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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第六章 『記憶の回廊』
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第六章40 『星空に見捨てられて』



 何もかも、散々だった。

 文字通り、散る散ると書いて、散々だ。


 見つかり、連れ戻され、何があったか問い質され。

 ぽつりぽつりと、呟くたびに状況が悪化していくのが自分でもわかった。


「それじゃ、スバルは本当に、何にも覚えてないの?」


 膝を抱える自分を見下ろし、銀髪の少女が憂いを帯びた眼差しを向けてくる。

 その隣にいる幼い可憐な少女も、こちらの言葉を受け止めきれず、愕然としていた。


「姿が見えなくなったと聞いて困り果てていたが……まさか、こんな事態になっているとは思わなかった。これは非常に、難しい問題に直面したようだね」


 白い、狐の襟巻きを巻いた少女がどことなく硬い声で呟く。

 その内容に相槌を打つ余裕もなくしているのは、優麗な面持ちの騎士だった。


「いったい、どれだけ無様な姿を晒せば気が済むの、バルス」


 言って、まき散らした汚物の片付けを終えた少女に睨みつけられる。しかし、そこに言葉ほどの悪感情はなく、あるのはもっと、縋り付くような心細い色だ。


「お師様、お師様。なんか、雰囲気がずんと暗くなったッスね~。もっと笑顔でないとダメじゃないッスか。それに……あれ、なんだろ。小便臭いッスね!」


 こちらの状況も弁えず、けらけらと上機嫌に笑っている黒髪の女。

 その黒髪の女の傍らで、自分の三つ編みを撫で付ける幼い少女は、関心の薄い様子でこちらに流し目を送ってくるだけだった。


「――――」


 どの反応も、大きく分ければ、すでに見過ごした反応だ。

 一度目、二度目――これが、三度目。自分は三度、彼女たちを落胆させた。

 もっとも、汚物を垂れ流して逃げ惑い、一人で泣きじゃくっているところを発見された今回が、一番ひどい状況なのは火を見るより明らかだろう。


 ――その、ひどい状況である事実を知るものも、この場には自分しかいないのだが。


「へ」


 笑えてくる。

 自分が、同じ状況を――否、同じ時間を、三度繰り返している事実が。


 一度見た光景を二度見た。そして、三度目が訪れるに至り、スバルはようやく、自分が置かれた状況を正しく把握していた。


 ――自分は、二度死んだのだ。


 それも、どちらも、おそらくは同じ場所からの転落死――一度目は途中で意識を失い、死の瞬間を味わうことがなかったから、自覚が抜け落ちた。

 だが、二度目はそうはならなかった。落ち方が下手くそで、死に方の才能がなかった自分は転落時にあちこちをぶつけ、全身を破壊されて、やっと死んだ。


 やっと死んだのに、舞い戻った。

 死んだ瞬間、あの緑色の部屋に舞い戻り、再びの覚醒を経て、今日をやり直す。


 死んで、舞い戻る。――『死に戻り』だ。

 それが、この異世界で、ナツキ・スバルに与えられた、神様からの祝福。


「へ」


 二度目の、笑みが漏れた。

 それを笑みと呼ぶべきか、客観的に見て大いに議論の余地があるだろうが、少なくともスバルにとってそれは笑みだった。


 笑う以外にできることがない。涙は、正直、涸れ果てた気がする。

 泣くのも体力を浪費する。死んで舞い戻って、死ぬ前に使った体力もチャラになっているようだったが、文字通り、今回は目覚めに体力を垂れ流しすぎた。


「とにかく、落ち着くまでスバルには休んでてもらいましょう。時間が経てば、何かしら変化があるかもしれないもの」


 銀髪の少女の提案で、自分の待遇がそう決まったことをなし崩しに知る。

 また暴れ出してはたまらないと思われているのか、スバルの身柄は大げさにも、全員の監視の下、あの緑色の部屋へと戻された。


「今のバルスを、レムと一緒に置かせておくのはゾッとしないわ。ラムは反対よ」


「……しかし、スバルの体調の回復に一番可能性があるのは、こうなった原因を突き止めることを除けば、あの部屋の精霊に頼ることが望ましいはず」


「だったら……だったら、レムをあの部屋から出すまでよ。あの子の世話は、ラムがつきっきりで見る。もう、あの子を心配しているのは、ラムしかいないんだから」


 言い合いと、意見のぶつけ合いはいないところでやってほしい。

 どうあれ、自分には選択肢のないことだ。率先して、この状況を果敢に乗り越えようとする気力など、今のスバルには持ちようがなかった。


「……レムが、可哀想だわ」


 瓜二つの、眠り続ける少女を背負い、部屋を出る前に彼女はスバルにそう言った。

 その言葉の真意がわからない。わかりたいとも、思えない。


「スバル、ここで大人しくしているのよ。きっと、ベティーが記憶の戻る方法を探してきてあげるかしら」


「――――」


「一人きりで、蹲ってなんかさせないのよ」


 部屋を出る前に、幼い少女が優しくそう語りかけてくれる。

 声には悲痛な色と、しかし気高い決意があった。そうすることが正しいのだと、信じて疑っていない、強い声音だった。

 そんな風に、気遣ってくれる声をかけてくれる相手に――、


「……ぁ」


 伸ばした指を、スバルは肩を縮めることで避けようとした。

 その身じろぎを見て、特徴的な紋様のある少女の瞳が痛ましく揺れる。


「――――」


 他人だった。

 彼女たちはどこまでいっても、他人なのだ。


 しかし、それはスバルにとって、彼女たちが他人なのではない。

 彼女たちにとって、ここにいるスバルが他人なのだ。


 彼女たちが向けてくれる親しみも、気遣いも、あるいは親愛に近いそれも、本来の『ナツキ・スバル』へ向けられたもので、この残骸に向けられたものではない。

 そして、それと同じように――、


「殺される謂れだって、俺にはねぇよ……」


 一人、緑部屋に取り残されて、スバルは奥歯を軋らせ、そう呟く。

 身に覚えのない親愛と信頼、積み重ねたはずの時間と絆を吹っ飛ばして、居心地の悪い好感情を向けられることはまだマシだ。

 だが、『ナツキ・スバル』が積み上げた、殺意の尻拭いを何故しなければならない。


 良いことも、悪いことも、一緒くたにして全てが自分のものではないのだ。

 それなのに、どうしてこんな場所で、溺れかけながら足掻かねばならないのだ。





「俺は、御免だ……」


 一人になって数時間、スバルは壁に背中を押し付け、じりじりと立ち上がる。

 噛みしめすぎて、口内に溜まった血と唾液の交じり合ったそれを吐き捨てた。そして、緑部屋の外へ向かって、ゆっくりと足を進める。


「――ッ」


 そうするスバルの背中に、唯一の同席者であった黒いトカゲの鳴き声がかかる。

 それは、どこかか細く、寂寥感を滲ませたものに聞こえたが、すぐに首を横に振る。

 ただの大きな爬虫類が寂寥感などと、馬鹿馬鹿しいにも限度があった。


「餌は誰かが運んでくれるだろ。大人しくしててくれ」


 言い置くスバルに、なおもトカゲの声は細く追いかけてくる。

 それに聞く耳を持たず、スバルは後ろ髪を引かれる思いを振り切り、緑部屋の外へと足を踏み出した。そのまま道の左右、誰もいないのを確かめて忍び歩き。


「水と、食料の場所は……」


 わかっている。

 水汲みに同行したから、水の場所はわかっている。食料の置いてある場所もわかる。あとの問題は、どのぐらい持ち出すべきか、だ。


「――――」


 正直なところ、スバルにはわからない。

 いったい、誰がスバルを突き落とし、その命を奪ったのかが。


 だが、スバルははっきりと覚えている。

 あの場所で、誰かがスバルの背中を押したことを。それは、後ろから肩を叩いた結果であるだとか、強い風が吹いただとか、そんな馬鹿げた理由ではない。

 確かに突き落とされた。明確な殺意の下、ナツキ・スバルは殺されたのだ。


 容疑者はエミリア、ベアトリス、ラム、アナスタシア、ユリウス、メィリィ、シャウラの七人――その中の、何人が敵なのか、味方なのか、スバルにはわからない。

 そもそも、彼女たちは本当に一人残らず、スバルの知り合いだったのかすら、今のスバルには判断のしようがないのだ。


 ――本当は全員が、スバルを殺すために塔に集まった刺客なのではないか?


「それなら……」


 食料を持てるだけ持ち出しても、心が咎めることはない。

 しかし、その判断は同時に、一度目と二度目、変わらず声をかけてくれたエミリアを、記憶を戻す手立てを探すと言ってくれたベアトリスを、記憶をなくしたことを信じ切れずに叫んだラムを、それらが演技であったのだと疑うことになる。


「――――」


 無理だった。

 あれだけ恐ろしい目に遭って、一度ならず二度も殺されたにも拘らず、スバルは心底から彼女たちを疑い、自分の身の安全のためだけに走り出すことができない。


「クソ、クソ、半端野郎……!」


 どっちつかずの自分の醜態を罵り、スバルはこっそりと食料を袋に詰める。

 いわゆる非常食揃いで、味への配慮はされていない。無論、今重要なのは腹持ちの方であって味など二の次、三の次だ。

 それを、おおよその見立てで三日分、一人で食べる分だけ持ち出すことにした。

 水も、同じように革の水筒に入れて持ち出す。あとは――、


「外は、砂漠だって話だったが……」


 食料と、同じ場所に片付けられていた外套を羽織った。サイズとデザイン的に、スバルのものはすぐに見つかった。外套は前を閉じると、首元を引き上げて口を覆えるデザインになっていて、まさに砂漠の防砂対策といった在り様だ。

 そうして、水と食料、砂漠用の道具を揃えれば、これで準備は万端だった。


「俺が、二回死んだ時間は越えたかな……」


 逃げ出して、たどたどしく事情を話して、緑部屋で蹲っていた時間を考えれば、おそらく前回突き落とされた時間よりも後ろに自分は立っているはずだ。

 『死に戻り』の効果がさっそく発揮された。こうやって、自分の身に降りかかる死亡フラグを次々と乗り越え、命懸けの綱渡りを続けていけと。


「――――」


 そんなのは、嫌だ。

 そんな目に遭わされるぐらいなら、こんな場所にいない方がマシだ。


 小走りに部屋を飛び出し、スバルは頭に描いた地図の通りに螺旋階段へ向かう。二度、自分が突き落とされた場所だ。当然、そこに近付くことに心は悲鳴を上げていた。

 しかし――、


「――ッ」


 螺旋階段に辿り着き、眼下の光景に一瞬だけ目を奪われた直後、スバルは振り返り、背後からの刺客がいないかを入念に確かめた。

 幸い、時間が違うからか、スバルの所在を刺客が掴めていないからなのか、スバルの背を押すために伸ばされる腕は見当たらなかった。


 今頃、彼女たちはあの、死者の記憶が眠る書庫か、あるいは傍若無人な試験官の待つ上階へ向かったか――内臓を抉られた記憶が蘇り、嘔吐感が込み上げた。


「あんな、あんな奴に、挑めるもんかよ……」


 人間ではなかった。それは、技も人格も、どちらにも当てはまる評価だ。

 あんな相手に挑んだところで、勝ち目があるなどと到底思えない。――ならば、勝てないとわかっている戦いに、彼女たちが向かったことを見過ごす自分はどうだ。


「知るかよ!!」


 さっきから、自分の中に浮かんでは消える謎かけが足を止めようともがいている。

 それがどうした。それが、どうしただ。


 優しくされたかもしれないが、偽りかもしれないのだ。

 心配してくれたかもしれないが、その裏では殺意の刃を研いでいるかもしれないのだ。

 ならばせめて、危険人物が潜んでいる可能性を伝えてはどうか。


「その、伝えた相手が敵だったらどうすんだよ」


 敵、敵とはお笑い草だ。

 日常生活で、争いと無縁の世界で、『敵』なんて単語を発する機会は、それこそゲームの中でぐらいしかない。それを、当然のように口にする、させられる世界。

 間違っている。こんな場所にはいたくない。こんな場所にはいられない。


「――ッ」


 胸の奥から湧き上がる、耐え難い苛立ちを噛みしめて、スバルは走った。

 螺旋階段を走って下り、遠すぎて見えない階下へと、五層へと向かって走っていく。段差は多く、壁に沿って延々と駆け下っていく階段の果ては見えない。

 息を切らしながら、必死になって上へと向かったあと、今度は階下へ向かって懸命に逃げている自分の滑稽さが馬鹿らしく思えた。


 それでも、死にたくない。


「つい、た……っ」


 階下へ、五層へと到達する。

 丸い円状の塔の中、四層と違って部屋などに区切られることのない五層は、四層と同じだけの広さをそのままワンホールとして利用している。

 五層に大きくあるのは、さらに階下である六層へと向かう階段と――、


「でかい、扉……」


 見上げるほどに強大な扉が、恐ろしい圧迫感と共にそこに聳え立っている。


「――――」


 扉を前にして、異様さに気圧される感覚がスバルの喉を詰まらせた。

 微かに、砂っぽい風が吹くのを感じる。おそらく、扉の隙間から差し込む外の風が、砂を塔内へとささやかに送り込んでいるのだ。

 それはつまるところ、扉が外と通じていることの確かな証拠であり、


「エミリアたちの、説明が正しければ……」


 その扉から、外の砂漠へと出られるはずだ。

 砂漠――正式な名前は忘れたが、とにかく、砂の道を抜けて、人里へ出る。そうすれば少なくとも、冷酷な刺客に命を脅かされる心配はない。


 砂漠の移動の基本は、夜に動くこと。砂嵐を避けること。方向を定め、その一点に向かって進むこと。――そのぐらいの知識しかないが。


「確実に殺される場所にいるより、能動的に助かる賭けをしてやる」


 正常な判断ではないと言われればそうなのかもしれない。

 だが、これが異常な判断であろうと、助かろうとして下した判断を誤りとは思わない。この状況下で、『自分』さえ信じられなくなれば、待ち受けるのは暗闇だけだ。


 暗闇で、座して死を待つような真似は絶対にしない。

 死ぬぐらいならば、反撃をしてやる。


「――――」


 正面、巨大な扉に手を当て、ゆっくりと前に力を込める。

 扉の大きさはスバルの十倍ではきかない。本来なら、スバルが全力で体ごと押したとしても、びくともしないような重量のはずだ。


 それが、スバルの掌で押されると、まるで機械仕掛けのように容易く押し開かれる。


「へ」


 気抜けするような息が漏れて、スバルはそのまま大きく開こうとする扉を止める。

 今はまだ、スバルが抜け出そうとしていることに気付いていなかったとしても、扉が完全開放なんてことになれば、さすがに彼女たちに気付かれかねない。


 スバルが抜け出したことがバレるとしても、せめて、彼女たちが追いついてこれないぐらいに距離を稼いで、それからにしてもらいたいのだ。


「――――」


 扉の開放を止めて、そっとスバルは隙間から外を覗き込んだ。

 途端、視界に飛び込んでくるのは、うっすらと夜の気配に呑まれつつある、広大な砂の海だった。


「……本当に、砂漠、なんだな」


 目を細め、地平線の彼方に目をやるが、果ては見えない。

 遮蔽物も何もない環境で、地平線の果てが見えない状態なのだ。そこまでいくのに、どれだけの距離があるのか、スバルには知る由もない。

 だが、どれだけ距離があったとしても、永遠に詰まらない距離ではないはずだ。


 一歩進めば、外の世界に一歩近付く。

 外の世界に近付けば――元の世界に一歩、近付くのではないか。


「――――」


 一瞬、スバルの足が塔の中に残りかけた。

 この場所に残していくことになる、おそらく、きっと、スバルに対して悪意のない人たちを、そのままにしていくことへの後ろめたさがそうさせた。

 それを、スバルは振り切る。外への、元の世界への未練が、そうさせた。


 ここには、いたくない。

 ナツキ・スバルの帰る場所は、父と母の待つ、あの家なのだから。


「だから……」


 扉の隙間を抜け、強く、前へ踏み出した。

 砂を踏みつけると、思った以上に靴底が砂に取られる感覚がある。それを力ずくで踏み躙って、ナツキ・スバルは外の世界へと、力強く歩み出した。

 そして――、


「――え」


 踏みつけた靴裏が大きく炸裂して、スバルの体は宙に高々と投げ出されていた。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 背中から地面に叩きつけられ、スバルは前後不覚に陥っていた。

 完全なパニック状態――もはや、今のスバルにとっては正常でいる状態とパニック状態、どちらの方が常態化しているか定かではないが。


「何が……」


 起きたのか、と口の中の砂を吐き出しながら、続ける猶予はスバルにはない。

 何故なら、何が起きたのかはすぐ目の前に、堂々たる姿で答えとして提示されていたからだ。


「――――」


 眼前、夜に染まる世界を背景に、スバルを見下ろすのは巨大な影だ。

 手足がなく、ぬめる体皮を持って、凶暴かつ残酷な牙を口に並べた巨躯――それは、スバルにはミミズに見えた。

 恐ろしく巨大なミミズだ。体長、十メートルを下らない、ミミズの化け物。


「こっ……」


 こんな、化け物がいる世界観なのか。

 いちいち、現実離れした光景が、スバルの精神を横殴りにして平静に戻させない。

 そして、直近に迫る危機的自体が、蹲って嘆くことを許してくれない。


「この、クソったれ……ッ」


 砂塗れの体で立ち上がり、スバルは思い切りに頭を振る。

 おそらく、直前にスバルを吹き飛ばしたのは、地面の中にいたミミズの一撃だ。あるいはただ単に、息継ぎに飛び出してきたところの真上にいただけかもしれない。

 とにかく、このミミズはスバルを砂の上に転がし、その上で――、


「見逃すつもりは、ない……!」


 形勢が圧倒的不利なことを悟り、スバルは視線を巡らせる。

 まだ、塔から出発してたったの四歩だった。不甲斐ないにも程があるが、建物の中に飛び込んで命を拾う選択肢は十分にある。


 だが、視線を巡らせ、スバルは自分の運のなさを呪った。

 ミミズの一発で吹き飛ばされ、砂の上を転がったスバルは塔から遠ざけられていた。巨大なミミズは、スバルと塔の間に立ちはだかっていて、塔に戻ろうとすれば、ミミズの巨躯を掻い潜らなければお話にならない。


「だからって……」


 何の当てもない砂の海へ走り出しても、いずれはミミズに追いつかれる。

 第一、このミミズが一体だけとは限らない。これだけの大きさならば、このミミズがこの砂漠の主である可能性は十分にあるが、この半分のサイズでも十分脅威だ。

 まして、群れに襲われるようなことがあれば――、


「逃げる選択は、現実的でも何でもなかったってのかよ」


 それを、懇切丁寧に手早く教えてくれる世界の親切さが憎らしい。

 そして、状況の整理にまごつくスバルへの、ミミズの方の態度も決まった様子だ。


 ゆっくりと、目のないミミズの頭部がこちらへ向けられ、大口が開かれる。

 そのミミズの頭部に、ねじくれた角があるのが、何とも異物感だった。


「一発、一発だ。一発、一発、一発……」


 首元に防砂布を引き上げ、スバルはミミズの挙動に目を走らせる。

 腕を軽く正面に突き出し、タイミングを計る。ふと、自分の右手の剥がれた爪、その傷が塞がり、わずかながら爪の再生が始まっているのが見えた。

 治癒魔法、あるいは緑部屋の効能か。そんな、ささやかな意識の間隙に――、


「――ッッッ!!」


 巨躯からは想像のつかない、恐ろしく耳障りな奇声を上げて、ミミズがスバルへと倒れ込むように飛び込んでくる。

 轟、と風の唸る音が聞こえ、スバルは一瞬、自分の体が意識の置き去りにされるような奇妙な感覚を味わった。


「――――」


 飛び込んでくるミミズ、その右脇に転がり込み、初撃を躱す。

 それ以外のことは考えない。そして、それをうまくやった自分の幻覚が見える。その幻覚の行動をなぞるように、意識に遅れている体が動けばいい。

 その通りに、動かした。


「――しぃっ!!」


 粉塵を巻き上げ、すぐ真横で衝撃波が発生する。

 その余波を喰らいながら、スバルは砂の上を転がり、自分の意識の幻覚をなぞった。


「……はぁっ!」


 体が、自分の記憶よりもはるかに機敏に動いた。

 刹那、脳裏に過ったのは、スバルにとって記憶にない『ナツキ・スバル』の一年間。この過酷な環境で生き延びた『ナツキ・スバル』、その経験の残滓がある。

 それに生かされたことを、今は何も考えない。


「このまま――ッ!!」


 転がる勢いを前身の勢いへ転化して、スバルは正面へと、塔の入口へと全力で走る。

 この瞬間だけは、すぐ目の前にある生に縋り付くことが全てだ。


 塔の中へ戻れば、薄れえない疑心暗鬼の環境と、死への恐怖に苛まれることはわかっている。それでも、巨大なミミズの糞になる最後を選ぶことはできない。


「――――」


 振り返る余裕はないが、頭から砂海へ突っ込んだミミズが、即座にこちらへ切り替えして襲ってこれるほどの器用さはないはずだ。

 あと、ほんの十数メートルばかりの距離、何とか駆け抜けてみせ――、


「る」


 瞬間、ミミズの頭ではなく、ミミズの尾が砂の地面を割るように出現し、スバルの足下を刈るような勢いで砂が炸裂、またしても体は宙へと投げ出されていた。


「お、ぁ」


 宙を舞いながら、何にも届かない手足を掻いて、スバルは下を見る。

 見れば、空中をくるくると舞い飛ぶスバルの眼下、大口を開け、その体を貪ろうとするミミズの汚い口腔があった。


 ――甘く見た。


 この過酷な環境を、これだけの巨躯になるまで生き抜いた野性を、温室も同然の世界で過ごしてきた自分が出し抜けるなどと、甘かった。

 浅慮で浅薄、その代償を、また命で支払うことになる。


「いや、だ」


 落下しながら、羽根をもがれた虫のように足掻きながら、声がこぼれる。

 死ぬ、また死ぬのか。死んだとして、死に切れるかどうかもわからない。そもそも、死んで、ここで終わって、どうなる。耐えられるのか。


 この気持ちのまま、永遠に終わらない暗闇に放り込まれたとしても。

 耐えられるのか。


「嫌だあああああああ!!」


 叫び、助けを求めて夜空に手を伸ばす。

 触れられるものはない。ただ、薄雲のかかったようにぼやけた空の果てに、あるはずの星すらも見えず、スバルは一人、落ちていく。

 同じ名前を持った星にも見捨てられて、化け物の腹に呑まれ、消えてなくなる。

 そんな、絶望を――、


 ――白い、光が迸った。


「――――」


 白い光が迸り、それが、大口を開けたミミズの顔面を吹き飛ばした。

 文字通り、衝撃はミミズの横っ面に突き刺さり、その巨大な頭部を飴細工のように歪ませて、刹那、爆ぜる。

 汚い色の肉と血をまき散らして、ミミズの頭が爆ぜ、吹き飛んだ。


 スバルを呑み込むはずの頭部がなくなり、ミミズの巨躯がぐらりと揺らぐ。しかし、その体が倒れるより早く、スバルの体が頭部をなくしたミミズへとぶつかった。


 ぐずりと、焼く前のハンバーグのタネに全身でぶつかっていく感覚だ。

 傷口であり、内臓であり、血肉そのものであるものをクッションに、スバルは身の毛もよだつ不快感と引き換えに命を拾った。

 口の中に刺激と嘔吐感を触発する液体が混ざり、懸命に咳き込む。その間も、ミミズの亡骸はゆっくりと砂の上に倒れ――られない。


 次々と、視界の端をちかっと光が破裂するたびに、ミミズの亡骸が撃ち抜かれる。

 撃ち抜かれ、爆ぜ、短くなり、飛び散り、ミミズは裁断され、千切れていく。かろうじてそれがスバルに当たらなかったのは、悪運の中の強運というべき偶然だ。

 やがて――、


「――ぁ」


 衝撃に振り回される体が、砂の上に投げ出されたことにスバルは気付いた。

 五体を伸ばして、スバルは砂の上に仰向けに転がっている。


「――――」


 頭上、ミミズに投げ飛ばされたときと同じ、星の見えない空がある。

 何の因果か、命を拾った今も、空は変わらず、『昴』を見捨てたままでいる。


 呆れられて、望まれて、見放されて、憎まれて、親しまれて、遠ざけられて。

 生きたいのか、死にたいのか、いたいのか、いたくないのか。


「俺に、どうしろってんだよ……! 答えがあるなら、教えてくれよ……!」


 顔を覆い、誰もいない、何も見えない空に向かって怒鳴る。

 返事のない中、スバルが聞きたい答えを、一番持っているのは誰なのか。

 それはおそらく――、


「――答えてくれよ、ナツキ・スバル」


 情けなく、ため息のような声で言って、スバルは体を横へ倒した。

 何気なく、何の意味もなく、ただ、身をひねっただけだった。


 ――そのささやかな動きが、耳を掠めて地面へ突き刺さる白い光からスバルの命をかろうじて救った。


「づっ」


 右の耳を、何かが凄まじい勢いで削いだ。

 痛みを訴える耳を押さえ、横に転がる。血が滴り、痛みの原因を見た。


 白く光る、細長い針のようなものが、砂地に突き立っていた。


「これ……ぇ」


 何なのか、手を伸ばし、触れようとした途端にその白い針は塵へと変わる。

 そして、直後に、スバルの視界がぶれた。


「――――」


 大きくぶれた。それは上から下へ、だ。

 ミミズがのたくっていたためか、あるいは今の白い針が最後の一刺しになったのか、スバルの尻の下の地面が崩れ、周囲の大地ごと地下へと落ちる。


「う、ぁ、あああぁ!」


 飛びのいて、縋ろうとしても指は砂をすり抜ける。

 蟻地獄へと落ちる虫のように、抵抗できないままに、スバルの体は砂底へ落ちる。


 手足が埋まり、身動きが取れなくなり、上を向いて、必死に喘ぐ。

 全身が砂に呑まれ、そのまま、生き埋めになる予感に、懸命に抗うように。


「誰か、誰か、助け……」


 続く声は形にならないまま、スバルの体は砂に呑まれ、落ちてゆく。



 そうして、惨めに足掻く『昴』を、空の星は一欠片も気付くことなく。



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