているんだい? 僕に話してみないか?」
「いいんでありますか? お散歩中だったんじゃ……」
腰から体を傾け、そう聞いてくれるフロップにシュルトは恐縮する。ちらと視線を向けるのは、フロップと一緒にお散歩していたはずのウタカタだ。
しかし、ウタカタはその丸い瞳を細め、ちっとも嫌そうでなく首を横に振る。
「ウー、暇してタ。フーと遊ぶのも退屈してたかラ、シューの悩み聞ク」
「そうなんだ。ああっと、退屈しのぎなんて思わないでくれたまえよ。どんな悩みも悩んでいる本人にとっては重大事さ。だから、しっかり聞かせてもらうとも」
そう、あまりたくましくない胸を叩いてから、フロップがシュルトとウタカタの二人を道の端、そこにある花壇の縁石の方へ連れていく。
そうして三人、縁石にお尻を乗せて、風を浴びながら話を始めた。
シュルトの悩み、それは前述の通り、不甲斐ない自分という問題だ。
プリシラのため、もっともっとできる自分になりたいのだが。
「なかなか、うまくいかないであります。フロップ様やウタカタ様は、どうやって今の立派な自分になったのでありますか?」
「ほほう、なるほど。どうやって今の自分になれたか、か……哲学的だね!」
「テツガク……そうなんでありますか……」
笑顔のフロップの答えに、シュルトは学んでいない勉学の気配に身構えた。
そのテツガクがわからなくては、シュルトの悩みの答えは得られないのだろうか。だとしたら、そのテツガクも勉強する所存だが。
「ウーがウーになったのハ、マーがウーを産んだかラ」
「マー、でありますか? それは……」
「ウーの母! ターと仲良かっタ。でモ、自分を刺して死んダ」
「そ、そうなんでありますか……っ」
浮かせた足をパタパタさせながら、ウタカタが自分の母の死に様を語る。
気にしていない態度だが、予想外の内容を聞かされたシュルトの方は驚いた。そのウタカタの頭を、彼女を間に挟んで反対のフロップが優しく撫でる。
「そうか、お母上がそんなことに。それは大変だったね、ウタカタ嬢」
「ウーよリ、ターの方が大変だっタ。ウーはミーとかみんなが育ててくれたかラ、全然大丈夫。こんな感じに育ってル」
「そうだね、確かにウタカタ嬢はとても立派に育っているとも。きっと、お母上もそのことを喜んでくれているだろうさ」
「――? マーは死んだかラ、喜ばなイ。フー、変なこと言ってル」
フロップに頭を撫でられながら、ウタカタは不思議そうな顔をする。ただ、フロップに撫でられるのは悪い気はしないらしく、彼の手を止めようとはしなかった。
そんなウタカタの反応に、フロップが青い目を静かに細めながら、
「さて、ウタカタ嬢の答えはとてもよかった。実際、どうやって今の自分になったのかという話をすると、僕も同じような答えをすることになると思うな」
「同じ答え……じゃあ、フロップ様も、ウタカタ様とおんなじ風にシュドラクの人たちに育てられたでありますか?」
「だとしたら、僕には家族がたくさんいることになってとても嬉しいね! だけど、僕の家族は妹のミディアム以外だと、もう死んでしまった人たちしかいないんだ。とても悲しくて寂しいことだけれどね」
「……そう、でありますか」
前半はいつもの調子で、後半は少しだけ声の調子を落としたフロップ。彼の答えに目を伏せて、シュルトはまたしても自分のダメさに感じ入る。
ウタカタにもフロップにも、とても無神経なことを聞いてしまっている。
シュルトだって、自分を捨てた家族のことを聞かれたら、あまり聞いた人に嬉しい答えは返せないのだ。もっと、聞く前に色々考えるべきなのに。
「そう自分を責めることはないよ、執事くん。これから学んでいけばいい。それこそ、さっきの僕の答えの続きになるんだけどね」
「さっきの……ウタカタ様と同じ答え、というやつでありますか?」
「そうだとも。ウタカタ嬢と同じというのはね、僕も周りにいた人の影響を受けて、今のこんな僕になったというところなんだ」
両手を広げて、フロップが今の自分を見せびらかすように笑う。
その朗らかな笑顔と人を安心させる声色、どちらもフロップのフロップらしさに通じる大切なものだ。それも、人からの影響で培われたものなのだろうか。
「その昔、僕や妹はとてもひどい環境で暮らしていてね。みなし子たちを集めて育てる施設だったんだが、食事は少ないし、働いてもお金はもらえないし、その施設の大人たちは何かあるとすぐに子どもを殴るんだ。ひどい場所だよ」
「ひ、ひどいところであります……! そんなところにいたら、いったい子どもはどうすればいいんでありますか!?」
「ウーなら焼き討ちすル」
「焼き討ちするであります!」
「ははは、それも一案だったかもしれないね。でも、そうはならなかったんだ」
フロップの過酷な過去に、ウタカタの提案する火攻め案にシュルトも賛同する。が、その二人の答えに笑うフロップは、すでにその過去を通り越したあとだ。
いったい、どうやってその過去を通り越したのか――、
「まぁ、余所の人の手だよ。僕たちを助けてくれた恩人がいてね。それが、もう死んでしまった僕や妹の家族なんだけども」
「……助けてもらった、でありますか。それは、すごくよかったであります」
「わかるかい、執事くん」
「わかるであります。……僕も、プリシラ様に助けてもらったでありますから」
自分の胸にそっと手を当て、それが骨と皮ばかりが浮いた体でなくなった事実を指先に感じる。それが、シュルトが今日までプリシラに与えてもらったものの証だ。
シュルトがたくましく、強く元気で立派になるほど、あの日のプリシラの行動が間違いでないと証明できる。プリシラにも、後悔させずに済む。
そんなシュルトの赤い瞳の輝きに、フロップは小さく笑い、
「大体、僕も似たような思いを抱いたよ。だから、僕も自分の大きな目標を叶えるために頑張っている最中だ。なかなか道は険しいが、諦めずに行きたいものだね」
「諦めないでほしいであります! あ! でも、もうちょっと具体的に教えてほしいであります。フロップ様は、どう頑張ってるでありますか?」
「うん、そうだね。色々と考えてみたんだが……ここは一つ、僕ではなく、僕の妹の話をするとしよう。僕より背がでっかくて、腕の立つ元気な妹の話を」
「おおー、であります!」
フロップが大きく手を上に出したのは、話題の妹がそれだけ大きい人だからか。
こうしてフロップから妹の話を聞くのは初めてではないが、シュルトは直接その本人に会ったことがない。プリシラと合流するためにハインケルと一緒にグァラルにきたときには、すでにフロップの妹は別の場所に旅立ったあとだったからだ。
ともあれ――、
「ミディー、おっきくて強イ。ミーも感心してタ」
「何より声が大きくて、物怖じしないところが売りなんだ。もちろん、腕が立つのも兄の僕としては鼻が高いところさ! 強くなるために頑張っていたからね」
「強くなるために……でありますか! 尊敬するであります!」
きっと、強くなるために前向きに、向上心を失わずに努力したのだろう。
腐らずに頑張り続けること、それが上達のコツなのかもしれないと、そうシュルトが受け止めようとする。しかし、「いやいや」とフロップは肩をすくめた。
「そう思うだろう? でも、ところがどっこい! ミディアムが強くなったのは、もうちょっと後ろ向きな理由なんだよ」
「う、後ろ向きでありますか? それはどういう?」
「うん、簡単なんだ。――ミディアムはね、僕が大人に殴られたとき、僕の傷をずっと優しく撫でていたんだよ」
目尻を下げ、過去を懐かしみながらフロップがそう話す。
その穏やかな語り口と、しかし語られる内容の落差にシュルトは困惑する。殴られた傷を撫でていて、それが強くなる切っ掛けと言われても繋がらない。
「殴られるなんて、可哀想であります。でも、その傷を妹さんが優しく撫でてくれていたとき、フロップ様はどうしていたんでありますか?」
「僕かい? 僕は笑っていたよ。ミディアムの気持ちが嬉しかったし、僕が笑っていなかったら、僕に庇われたミディアムが気に病んでしまうからね」
「――――」
「だから、僕が庇い切れなくて初めて大人に殴られたとき、ミディアムは心の底から驚いたんだ。殴られた傷を撫でられたら、痛いんだよ。治ったり、痛みがなくなったりはしないんだ。とても残念なことに」
ゆるゆると首を横に振って、フロップは寂しげにそう答えた。
そのフロップの答えを聞いて、察しの悪いシュルトもようやく彼の真意を理解する。彼の妹が、どうして強くなろうと諦めずに志せたのかも。
「痛いのが嫌だったラ、やられないようにするしかなイ。ミディー、そう思っタ?」
「まぁ、そういうことだね! 我が妹ながら、とても単純でいい答えだ。おかげでミディアムが強くなってくれて、僕たち兄妹の旅は安全になったけどもね!」
そうして大げさに笑うフロップの様子が、シュルトには少し違って見えた。
明るいだけでなく、誇らしげに見える。きっと、フロップは心の底から妹のことを自慢に思っているのだ。それが、とても羨ましい。
「僕も、フロップ様の妹さんみたいに、強くなりたいであります……!」
「それを聞いたら、きっとミディアムも喜ぶさ。いや、照れるかもしれないな。誰かのお手本にされる経験なんてあまりないだろうし、それもとても楽しそうだ」
ぎゅっと小さな拳を固めるシュルトに、フロップが笑顔で太鼓判を押してくれる。
そんな二人のやり取りを聞きながら、ウタカタが「シュー?」とシュルトを見て、
「強くなりたいなラ、ウーと一緒に練習すル? 弓の練習」
「弓、でありますか? でも、僕は剣の練習も……ううん、するであります! 両方やるであります! その方が、倍強くなれるであります!」
「どっちもやり遂げられたら、まさしくそうだとも! 賢い!」
両手を空に突き上げて、決意を燃やすシュルトにフロップが同調した。そうして一緒の訓練の約束に、ウタカタも小鼻を膨らませて胸を張る。
彼女は背負った弓をシュルトに見せながら、
「ウーモ、シューみたいに頑張ってル。ターみたいな達人になル」
「その、ター様とも会ってみたいであります。ウタカタ様は、どうして弓矢の達人になりたいんでありますか?」
「マーが言ってタ。旅人、ウーが弓矢で殺すたメ」
「なるほどであります。……であります!?」
思ったよりも過激な答えがあって、シュルトの理解が一瞬遅れた。
旅人を殺すためと聞こえたが、それはいったいどういう意味なのか。詳しいことを聞いていいものなのか、さっき反省したばかりのシュルトは悩む。
――そうして、シュルトが悩んでいる間に、問い質す時間は奪われた。
「――執事くん! ウタカタ嬢!」
「――!?」
「フー?」
不意に、フロップの表情が変わり、鋭い声がシュルトとウタカタを呼んだ。その勢いにシュルトの肩が跳ねると、フロップの腕がその肩を強く掴む。
そして、縁石に座るシュルトとウタカタを引き寄せ、フロップが叫んだ。
「空が危ない感じになっている! ちょっと慌てて逃げよう!」と。
△▼△▼△▼△
――空の彼方にその群れが目撃されたとき、ハインケルの姿は都市庁舎にあった。
その場にいたのは、城郭都市に駐留する戦力の実質的な指揮官たちだ。
元々都市に派遣され、城郭都市の攻略に際してプリシラ――正確にはアベルという男の幕下に加わったズィクル・オスマン二将と、その部下たち。
そして帝国兵よりも数は少ないが、一人一人の実力は決して侮れない密林の狩猟民族『シュドラクの民』と、それを率いる族長代行のミゼルダ。
ハインケルが庁舎に足を運んだ際、先んじてこの両名は顔を突き合わせ、今後について話し合っている真っ最中だった。
プリシラの予言めいた前兆の話、彼女に未来を予知する力があるなどと思わないが、ハインケルはああした規格外の存在が有する眼力を侮ってはならないと知っている。
プリシラに限らず、特別な力や宿命を負うものたちは常人とは目線の高さが違う。
目線の高さの違いとは、すなわち見える景色の違いだ。より遠くまで、常人には見えないものを見通せる彼らとは、常人――否、凡人は決してわかり合えない。
それを、ハインケルは四十年と少しの人生で痛いほど思い知ってきた。
故に、自分には理解できないからと、頭ごなしに否定することはしない。
プリシラの言を切り捨てず、都市庁舎へと足を運んだのもそれが理由だった。
そして――、
「――――」
窓の外、最初にその異常に気付いたのは鼻を鳴らし、何かを直感したような顔をしたミゼルダだった。
城郭都市を攻略する際の戦いで、その片足を失ったらしいシュドラクの元族長。彼女は膝下をなくした右足に杖の先のような棒を取り付け、足の代替としている。
歩くたびに杖をつく音が鳴るため、そうして振り向いたときにも同じ音が鳴った。
目力の強いミゼルダの美貌、その横顔が引き締まった瞬間、居合わせたハインケルやズィクルは瞬時に異常を悟り、同じ方向を見た。
そうして空の彼方から押し寄せる黒点の群れを見て、ズィクルが呟いたのだ。
「――飛竜の、群れ」
「――ッ! ズィクル! 兵たちに報せロ! 私はシュドラクを動かス!」
直後、状況の危険さを悟ったミゼルダが、ズィクルの丸い肩を張り飛ばし、凄まじい勢いで床を蹴って庁舎の屋上から飛び出した。
とはいえ、片足をなくして間もない状態だ。窓の外へ身を躍らせるのではなく、階段を飛ばして大急ぎで彼女は外へ向かう。
その勢いに巻き込まれ、ズィクルもとぼけた面構えを鋭くすると、
「鐘を鳴らせ! 敵襲! 空からくる!」
そう叫び、側近の背中を蹴飛ばして、城郭都市全体に危機的状況を知らしめた。
それらの反応を一通り見てから、ハインケルも腰の剣に手をやる。そして、鳴り響く警鐘に負けず劣らず、大きく鋭い舌打ちを鳴らした。
「ハインケル殿! プリシラ殿は……」
「プリシラ嬢なら屋敷だ。何か起きるとは読んでた。すぐに動き始めるだろうさ」
振り向くズィクルに応じて、ハインケルは空の敵影に目を向ける。
ほんの数十秒で明らかに色濃く、大きさを増したそれは凄まじい速度で都市へと迫っている。もはや、一刻の猶予もない。
「敵襲だとして、攻め手の心当たりは?」
「――。あの飛竜の数、尋常ではありません。飛竜乗りをあそこまで動員できる戦力は帝都にも……そうなる以上、可能性は一つ」
「だから、その可能性はなんなんだ!」
回りくどいズィクルの物言いに、時間を削られるハインケルの語気が荒くなる。
そのハインケルの追及に、ズィクルは一拍置いて、
「『飛竜将』マデリン・エッシャルト……彼女は飛竜を操ります。つまり」
「クソったれ、『九神将』か……!」
聞き知った名前を出され、ハインケルが自分の頭を掻き毟る。
帝国の内情に詳しいわけではないが、ハインケルも一応はルグニカ王国の近衛騎士団の副団長だ。立場上、他国の情報についても一般よりはるかに知識がある。
帝国の有する最高戦力、『九神将』についても名前と異名ぐらいは聞いたことがあった。
いずれも、常外の実力を持った一騎当千の戦士らしく、王国でそれらとまともに渡り合えるのは、近衛騎士団長のマーコスを始めとした最高戦力のみ。
あとはもちろん、王国最強の『剣聖』だが――、
「ラインハルトと渡り合う、とんでもないのがいるって話じゃねえか……」
ヴォラキア帝国最強の剣士は、ラインハルトに引けを取らない実力者と聞く。
当然、『九神将』にも力の大小はあるだろうが、そうした怪物と肩書きを並べる存在が攻めてくるなど、ハインケルにとっては悪夢も同然だ。
元々、ハインケルは帝国になんてくるつもりは毛頭なかった。
プリシラがヴォラキアへ向かうと勝手に決めてしまって、なし崩しに付き合わされてついてきてしまっただけだ。この城郭都市の存亡にだって、何の興味もない。
だが――、
「プリシラ嬢の機嫌を損ねるわけにはいかねえ……。プリシラ嬢が王様になっても、俺が追い払われてたら意味がない」
気紛れで、究極的には何を考えているのかわからないのがプリシラだ。
どういう風の吹き回しか、今はハインケルを手元に置いてくれているが、有用性を示さなくては手ぶらで放り出されることになりかねない。
それだけは、絶対にあってはならない。今やプリシラは、ハインケルが縋る糸を持っている唯一の相手と言っていいのだから。
「うだうだと話してる時間はない。飛竜の群れを追い払うぞ。ズィクル、お前はここで全体の指示をしろ!」
「そのつもりですが、ハインケル殿はどうされる?」
「――俺は、好きにやらせてもらう」
ズィクルやミゼルダと違い、ハインケルには率いる兵も仲間もいない。
仮にいたとしても、近衛騎士団の副団長というハインケルの肩書きはお飾りだ。用兵の基礎なんてはるか昔に学んだきりだし、第一、誰もハインケルの指示など聞かない。
だから、ハインケルのできることなど始めから一個だけだ。
「――――」
そう決断した直後、ハインケルはズィクルの返事も聞かず、都市庁舎のバルコニーへ駆け込み、そこから眼下の都市へと飛び降りる。
高い建物の屋根に足の爪先をかけ、屋上を蹴って走り、また次の建物へ。そのまま、風を浴びながら跳躍を繰り返し、向かう先は都市を囲む城郭の上だ。
飛竜の群れがやってくる西の空、そちらへ聳え立つ城郭へ飛び乗り、息を整える。
すでに都市には敵襲を報せる警鐘が鳴り響き、街のあちこちで人々の混乱と、それを鎮めて避難を促す衛兵の怒号が入り混じっていた。
「……ああ、クソ」
空気の匂いが明らかに変わり、舌の上の唾の味が苦くなる。
戦場の、血と鋼の気配が近付いてくるに従い、ハインケルは耳の奥でキーンと高い音が鳴る幻聴を聞く羽目になった。
ハインケル以外にも、西の城壁へと帝国兵が駆け付けてくる。
ズィクルの推測が正しければ、攻めてくるのは『九神将』の一人。帝国一将の立場にある相手に、彼らはどういう覚悟で立ち向かうのだろうか。
同じ旗の下に集う立場にありながら、それに違和感を覚えないのか。それとも、戦えればそれでいいのか。戦って死ねれば、それで満足なのか。
「クソ、クソ、クソ、どいつもこいつもクソったれめ……っ」
沸々と、胸の奥からどろりとしたどす黒い熱が全身に流れ込んでいく。
心の臓から始まり、内臓と下腹部を巡り、手足の先へ、指先へと伝わっていくその闇色の熱を味わいながら、ハインケルは軋むほど歯を噛みしめた。
その手がゆっくりと、腰に下げている剣――『アストレア』の名を冠するそれへ伸び、ハインケルは柄を強く握りしめた。
そして――、
「――全員くたばれ、クソ共がぁ!!」
耐え難い怒りを吐き出すように吠えながら、ハインケルの剣が一閃され、喰らいつかんと滑空する飛竜の太い首が血を噴いて勢いよく吹き飛んだ。
△▼△▼△▼△
鳴り響く警鐘と、逃げ惑う人々の絶叫、それらが絶妙におどろおどろしく重なり合い、城郭都市グァラルは阿鼻叫喚の支配する戦場と化した。
西の空から大挙して押し寄せる飛竜の軍勢、数百を下らないそれらの威容は、都市の四方を城壁に守られることが安心材料だった住民の心を打ち砕く。
強力な魔石砲の破壊力にさえ耐える城壁、その絶対の壁に弱点があるとすれば、それは大きな壁さえ乗り越えられる脅威の存在に他ならない。
城壁を跨げるような存在か、あるいは城壁を飛び越せる空の支配者。
まさしく、城郭都市はこの日、最大の難敵に襲われたといって過言ではなかった。
「――これは、とてもよくないな」
悲鳴が木霊する大通りを避け、路地から外を覗いてフロップは眉を寄せた。
空の彼方に飛竜の存在を見つけて数分、事態は転がるように悪化し、城郭都市は束の間の平穏を忘れ、再び十日前と同じ戦場へと変えられた。
ただし、今回の変化は十日前のそれよりももっと悪い。
なにせ――、
「旦那くんは、できるだけ被害を出さないようにしようとしていたけど……どうやら、今回の相手にはそういう気配りはなさそうだ」
女装するという大胆な手段を用い、都市の『無血開城』を目指したスバル。
その目標は予期せぬ乱入者によって失敗に終わったが、それでもスバル以外の策が採用されていれば、流れる血の量は比べるべくもなく多かったはずだ。
城郭都市の住民たちや、駐留していた帝国兵たちの感情が極端に悪化しなかったのも、そうしたスバルの気配りが功を奏した結果とフロップは考えていた。
しかし、今回の敵にはそうした紳士的な考えは一切ないらしい。
「ひっ」
凄まじい轟音と地を揺らす衝撃が伝い、フロップの傍らでシュルトが悲鳴を上げる。
無理もない。それほどに、飛竜を擁する敵の攻撃は苛烈で、効果的だった。
「飛竜に岩を運ばせて、それを高い空から落としているだけなのに」
やっていることは単純明快、ただそれだけの原始的な攻撃だ。
だが、人の頭ほどもある岩が当たるだけでも大ケガを免れないのに、先ほどから投下される岩の大きさは一抱えも二抱えもある大岩ばかりなのだ。
その威力は石造りの建物を破壊し、通りの地面にも大穴を開ける。もちろん、人が当たればとても二目と見られぬ惨事になる。
フロップたちも慌てて路地へ逃げ込んだが、ここが安全圏の確証はない。
安全圏があるとすれば、地下へ逃げ込むか、単純な実力者の下へ向かうかだ。
「ミーたちガ、真ん中のでっかい建物にいル」
「ぷ、プリシラ様がお屋敷にいるであります……っ」
「ああ、そうだとも。二人ともとても賢くて僕も同意見だよ。問題は、僕たちのいる場所がちょうどどっちの場所とも真ん中ぐらいってことだね!」
ミゼルダやズィクルといった、頼れる都市の防衛力を有するものたち。
あくまで個人の戦力だが、『九神将』とさえ引けを取らなかったプリシラの力量。
どちらへ急いで向かうべきか、フロップも悩ましいところだ。
そうして悩む合間にも――、
「た、助け……うわあああ!!」
フロップたちの路地の目の前、通りを逃げ惑う人影が悲鳴を上げ、消える。――否、消えたのではない。その男の体を、ものすごい速度で飛行する影がさらい、一気に空へと連れ去っていってしまったのだ。
どうやら、襲来した飛竜にも役割分担があるらしく、先ほどのような大岩を投下する部隊と、直接攻撃を行う部隊とに分かれているらしい。
あるいはもっと、他の役割を担った飛竜もいる可能性がある。
「い、今の人は……っ」
「助けたいが、無理だった! そして、僕たちも迂闊に出られない。飛竜の爪と牙にかかったら、僕たち三人もまとめて空へ連れていかれてしまう」
「ウーの弓があル! これデ、飛竜も落とス!」
腕の中、ウタカタがそう息巻いて弓矢を見せる。もしも、ここにいたのがホーリィやクーナ、大人のシュドラクならフロップもそれを一考した。
しかし、ウタカタの弓の練習に付き合ったこともあるフロップには、彼女の力量がこの戦場に見合ったものでないことがわかっていた。
「――子どもに一番おいしいモノを、だろう。わかっているさ」
ぎゅっと目をつぶり、フロップは自分と妹をどん底から救ってくれた恩人を思う。
ぶっきらぼうで粗雑な態度、それでも恩人は口を酸っぱくしてその主義を曲げなかった。だから、フロップもそれに恥じない『大人』でありたい。
いつまでも、ここで息を潜めているわけにはいかない。都市庁舎と屋敷のどちらへ向かわせるにしても、何らかの対応策は必要だ。
シュルトとウタカタの二人を、無事に逃がすために――。
「――二人とも、聞いてほしい。これから僕が」
小さく息を詰め、フロップが決意と共に二人に方針を伝えようとする。
その言葉に幼い二人がフロップを見た、その瞬間だった。
「おおおおぁぁぁ――!!」
「――ッッ!」
血を吐くような怒号と共に、空から通りに何か巨大なものが落ちてくる。怒号と絶叫を絡み合わせて地面に叩き付けられたのは、全身からどす黒い血を流した飛竜だ。
翼を広げると、三メートルから四メートルほどもある大きな飛竜は、落ちた衝撃で折れた翼をばたつかせ、必死でそこから逃げようとする。
そこへ――、
「逃げるな! てめえ、逃げるなぁ!」
その飛竜と一緒に地面に落ちて、勢いよく転がった人影がその背に飛びつく。そして、悶える飛竜へと剣を突き刺し、背後から心臓を串刺しにした。
飛竜の悲鳴が長く伸びて、竜が血の涙を流しながらその場に倒れ込む。
そうして、飛竜の息の根が止まったのを見届けると――、
「クソ、ったれが……」
大きく肩を上下させながら、死した飛竜の背中を赤毛の男が降りてくる。その姿に、フロップの腕の中のシュルトが「あ!」と声を上げた。
「ハインケル様! ご無事だったでありますか!」
「あぁ?」
シュルトの高い声に呼ばれ、赤毛の男が態度悪く振り返る。途端、その全身を真っ赤に染めた男の姿に、シュルトの喉が掠れて詰まった。
そして、目を見開いたシュルトがフロップの腕を逃れ、男の下へ駆け寄る。そのシュルトを見て、男は袖で血塗れの顔を拭いながら、
「なんだ、お前か、チビ」
「は、ハインケル様、真っ赤であります! ど、どこか大ケガしてるでありますか!?」
「怪我? ああ、この血なら返り血だ。してても、掠り傷ぐらいのもんだよ」
「ほ、本当に? 本当にでありますか……?」
目を白黒させながら、シュルトがペタペタと血塗れの男の体を触って確かめる。自分の手や服が汚れるのも意に介さない態度、それを見下ろす男が嘆息した。
そんな二人のやり取りに、フロップは直前の決意に止めた息を吐いて、
「執事くん、心配いらなそうだよ。どうやら強がりではなく、本当に怪我はしていないみたいだからね」
「お前は……よくわからない男か。お前がこのチビたちを?」
「よくわからないは少し心外だけども、その通りだとも! と言っても、執事くんとウタカタ嬢を連れて逃げ回っていただけだからね。あなたがきてくれてホッとしたよ」
フロップがそう笑みを向けると、血塗れの男――ハインケルが視線を逸らす。
照れたわけではなく、不愉快そうな反応だった。実際、舌打ちもされた。が、彼が飛竜を仕留めたことと、シュルトの安心に一役買ったのは事実だ。
シュルトと同じく、プリシラに仕える従者の一人らしいハインケル。剣を持ち歩いているから戦えるのだとは思っていたが、予想以上の凄腕だったようだ。
彼の体を赤く染める凄まじい量の血は、今しがた仕留めた飛竜からの返り血だけとは到底思えない。複数の飛竜の返り血を浴びた証拠だ。
「今から、プリシラ様のところにいくつもりだったであります! ハインケル様はどうするでありますか?」
「プリシラ嬢のところに? ……お前はその方が安全だろうな。だが」
「今、都市の中で安全と言える場所はあまりに少ない。相手が飛竜ばかりなら、地下のある建物と、香辛料の置いてある場所が得策と僕は考えるよ」
「コウシンリョウ……?」
シュルトとハインケルの会話に割って入るフロップ、その話の疑問点にウタカタが首を傾げる。見れば、ハインケルからも同じ胡乱げな目がフロップに向けられていた。
あまり飛竜の生態に詳しくなければ、なるほどピンとこないかもしれない。
「飛竜はとても嗅覚が優れているからね。かなりの距離からでも血の匂いを嗅ぎつける。反面、刺激の強い匂いは苦手な生き物なんだ。だから、もしかしたら全身にペッパを振りかけておくと、捕まるのは避けられるかもしれない」
「……詳しいな」
「これでも、各地を巡る行商人なのでね! あと、飛竜に関してはたまたま詳しい人が知り合いにいたのさ。帝国で一番詳しかった可能性もあるね!」
とはいえ、その人物からは飛竜のいい面の話を聞くことが多かったので、こうして脅威として飛竜と相対することになるとは考えていなかった。
少なくとも、仕入れた知識が嘘をつかないなら、飛竜から逃れるために香辛料に塗れるという作戦もなしではない。
戦えるハインケルと合流できたのは、フロップと子どもたち二人にとっては僥倖だが、この城郭都市を巡る戦いに僥倖とは言い切れないからだ。
「赤毛さんを、僕たちの護衛に使うのがいいとは言い切れない」
飛竜と単独で渡り合えるハインケルは、無数の飛竜に襲われる都市の貴重な戦力だ。
ここから先、戦いがどう転ぶにしても、勝敗の趨勢を左右する要因の一つに彼はなるだろう。そんな彼を、非戦闘員の三人と並べておくのはよくない。
故に――、
「僕たちは、飛竜の目と鼻を逃れながら地下を目指そうと思う。赤毛さんには近くの料理屋か倉庫まで付き合ってもらえないかい。そこで目くらまし……いや、鼻くらましかな。それをしたら、あとは自力で何とかできる」
「フロップ様……」
別れる、という選択肢が全く頭になかったらしく、フロップからの提案にシュルトがぎょっとした顔をする。しかし、そのシュルトの驚きに代わり、ウタカタが頷いて、
「ウーモ、フーとおんなじ考エ。シューはウーたちが守ル。心配いらなイ」
「ウタカタ様も……でありますか」
こくこくとウタカタが首肯すると、シュルトはその丸い目を伏せる。それから数秒、彼は決意の表情で顔を上げ、ハインケルを見た。
「わかったであります。僕も、フロップ様たちと頑張るであります。だから、ハインケル様も、ケガに気を付けて……」
「――さっきから、勝手にお前らで盛り上がるな。なんで俺がお前らの言いなりにならなきゃいけないんだ」
「ええ!?」
しかし、そのシュルトの決意も空しく、ハインケルが顔をしかめてそう言い放つ。
彼は自分のマントで剣の血糊を拭いながら、顎で周囲を示して、
「言っとくが、俺はこの都市に何の義理もない。それよりも、このチビを守り損ねる方がプリシラ嬢の機嫌を損ねる可能性が高いだろう。俺はそれは御免だ」
「ま、待った待った待った、赤毛さん! 待ってほしい! それじゃあ、君はあのお姫くんの機嫌を守る方が、街を守るより大事だって言うのかい? それは……」
「――そうだ」
「――――」
はっきり、断定的な言葉で返され、フロップは思わず鼻白んだ。そのフロップの顔を見つめて、ハインケルは赤く汚れた顔の中、青い瞳をぎらつかせ、
「俺にはこの街よりも、誰かの命よりも大事なものがある。このチビじゃないぞ。このチビを可愛がってるプリシラ嬢に、譲ってもらわなきゃならないもんがあるんだよ。それを手に入れるためなら、誰が何人死んでも知ったことか」
「赤毛さん……」
「第一、俺もお前たちもそんな大層な人間じゃない。身の程を知れよ。できることは限られてる。その外側に手を伸ばそうとするな。馬鹿を見るだけだ」
「――――」
「誰も、剣になんてなれないんだよ」
吐き捨てるように言って、ハインケルの手がシュルトの肩に伸びた。
シュルトの細く小さな肩が彼の手に掴まれ、幼い少年が潤んだ目をハインケルに向ける。その瞳を満たした怯えが――、
「ハインケル様、辛そうであります」
――否、それは怯えではなく、情けと言うべきものだった。
幼い少年の真摯な眼差しを向けられ、ハインケルが微かに頬を強張らせる。が、それは彼の決め切った心を動かすものではなかった。
「このチビをプリシラ嬢のところに連れていく。お前らはついてくるなら勝手にしろ。ただし、俺が守ってくれると勘違いだけはするなよ」
そう言って、ハインケルがシュルトを掴んだままフロップたちに背を向ける。その足で通りへ踏み出し、プリシラのいる屋敷へ向かおうというのだ。
フロップも、彼の忠告通りについていくべきか迷い――、
「――お前か、竜を殺しているのは」
――刹那、その一声と共に落ちてくる影が、猛烈な轟音と共に地面に降り立った。
「――――」
濛々と土煙が立ち込め、地面に大穴を開けた突然の闖入者。
それはシュルトを連れていこうとしたハインケルの眼前、通りの道を塞ぐように、その短い腕を組んで立っている小さな人影だ。
――一見して、それが何なのか理解するのが遅れる。
なにせ、起こった出来事と、その人影から受ける印象があまりに重ならないためだ。
小さい背丈に愛らしい顔つき、傷一つない白い肌と、それを彩るのはやはり可憐さを引き立てる空色の装い。外見はシュルトやウタカタとそう変わるようには思えず、今しがた地面を砕くような衝撃と共に現れたとはやはり思えない。
しかし、起こった出来事が全てであり、それは何者にも否定できない。
現れた影はその金色の瞳を細め、通りに立つフロップたち四人を睥睨し、頷いた。
そして――、
「竜に血を流させた報い、その血を流し尽くすまで流して贖え。――愚人共」