第七章35 『語らう夜』
「あたしとあんちゃんがいたとこは、そりゃもうひっどいとこだったんだよ」
夜、野営のための焚火を囲みながら、ミディアムがいつもの調子でそう言った。
常に明るく朗らかで、声を潜めるということを知らないミディアム。そんな彼女の口から語られたのは、以前、彼女とフロップがいたと聞く施設の話だ。
フロップからも、二人が劣悪な環境で育ったという話は聞いていた。
兄妹はみなしごを引き取る施設で、毎日殴られながら育ったと。そして、不幸な大人が不幸な子どもを殴る世界に憤慨し、復讐を誓ったとも言っていた。
「あたしはあんちゃんの言うことは、むつかしくて全部はわかんないけどさ。でも、あんちゃんが胸張って大股で歩いてるときは、応援したいんだ」
「それが世界への復讐でも、ですの?」
「そうそう! まぁ、どうやるのかよくわかんないんだけど」
照れ笑いのようにはにかみ、どっかりと胡坐を掻いたミディアムが、その自分の膝に乗せているルイの髪を後ろから梳かしている。
元々、彼女の施設の話になったのは、その年少者と接する手際の良さが理由だ。
こう言ってはなんだが、わりと何でも大雑把に進める印象のあるミディアムが、そうしてルイの面倒を甲斐甲斐しく見ているのが意外だった。
そこで、慣れた手つきについて尋ねたところ、先の話になったわけだ。
「施設には、あたしとあんちゃん以外にも子どもがいたからね。あたしより小さい子だっていたし、あんまり楽しくなかったから、髪の毛くらい伸び伸びしたいよね」
「それで、年下の扱いがお上手なんですのね。ミディアムさんは面倒見がよろしいですから、納得ですわ」
「うへへ、そっかな? だったら、役に立ててよかったよー」
焚火の赤い明かりに照らされ、ミディアムの綺麗な金髪がキラキラと光る。手前のルイも同じ髪色だが、仲睦まじい二人はまるで姉妹のようだ。
フロップならぬフローラも入れれば、美形の三姉妹とも言えるだろう。
「……いけませんわね。フロップさんとミディアムさんに、そんな負債を押し付けるようなことを考えるだなんて」
「――? ナツミちゃん、なんか言った?」
「いいえ、何でもありませんわ。ただ、ミディアムさんがいてくださって、本当に助けられていると実感していただけですの」
オコーネル兄妹とルイとの不適切な関係はさておき、誤魔化すために費やしたような発言はしかし、掛け値なしの本音だ。
武力的にも精神的にも、ミディアムたちの存在に助けられる要素は大きい。
フロップと彼女がいなかったら、スバルたちの帝国行脚はもっと暗澹たるものだった。
「その点、あなたはもっと感謝した方がよろしいのではなくて?」
「――――」
言いながら目を細め、スバルが水を向けたのは焚火に当たっているアベルだ。
夕食を終えたあとの憩いの時間、意外にも馬車の中にさっさと戻らず、アベルは沈黙のままに居座り続けていた。とはいえ、その意識が雑談に向いていたとも思えず、スバルの言葉は単なる皮肉や揶揄の類でしかない。
「ミディアム、貴様と兄の出身は?」
「ほえ?」
しかし、スバルの言葉には応じないまでも、アベルがミディアムにそう問いかける。
その問いの内容は、直前の会話の流れを汲んだものだった。
不意を打たれ、ミディアムがその大きな瞳を目一杯見開いて口をぽかんと開ける。アベルに話しかけられたことも、話を聞いていたことも驚きだったらしい。
「アベルちん、あたしの名前知ってたんだ?」
どうやら、驚きの理由はそれだけではなかったらしい。
ともあれ、アルに負けず劣らず、皇帝陛下のご機嫌を損ねかねない呼び方をしたミディアムに、アベルは小さく吐息し、
「名前ぐらい覚える。くだらぬ感心はよせ。俺の問いに答えろ。貴様とフロップはどこの出身だ。先の施設の代表は?」
「代表って、院長先生のこと? 名前は忘れちゃったなぁ。でも、あたしとあんちゃんがいたのはエイブリークってちっちゃい町だよ」
「エイブリーク……西側の町だな。覚えておく」
「――? 覚えてどうすんの?」
「然るべき対処だ。俺が直接するかは別として、だがな」
アベルの答えは簡潔だが、その真意はミディアムには通じない。
疑問符を浮かべたミディアムは、より大きな疑問の雲に頭を突っ込んだ顔つきになる。そして不親切なアベルは、わざわざその謎を紐解こうとはしない。
スバルも、その考えの全部が汲み取れたわけではないが、
「国民の生の声を聞いて、すぐさま国政に活かそうというわけですの?」
「そこまで殊勝ではない。言ったはずだ。――信賞必罰だと」
働きには報い、愚かしさには報いを。
それが為政者としてのアベルの信条であり、動かし難い在り方であるらしい。
思い返せば、シュドラクの集落での『血命の儀』でも、落命寸前のスバルに彼は必死に望みを言えと訴えかけた。あの必死さの裏には、同じ信条が隠れている。
すなわち――、
「――あなたは、他人が手ぶらでいることが許せない方ですのね」
「多くのものが持たざるものとして生まれ落ちる。その手に何を掴み、何を抱いて死ぬかがそのものの生だ。その資格を得ながら手放すなど、あってはならぬ」
「持たざるものとして生まれるって、皇帝陛下の口から聞くと嫌味ですわよ」
大抵の人間が持たざるものであり、非才と非力を嘆きながらも足掻くしかない。それが人生だとわかってはいても、恵まれたものの立場から言われては立つ瀬がない。
だが、それを皮肉に受け取ったスバルに、アベルは視線も合わせずに、
「――俺とて、例外ではない」
「――? なんですの?」
「立場には相応の責務が伴う。負い切れぬ荷を負えば、愚か者は潰れるだけだ。気格や矜持も、日々の自認が磨くしかない」
聞き返したスバルに応じ、アベルの視線がゆっくりとこちらを向く。
彼は焚火に当たるスバル、その黒髪や着衣を検めるように眺め、
「偽りの、作られた自認はやがて地金を晒すことになる。貴様は装うのがずいぶんと手慣れた様子だが、その分、剥がれた際の取り繕いには労を要そう」
「――――」
「成果さえ出せば、俺は他者の趣味嗜好に口出しはせぬ。その言を違えるつもりはないが、虚像を支柱とするのは見るに堪えぬ。いずれ、土台ごと傾くぞ」
熱を孕んだ風を浴びながら、アベルの眼差しは冷え切った夜のように透徹していた。
彼の選ぶ言葉は他者への配慮がなく、理解を求めるゆとりがない。故に、その言葉の真意はスバルには半分ほども伝わらなかった。
ただ、ひどく無遠慮に心を凌辱されたと、その痛みが残るばかりだ。
「……話しすぎたな。あとは任せる」
そう言い残し、立ち上がったアベルが馬車の中へと消える。
分厚い扉が閉まる音がして、焚火の周りに取り残されたのはスバルとミディアム、そして話題も知らぬ顔で過ごしているルイの三人だけだ。
「……なんですの、あの男」
と、そう口走り、スバルは自分の口を押さえて苦い顔をする。
まるで、悪役令嬢の負け惜しみのようではないか。ナツミ・シュバルツという鉄血の女軍師は、もっとたくましくしなやかであるのだ。
スバルが欲してやまない鋼の心、それを持ち合わせた最強の女性像と。
「ナツミちゃん、平気?」
そんな葛藤を抱えるスバルの頭を、ミディアムの手が優しく撫でる。
胡坐のまま、尻を浮かせて器用に隣に移動してきたミディアム。彼女の掌は長身に見合ったもので、スバルの頭ぐらいなら軽々と掴めそうな大きさだ。
その大きな掌が、優しく柔らかく、スバルの心を包んでくれる。
「ええ、平気ですわ。まったく、あの男は意味深に……ミディアムさんは、何が言いたかったのかわかりましたの?」
「んーん、全然! でも、ナツミちゃんが辛そうな顔したのはわかったし、あたしのできることってこのぐらいだからさ」
「そんなことは……」
「だいじょぶだいじょぶ、わかってるから! あたしはこのでっかい体で頑張る担当で、むつかしいことはあんちゃんとかみんなにお任せだよ」
にかっと気持ちよく笑い、スバルの頭を撫で続けるミディアム、その顔に嘘はない。
自分の足りない部分を自覚しながらも、それを気に病まない彼女の在り方はとても前向きで、スバルの憧れる人たちに通じるものがある。
「ミディアムさんは大人ですわね」
「そんなの初めて言われた! いいお姉ちゃんだねとか、たくさん食べて気持ちがいいねとかは言われたことあるけど」
「それも、ミディアムさんの素敵なところですわね」
「うえへへ~」
言葉を尽くしても、感謝と称賛を伝え切れず、スバルはもどかしい。だが、そんなスバルの中身のない褒め言葉を、ミディアムは嬉しそうに受け入れてくれる。
彼女の膝の上で丸まりながら、ルイもその陽気に中てられたように楽しげだ。
今、この瞬間だけはあらゆる苦難とも不安とも切り離されている。
そう錯覚してしまうぐらい、それは穏やかな時間だった。
△▼△▼△▼△
ちらちらと、揺れる焚火の火を眺めながら、時間は緩やかに流れていく。
「――――」
パチパチと燃える木片の弾ける音が鳴る中、世界はとても静かだ。
以前は、こうした手持無沙汰な時間が嫌いだった。ぼんやりと過ごしていると、得体の知れない焦燥感に苛まれ、追い立てられる気持ちになったものだ。
漫然と、呆けたように過ごして許されると思っているのかと。
正体不明の黒い影が背後に忍び寄り、親しげに肩を組んできながら粘っこく詰る。
目をつむり、耳を塞いでも遠ざけられない悪夢――それから逃れるために、ナツキ・スバルはあらゆることに手を出した。
多趣味や小器用と、そう褒められることもある。
だが、それは全て、責任や罪悪感から逃れるための言い訳だった。
言い訳を積み重ねて出来上がったハリボテ、それがナツキ・スバルであり――、
「――ただの言い訳で終わらずに済んで、少しだけ安堵していますわね」
「そウ、ですカ……」
スバルの話を聞き終えて、俯きながらタリッタが頷く。
揺れる炎の向こう、地べたに片膝を立てるタリッタの顔は赤く照らされている。炎のちらちらとした光は、彼女の褐色の肌によく似合って見えた。
似合っていると言えば、シュドラクであることを隠すための彼女の装いもそうだ。
彼女らが体に入れる白い紋様を消して、文明人らしい格好に身を包んだタリッタは、そのすらりとした長身も相まって、男装の麗人を地でいっていた。
もっとも、夜番として見張りに立つ彼女は上着を脱いで袖をまくり、スマートさよりもワイルドさが印象付けられる着こなしだ。
「――――」
わずかに落ちる沈黙の中、タリッタは思惟に耽っている。
せがまれて話したスバルの身の上――元の世界のことや、もっと暗くて重たい部分はぼかしたものだったが、それがタリッタにどう作用したのか。
切っ掛けは爪の手入れをするスバルを見て、タリッタが「どこで化粧を覚えたのですカ」と聞いたことだった。
化粧、加えて女装もそうだが、あまり大した切っ掛けでもない。
散々な中学校時代を過ごしたスバルが、来たる高校生活で華々しく返り咲くため、ちょっとした余興程度にチャレンジしただけのこと。
「ただ、ちょっと凝り性なところがありましたから……やるなら徹底的に、お出ししても恥ずかしくないものをと」
どんな道でもそうだろうが、技術の研鑽には大勢の先人の努力がある。
それに恥じない姿勢を示そうとした結果、スバルの高校生活は終わった。以来、女装も二度とするものかと心に決めていたが、この様だ。
人生、何が役立つかなんて終わってみるまでわからない。――スバルの場合、終わっても終わらないので、特にそう感じられる。
「なんて、笑えませんわね――」
「……ナツミの姿勢ガ、私は羨ましいでス」
「って、えええ!?」
「ド、どうしてそんなに驚くんでス……!?」
「ああ、いえ、あまり言われたことがない言葉だったもので……」
わりと本気で衝撃的だったので、タリッタを相当驚かせてしまった。
とはいえ、偽物の胸を押さえるスバルの心中の衝撃はなかなか消えない。客観的に見て、スバルは自分の立場が羨望に値するとはあまり思えなかった。
自分の目線ということもあるが、異世界にきて以来――振り返ると、それ以前からでもあるのだが、スバルの人生は失敗と落胆の連続だ。
正直、エミリアとの出会いがなければプラスに転じる機会があったか疑わしい。
その後の出会いや幸福も、全てはあの路地で、チンピラに足蹴にされるスバルを助けようとしてくれたエミリアがくれたものだと思っている。
――その瞬間の記憶は、もうエミリアの中に残っていないのだけれど。
「私ハ、昔から姉上の後ろに隠れて育ちましタ。姉上は知っての通りの人ですかラ、いずれ族長になるものと誰も疑っていなかっタ。私もでス」
「タリッタさん……」
訥々と、タリッタが話し始めるのは自分の身の上だ。
最初、スバルは彼女がこちらの告白の返礼として、言いたくない話をし始めたのだとしたら止めるつもりだった。化粧や女装の技術の出所を聞かれ、身の上話をしたのはスバル側の話の運び方の問題だ。それを強いるつもりはないと。
ただ、俯きがちに話すタリッタの濡れた瞳、声の震えを聞いてそれはやめた。
彼女は話したいから話していると、スバルにはそう感じられたからだ。
「姉上とハ、歳が三つ離れていまス。でモ、私が姉上を大きく感じるのハ、たった三つの歳の差が理由ではありませン。だっテ、そうでしょウ?」
「――――」
「姉上が十のときできたことガ、同じ歳になっても私にはできなイ。それは歳の差ではなク、もっと違う何かの差でス。それが何なのカ、私にはわからなイ」
タリッタの語る言葉が、ことごとくスバルの胸に突き刺さった。
どこかで聞いたことのある話であり、同時に誰にも明かしたことのない話でもあった。
優れた姉への劣等感、それはレムが抱いていたものだ。
憧れた背中への劣等感、それはスバルが苛まれていたものだ。
「姉上ハ、どうして私を族長ニ? 私にそれが務まるなんテ、とても思えませン」
『――やっぱり、あの人の子だな』
自分への失望と、大切な誰かから向けられる期待への罪悪感。
それに打ちのめされかけ、しかし、タリッタはこの旅に同行した。族長であったミゼルダが協力を誓い、帝位奪還という目的を掲げるアベルの旅路へ。
それはタリッタが、自分を見つめ直し、認めるための旅であり、同時に彼女が降りかかる期待という重荷から逃げるための手段なのかもしれない。
「この旅の間ニ、答えを出さなくてはなりませン。いいエ、覚悟を決めなくてハ」
「覚悟……それは、族長を引き継ぐ覚悟、ですの?」
「――――」
スバルの問いかけに、タリッタが細い顎を引いて頷く。
答えを出すでは不適切で、覚悟を決めるというのが適切な運命――ミゼルダから託された次なる族長という役目を、彼女がどう見ているかがそれでわかる。
タリッタは、族長を引き継ぐことは避けられないと考えている。
自分には、それを拒絶する権利がないのだと。それが偉大な姉に指名され、次代の一族を率いなくてはならない妹の義務なのだと――。
「逃げても……」
「エ?」
「逃げても、いいと思いますわよ。わたくし、それを咎めませんわ」
思いがけない言葉をかけられたと、目を見張るタリッタの表情が物語る。
話の流れとはいえ、自分の心中を打ち明けてくれたタリッタ。彼女の置かれた状況、抱いている不安、その細い肩に乗せられた責務、それが見える。
責任感が強く、自罰的な彼女がそれを必死で抱え込んでいることも。
あるいはタリッタは、ここでスバルに「しっかりしろ」と、自分では決めきることのできない覚悟の後押しをしてほしかったのかもしれない。堂々と恥ずかしげもなく女装するスバルの姿に、自信不足なんて無縁だと助言が欲しかったのかもしれない。
だが、スバルが口にしたのは、彼女の期待を裏切る言葉だった。
「負い切れないと、自分よりも向いた誰かがいると思うのであれば、荷物をまとめて馬車を離れても、わたくしたちは咎めません。少なくとも、わたくしは」
「デ、ですガ、私がいなくなれば戦力ガ……」
「もちろん、その不安はありますわね。ですけれど、どうとでもしますわ」
「――――」
勝手なことを言っていると、スバルは表には出さずに内心で自嘲する。
こんな話を聞かれれば、アベルにはそれこそ憤慨されるだろう。タリッタの言う通り、彼女は戦力不足の陣営にとっての貴重な戦力だ。
それは全体で見ても、この旅の一行を見ても言えること。
あろうことか、それを手放しても構わないなどと。
「私ハ、必要ないト……」
「いいえ、それは大きな間違いです。わたくしも、タリッタさんには人柄的にも戦力的にも一緒にいてほしい。でも、それはわたくしのワガママでしょう?」
「ワガママ……」
「わたくしが生きるために、あなたに心を殺せと言うのですから」
経験者であり、同類であるスバルは、それをタリッタに強いれない。
年上で、この悩みにかけてはスバルよりも年季が入っているかもしれないタリッタに、先のその暗闇を抜ける機会をもらったスバルは先輩面して言い放つ。
――自分は、他人にはなれない。
それが血縁者や身近な相手であろうと、どれほど憧れ、妬み、身を焦がすほどに焼き付いた相手であっても、なれない。
「わたくしたちは、『自分』以外の何物にもなれませんわ」
そして、せめて自分が好きになれる、納得がいく、自信が持てる『自分』になる。
失望と落胆と、ほんの少しの達成感を繰り返して、羽化する蝶のように。
「……鼻につきますわね」
ぼそりと、タリッタに聞こえないぐらい小さな声で呟く。
話していて味わったのは、数時間前に同じ焚火を囲みながら聞いたアベルの持論だ。多くの持たざるものが、空の両手に何を掴んで生きるのかと。
その話の本質が、スバルの言いたかったことと重なっているように思えて。
「――――」
スバルの話を聞いて、タリッタの瞳が泳ぎ、迷いが一層強くなる。
その迷いがどちらへ向くのか、それはタリッタが決めなくてはならないことだが、彼女が何を選んでも尊重すべきだとは思う。
スバルは、かけられる期待と、応えられない罪悪感から逃げてしまった。
何なら、自分が異世界へ召喚されたのはそんな逃げたい気持ちを汲んだ、何者かのお節介なのではないかとさえ疑ったこともある。
もちろん、それが理由で両親に、本当の両親に別れさえ告げられていないが――、
「逃げられたことは、救いでもあったんですのよ」
少なくとも、期待と罪悪感の板挟みになり続ける自室に閉じこもったままなら、今のナツキ・スバルの心情には追い付けなかったはず。
自分のことで手一杯で、誰かのために何かをしようとか、してあげたいとか、そういったことに心を砕く余裕のないスバルのままだっただろう。
戦える準備が整うまで、逃げることは悪いことではない。
あるいは戦わないことだって、選べる世界であるべきなのだ。
「自信や覚悟……」
「え?」
「自信や覚悟モ、足りませン。ですガ、それだけではなク……」
スバルの実体験からの話を聞いて、タリッタが唇を震わせながら呟く。
燃える焚火の爆ぜる音に呑まれてしまいそうなぐらいか細いそれは、あるいは非力な自分の身の上話を語ったとき以上に切実な感情を孕んでいた。
「もしモ、自分が大きな過ちを犯していたとしたラ……どうすれバ、それを償うことができるでしょうカ」
「過ちと償い……タリッタさんが、ですの?」
「――――」
問い返され、タリッタは「ア」と小さく息を漏らした。
見開かれた彼女の瞳に過った後悔、それは先ほど語った過ちと同様に、ここでスバルにそれを話してしまったことの後悔が窺えた。
どうやら、タリッタが抱えているらしい大きな過ちへの罪悪感。
自分と姉とを比べた無力感だけでなく、その存在も、彼女が自ら決断し切れない要因となっているようだった。
「おかしなことヲ……忘れテ、くださイ」
最終的に続いたのは、語り切れぬ物語を語り切らぬという結論だ。
決して、答えに行き着いていないとわかるタリッタの声と表情、しかし、それ以上を無理やり聞き出すことはできないと、そうスバルは受け止めた。
いずれ、彼女が吐き出したいと思うとき、傍にいられればいいが――、
「――兄弟、そろそろ交代の時間だぜ」
と、そうスバルが結論したところで馬車の方から声がかかった。
太い首をひねりながら、ゆっくりと焚火に歩み寄ってくるのはアルだ。夜番は三時間置きに交代する決まりで、スバルの交代時間がきたらしい。
「アベルとルイがローテーションから外れてるのは不満ですが……」
「やめとけやめとけ。アベルちゃんが皇帝の座に帰り着いたとき、夜番させてたのが理由で処刑なんてことになったらやべぇだろ?」
「恨みつらみの話を言い出したら、わたくしの首が何個並べばいいのか、もう判断がつかない状態だと思いますけれど」
「自覚あんなら抑えてくれよ。一緒にいてハラハラするから」
スバルのぼやきを聞きつけ、アルがもっともな訴えを口にする。
とはいえ、アベルの態度に物申したい姿勢は今後も崩せない。誰かが言ってこなかったから、アベルはああも傲岸不遜な暴君ぶりなのだ。
実権を伴わない逃亡者の間に、少しでも性格を矯正しておく必要がある。
「そうでなくては、わたくしたちの貢献で返り咲いても、またすぐに別の反乱を起こされて今度こそ首を落とされますわよ」
「あー、それに関しちゃ任すわ。姫さんでおわかりの通り、オレは基本的に事なかれってか、放任主義ってやつだから」
ひらひらと手を振り、アルはスバルの考えを変えさせるのを投げ出した。
そんな頼りないアルの様子に嘆息し、スバルは改めてタリッタと向き直る。焚火を眺めながら物思いに耽る彼女に、「タリッタさん」と呼びかけ、
「わたくしは下がりますわ。アルのセクハラやくだらない冗談が聞くに堪えなかった場合、すぐに知らせてくださいましね」
「せくはら……?」
「姫さんにしてるみてぇな真似はしねぇっての! ちゃんと距離感とか親密度に合わせてんだよ。TPOってやつだ」
「わたくしが苦手なやつですわね」
か細い声で応じるタリッタと、声高に潔白を表明するアル。
その二人を見比べ、立ち上がったスバルは裾や尻の汚れを払いながら、そっとアルへと小声で話しかけた。
「もしかしたらタリッタさんから人生相談があるかもしれませんわ。そのときは、経験豊富な先達として導いてあげてくださいな」
「経験豊富な先達って、オレと対極的な描写な気がしねぇ? 他人の人生の責任なんて取れねぇから、そういうことから積極的に逃げてきたのに」
「苦手を克服するチャンスですわよ。ピーマルと同じですわ」
ピーマルを苦手とするエミリアやベアトリスも、何とか好き嫌いをなくそうと果敢な挑戦心を失わず、色んな形で打ち勝とうと頑張っているのだ。
今のところ二人揃って一度も勝利はできていないが、戦い続ける限り、いつかは打ち勝てる日もくるだろうとスバルは信じている。
「だから、アルも頑張ってくださいまし」
「今のがあんまり胸に響かねぇのってオレだけかなぁ……」
少なくとも、今の話はスバルを奮い立たせる条件を満たしていたので、それが響かないアルの方に問題があるというのがスバルの結論だった。
「ナツミ、また明日……でス」
「――。ええ、また明日」
焚火の前をアルに譲り、馬車に下がろうとするスバルにタリッタが声をかける。
その弱々しくも確かな明日の約束は、彼女がスバルの言葉を受け止めながらも、明日は顔を合わせてくれるという希望をスバルに抱かせた。
逃げることは悪いことではない。逃げた結果、得られる力もある。
だが、逃げずに戦うことを決めて、それで打ち勝てる人だってきっといる。
スバルは、タリッタがそうであればよいなと、そう思った。
「――――」
馬車に戻ると、暗い車内の静謐な空気がスバルを迎える。
車内は簡単な幕で仕切られ、前後で男女の寝床を分けている形だ。手前が男、奥が女性陣といった分け方だが、就寝中の一同は驚くほど静かである。
今、休んでいるのはアベルとミディアム、それとルイの三人だが、アベルはまだしも、ミディアムとルイの寝息が静かなのは意外性があるだろう。
寝姿の話を振るのはマナー違反とわかっていながら尋ねた際、ミディアムは「いびきがうるさいと、周りに居場所がバレちゃうからねー」と朗らかに答えた。
あれは行商人としての旅の最中だったり、あるいは劣悪な環境だったとされる施設の日々でのことだったと、スバルが気付いたのは話を聞いてしばらくあとだ。
必要に迫られ、身につけた技能。
そういう意味では、アベルが静かに寝入っているのも、それが理由――、
「……寝ていても憎たらしい顔ですわね。落書きでもしてやりましょうかしら」
「――なんだ、じろじろと不躾であろうが」
「――っ」
車内を進む途中、割り振られたスペースの中ほどで眠るアベル。その寝顔を覗き込んだスバルを、突然の一声が驚かせる。思わず悲鳴を上げかけ、何とか堪えたスバルは「起きていましたの?」と声を上擦らせた。
「……せっかく、わたくしたちが夜番をしているんですから、せめてその恩恵をしっかりと享受していただきたいものですわね」
「片目を開けて眠るのがヴォラキア皇族の習わしだ。俺もその例に漏れぬ」
「片目を開けてって、映画じゃないんですからそんな……え、本気ですの?」
「何故、貴様相手にくだらぬ冗談を言ってやる必要がある」
平然と、宣言通りに片目を開けているアベルに言い返され、スバルは息を詰める。
その黒瞳に宿る光が、先の言葉が嘘ではないと証明していた。
古い映画で、殺し屋が片目を開けて眠る習慣があると語ったものがあった。
どうやら人間の脳の構造的にそれは難しいと聞いたが、目の前のアベルが事実としてやっているところを見ると、不可能ではないのだとわからされる。
だが、それと納得とは別次元の話だ。
「どうして、ちゃんと眠れませんの? わたくしたちが、あなたの寝首を掻くとでも?」
「極小でも可能性はある。注意不足で命は落とせん」
「注意不足……!」
淡々とした返答を聞いて、スバルは声を震わせ、窓の外を指差した。
馬車の窓から見えるのは、少し離れた焚火の明かりだ。アルとタリッタの二人が夜番として立ち、危険が近付かないか警戒している。
もちろん、自分たちの身の安全を守るためでもあるが――、
「――いったい、誰のためにああしてると思ってやがる」
「――――」
「これだけの状況になってもまだ、俺たちの前で両目もつむれないのか」
ナツミ・シュバルツの皮が剥がれ、歪めた表情からナツキ・スバルが現れる。
それを目の当たりにしながら、アベルの透徹した表情は揺るがない。変わらず、アベルはこれまでの習慣通りに、右目と左目で交互に瞬きする。
その数さえも最小限で、それは両目をつむって眠れないのと同じ理由だ。
共に命懸けで『血命の儀』に挑んだときも、踊り子に扮してグァラルに潜入したときも、こうして馬車に乗り込んで目的地へ向かう道筋も、同じだ。
失敗の許されない状況で、気を張り続けなければならない立場には同情する。
だからせめて、敵地になりかねない場所に乗り込む前ぐらい、気を緩めるための努力をしてみせたらどうなのだ。
そう、眉を立てるスバルの言葉に、アベルは目をつむった。――片目だ。
片目をつむり、腕を組み、座席に背を預け、鼻を鳴らす。
「俺の在り方を歪めようなどと思い上がるな。貴様の領分を弁えよ」
「――――」
「魔都は近い。貴様は貴様の役目を果たせ。それ以上は望まぬし、許さん」
取り付く島もない断絶、それが突き付けられ、スバルは舌打ちした。
多少なり歩み寄れるかもしれないと、そう思うこともあったが、やはりダメだ。
「そうかよ……ああ、そうかよ! 俺は高いびきかかせてもらうぜ」
腹立たしさに声を荒げるが、それに対するアベルの返答はない。
スバルは苦々しさに顔を顰めながら、できるだけアベルから遠い座席に寝床を定め、着衣を緩め、ウィッグが痛まぬように注意して横になる。
いっそ、アベルへの反発心でスバルも起きていてやろうかと思ったが、それをする意味も、寝るのと起きているのとどちらが正解なのかもよくわからず、意識は白んだ。
様々な問題と不安、関係値を孕んだまま馬車の旅は続く。
――魔都カオスフレームへの到着は、もう目前だった。