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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第四章 『永遠の契約』
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第四章51 『らぶらぶらぶらぶらぶらぶらぶらぶらぶらぶらぶらぶらぶらぶみー』



 金毛の大虎が、ガーフィールが弾けるのをスバルはただ無言で見ていた。


 凶獣の振り上げた爪が魔女の頭を、細い胴体ごと上半身を消し飛ばしかねないほどの勢いで一撃。直撃の威力は、さしもの魔女でもバラバラに千切れ飛ぶことに疑いはない。――だが、それは届かなかった。


 リューズの複製体の一体を投げつけ布石に使い、なりふり構わず勝利をもぎ取りにいったガーフィール。その腕が魔女に届く寸前、影によって斑に抉られた傷口が蠢くのをスバルは見ていた。

 蠢く傷口――その原因は、魔女の足下からガーフィールの四肢に絡むように這い上がった黒影だ。影はその先端を抉られた大虎の傷口に滑り込ませると、実体がないはずの破壊をまき散らかし、肉体を切り刻んで血を噴出させた。

 そしてそのまま、体中に切れ目を入れられたガーフィールの巨躯は、己の内側で膨張する影の圧迫に堪えかね、爆ぜた。


 堪える、といった抵抗が一切できなかったろう、執拗なまでの命の壊し方だ。

 ガーフィールだったものは一瞬のうちに、赤黒い肉片の山となって広場のあちこちに飛び散った。散らばる肉片にこびりついた、金色の体毛だけが彼がこの世に存在していたことのささやかな証明だ。


「――――」


 言葉が出ない。

 広場にはつい先ほどまで、人形めいたリューズの複製体を含めて二十以上の命があった。それがほんの数十秒の間に、たったの二つだ。

 否、それを言い始めれば、この『聖域』には百を数える命があったはずだ。

 その全てが今、影の中に引きずり込まれてしまったのだと思えば、目の前の影が犯した罪は重すぎる。許し難すぎる。


 状況の変化と焦燥感と、ないまぜになった感情で麻痺していた部分に、血が通い始めてスバルは至極真っ当な反応を肉体に呼び起こしていた。

 即ち、眼前に立つ魔女に対する原始的な感情の発露――怒りだ。


「――愛してる」


「うるせぇ」


「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる」


「うるせぇって、言ってんだよ……っ」


 輪郭がぼやけて、背丈すらもはっきりとはわからない黒い影。

 声音は相変わらず変声機を通したように不明瞭で、男女の聞き分けすら不可能。

 そんな声色にも関わらず、そこに込められた粘つくような熱情だけは、忌々しいほどはっきりと伝わってくる。


 変わらぬ愛情を、『聖域』の人々を飲み干し、ガーフィールを無残に殺害し、それでもなおも彼女の興味は、関心は、愛は、一心にスバルに注がれている。

 それがあまりにも歪で薄気味悪くて胸糞悪くて、スバルは吐き気すら催す。


 魔女と相対しているだけで正気が削られていく気がする。狂乱に近い感情が湧き立ち、今は憎悪と嫌悪で胸の内がしっちゃかめっちゃかだ。


「愛してる愛してる愛してるアナタを愛してる愛してる愛してる」


 動かず、立ち尽くし、魔女はスバルへの愛をひたすら呪いのように呟き続ける。

 とろけそうな情熱を込めて。その場違いさと空気の読めなさはスバル以上だ。

 これほど、愛を向けられる相手が表情で不快感を露わにしていてもなお、押しつけがましい独りよがりの愛を頑なに差し出してくる。


 それらの愛の全てがおぞましい。

 そしてなにより、今のスバルを激昂させたのは――。


「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる」


「…………」


「愛してる愛してる愛してる愛してる――スバルくん」


「――その呼び方で、俺を呼ぶんじゃ、ねぇよ!!」


 甘やかな呼びかけに、スバルは激情を張り上げることで答える。

 愛に惚けた声で、仕草で、呼び方で、その全てがスバルの逆鱗に触れた。


「誰がお前に、俺をそう呼ぶことを許したんだ。ふざけるな。ふざけるんじゃねぇ! ふざけるんじゃ、ねぇよ!!」


 すぐ隣にあることの近しさを。

 呼びかけに込める親愛を。

 触れ合う距離に立つ愛おしさを。

 その呼び方で接することをスバルが許すのは、この世でたった一人だけだ。


 ――それは断じて、目の前に立っている魔女ではない。


「薄汚ぇ魔女風情が冗談じゃねぇ。それはただ一人だけのもんだ。他の誰にも譲ってやらねぇ。いいや! 俺がお前に許してやるもんなんざ、髪の毛一本、細胞一欠片、爪の垢だって、もったいなくてくれてやるかよ――!」


「――――」


 激昂し、怒りに任せて内側に渦巻く感情を吐き出すスバル。

 息を荒げて肩を揺らしながら、正面に立つ魔女をスバルは睨みつけ続ける。


 勝ち目など、あるはずもない相手だ。

 世界の半分を飲み干す化け物。今、目の前でガーフィールという強者を、それこそ歯牙にもかけない強さで葬った魔女の中の魔女。

 あらゆる命を影に沈めて、一切の興味を払わず、ただ一人にだけ偏執的な愛を囁き続ける最悪の災厄。


 そんな化け物を相手に、真っ向から睨み合いができる自分が不思議だった。

 自棄になり、タガが外れてしまっているのだとしか思えない。

 魔女がその気になれば、スバルなど瞬きの間に、沼に引きずり込まれるより容易く影の中へ沈むだろう。あるいは影の先端に全身を串刺しにされて、ガーフィールのように汚い花火となって森の肥しになるだけだ。

 それがわかっていて、こうして心を屈せずに向き合えているのはなぜなのか。それは無意識下で、魔女に対するある確信をスバルが抱いているからに他ならない。

 それは――。


「――――」


「……動か、ねぇ?」


 感情を喚き散らしていくらか冷静になったスバルは、本来ならあるべき魔女のアクションがないことに不信感を抱いた。

 気付けば、先ほどまで呪言のように囁かれ続けていた愛の言葉――それこそ、ガーフィールを破裂させたときにすら、意に介さず続けていた情愛の吐露、それが途切れている。中断している。


 見れば、広場の地面を覆い尽さんと広がっていた影の浸食、その速度も停滞――否、止まっていた。足裏に伝わる影の不快な感触を遠ざけながら、スバルは黒影に浸り切っていない地面を選んで足場を移動。

 その間も魔女から目を離さないよう注視を投げ続けたが、反応はない。


 魔女はだらりと両腕を下げ、変わらず光の屈折が狂うような濃度の影をまといながら、その表情を見せずに棒立ちになっている。

 隙だらけの今こそ、殴りかかればそのまま滅ぼすことすらできそうだが。


「なんでこんな急に……まさか、俺の言葉がそんな効いたってのか?」


 あり得ない、と思いつつも、否定し切れない自分にスバルは顔をしかめる。

 スバルの発言にそこまでの影響力があるとは考え難いが、魔女の言葉と動きの止まったタイミングから考えて、それ以外に該当する可能性がないのも事実。

 だが、それはスバルにとって耐え難い感情をもたらす可能性でもある。


「俺に拒絶されただけでこんだけ行動が乱れるってんなら……」


 もっと早くに声を上げていれば、ガーフィールも他の皆も、死なずに済んだはずだ。

 エミリアが、ラムが、リューズが、オットーが、そしてスバルを庇ったガーフィールが、影の前にその命を散らした今、スバルにはこの世界を生き抜く気力がない。

 なまじ、『死に戻り』の回数制限がないと、エキドナから保障されてしまった直後だ。自分では自覚できていなかったが、生に対する妥協が生じていたのではないか。


 だから自分にできることを、それこそ囮になることの提案すらも、ガーフィールに拒否されただけですぐに引っ込めたのではないのか。

 魔女がスバルに執着しているのが見えていた以上、スバルの側からアクションを起こせば、こういった反応があるものと、可能性を予期することはできたはずなのに。


「出方が読めねぇが……俺の存在は、『嫉妬』の魔女の泣き所になるってことか……?」


 彼女の執着がスバルから剥がれず、この状況が生まれている以上、その可能性は高い。問題はそう考察したとしても、それを活かす機会が巡ってくるものかどうか。

 そもそも、『聖域』を起点とするループは毎回のようにその有様を変えてきた。それだけにスバルは対処に追われて、未だ解決の糸口すらも見つかっていない惨状であるのだが――それにしても、今回の変化はこれまでと比較しても超ド級だ。


 エルザ、ガーフィール、大兎だけでも持て余していたというのに、そこに『嫉妬』の魔女が加わるとなれば手に負えない。前言の三者同様、出現するパターンを見極めなくてはならないと、そう考える気力すら萎まされる。

 それほどまでに、魔女の脅威は――その存在の醜悪さは圧倒的なのだ。

 抗うための方策を練ることすら馬鹿馬鹿しくなる。戦う前に戦う気力を折らせるという意味では、白鯨の巨躯よりも魔女の矮躯の方が恐ろしい。


「――――」


 じりじりと、動かない魔女が相手だというのに、心がすり減るのをスバルは感じる。

 魔女の方にも動きはない。スバルが思考を焦がしながら働かせていることも、彼女は意に介していない。ただひたすら、己の内側に没頭している。


 どうすれば、どうなればいいのかわからないまま時間が過ぎる。

 刻々と、時間が経過していることは、自分の息遣いとうるさいぐらい響く鼓動の音、額を伝う生温い汗の感覚がはっきりと教えてくれている。


 このまま睨み合いですらない睨み合いを続けていても埒が明かない。と、スバルが行動を起こそうとわずかに息を呑んだときだ。

 その閃きはこの瞬間、唐突に訪れた。それは、


「――まさか、エキドナの茶会か?」


「――――」


「あいつの城に招かれてた間、俺は禁止されてた内容を口外しまくった。ペナルティがこなかったのは、あの場所なら許されるからだと思ってたけど……」


 ――そうではなかったとしたら?


 魔女は変わらず、スバルに『死に戻り』を他者に告白する許可など与えていなかったとしたら。それを軽々しく口外するスバルに対し、時間の止まった世界でいつものように罰を与えようとしていたのだとしたら。

 魔女の茶会に招かれていたスバルの傍に顕現することができず、干渉できない魔女がそれでもスバルに罰を与えようとしたとしたら。

 ――それが、この『聖域』に巻き起こった惨劇の真実だとしたら。


「どこまで……身勝手なんだ、お前……」


 スバルに対する罰則を執行できなかった腹いせが、この大量虐殺なのか。

 それをする資格が自分にあるとでも思っているのか。それをする力が自分にあることを誇示して、いったい誰になにを見せつけたいのか。


「――愛してる」


 スバルの思考がそこに行き着き、真実の一端に触れたからだろうか。

 それまでそれこそ影絵のように静止していた魔女が、再びおぞましい活動を再開する。彼女は頭と目される部分をスバルへ向け、再びその口から呪言を漏らす。


 愛の囁きが影の進行を認めて、広場の地面が改めて影に浸され始める。足裏が底なし沼に呑まれる感覚、スバルは地面を蹴るようにしてその場を離れて、


「なんだよ、お前……俺が他の女の名前出した途端に、ずいぶん元気になったもんだなぁ、オイ!」


「愛してる愛してる愛してる愛してる」


「どんだけ愛を囁かれても、俺はお前を愛してねぇよ! 俺の心の一番と二番は、とっくに埋まって譲らねぇ。魔女の入る隙間なんざねぇよ」


 売り言葉に買い言葉――もっとも、魔女が口にするのはイントネーションすら変わらない羅列するような愛の言葉のみ。

 しかし、そこに確かな感情の発露を見出して、スバルは煽る気力全開で頬を凶悪に歪めて笑う。他人の神経を逆撫でするのは大得意、それが魔女にも通じるか試してやる。


「愛してるなんて、軽々しく並べ立ててんじゃねぇ、安っぽいんだよ」


「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる」


「この世界で、俺が本気で初めてもらった『愛してる』は……どうしようもないクズ野郎が、英雄になるのを目指すぐらいにパワーがあったぜ」


 へし折れて、ねじ曲がって、逃げ出そうとしたクズが、真っ向から抗うのを諦めそうになった未来に、もう一度、何度でも、挑もうと信じられるほどに。

 本物の愛とは、それほどまでに強く、気高く、大きなものなのだ。


「てめぇの愛の囁きじゃ、俺の耳には届かねぇよ。ましてや、嫉妬深くて八つ当たりで大惨事やらかすてめぇに、好意を抱く要素が欠片もねぇ」


「愛してる愛してる愛してる」


「お前みたいな魔女を好きになるぐらいなら……」


「愛してる愛してる愛してる愛してる愛して――」


 なにを言えばいいのか、なにを言うべきなのか、なにが一番、この魔女の逆鱗に触れうのか、他人の癇に障ることに関しては右に出るもののいないスバルはわかっている。

 故にスバルは酷薄に笑い、蔑むような目を魔女へ向けて、


「同じ魔女でも、エキドナたちの方がまだ愛せる――」


「――――」


 言い放った瞬間、魔女の呪言が止まった。

 そして――、


「――――ぉ」


 スバルの視界が、世界が、一瞬で、影に呑まれた。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 すさまじい勢いで、質量で、影が迫るのをスバルはなすすべなく見ていた。


 魔女の足下から伸びる黒影は、その姿はさながらペテルギウスの操った『見えざる手』に酷似している。違うのは『見えざる手』がスバル以外の人間には視認できなかった点と、視認できれば回避することは可能だった『見えざる手』と比較して、回避行動をとるのが困難なほどの速度で襲ってくる、という点だ。


 故にこの瞬間も、スバルは自分が影に包まれるのも、くるまれてそのまま自分の体が森の木々の頭を越えてはるか高くへ持ち上げられたことも、そのまま自然落下以上の速度で急降下させられたことも、魔女の眼前まで引き落とされたことも全て目で捉えることができていた。

 その全てがスバルの現実を認識できる速度を越えて襲いかかり、負担のかかった内臓が掻き回された衝撃で、口の端から吐瀉物を溢れさせていながらも。


「お、ぶ……っ」


 ぐるぐると視界がひっくり返り、スバルは意識を真っ直ぐ保つことができない。

 地に足がついていない。なにか柔らかい、布のような感触に全身を優しく絞めつけられている。拘束は決して固くないのに、身動きは完全に封じられ、破ろうと動くことすら力を込められる箇所が見つからない。


 じたばたともがき、指先と足首から先。首から上だけがスバルの意思に反応する部分であり、それ以外の部分は全て影の衣に覆われてしまっていた。

 ようやく、ぼやけていた視界に明瞭さが戻ってくると、スバルは取り戻した目先に茫洋とした影の塊があることに気付いて声を凍らせる。


 ――眼前、それも眼前の眼前に、魔女が息のかかりそうな距離に立っている。


 彼女は影の衣で捕えたスバルを至近で観察し、こちらからうかがうことのできない眼で、穴が開きそうなほどにスバルの瞳を注視していた。

 首が固定されていて、その視線から逃れることもできない。目をつむってやれば見つめ合うことから逃げられただろうが、なぜかそれすら禁じられたように実行できず、スバルは間近で『嫉妬』の魔女と向かい合う憂き目に遭った。


「愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる」


 一音ごとに、区切るように、魔女はこの状況でも変わらぬ愛をこぼし続けていた。

 状況に呑まれて声を失っていたスバルだったが、その言葉を聞いた途端に、再びの堪え難い反骨心に火が付き始める。

 身動きできない全身に力を込めて、目を見開いて魔女と睨み合い。そのまま、馬鹿の一つ覚えを繰り返す魔女に、辛辣な罵声を浴びせてやろうと口を開き、


「距離の問題じゃねぇ。心に響かねぇって、そう言って――」


「愛してる。愛してる。――愛して」


 そのスバルの言葉が、今度は魔女からの言葉に途切れさせられた。

 眉根を寄せ、スバルは今しがた聞こえた言葉が、聞き間違いではなかったものかと目を瞬かせる。そのスバルの反応に、魔女はゆらりと頭をもたげながら、


「愛して。愛して。愛して。愛して。愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して――愛して」


 ゾッと、今度こそスバルは正真正銘、魔女に対して恐怖の感情を覚えた。

 ここまで、反骨心や意地、わき上がる怒気といった感情で誤魔化し切ってきた、スバル自身の内心――それが風向きの変わった魔女の呼びかけを前に、露呈する。


 なにを言われても、なにをされても、心だけは屈しまいと強く顔を上げてきた。

 そうするだけの、その意地を張るだけの理由が、意味があるとスバルは『嫉妬』の魔女との相対で見出してきたつもりだった。


 そのなけなしの勇気が、軽はずみな結論が、木っ端微塵に打ち砕かれた。


 異貌。異常。狂人。狂愛。凶悪。凶人。魔女。


 愛していると囁き続けて、それでも愛を得られないとわかった。だから今度は、強引なまでの形で愛を欲する。貪欲というより、浅ましすぎる姿勢。

 そして理解する。


 魔女はナツキ・スバルを欲しているが、ナツキ・スバルを見てなどいない。


 魔女が見ているのはスバルではなく、ナツキ・スバルという器だ。彼女は上辺だけのスバルを欲し、上辺だけのスバルに愛されることを望んでいる。それが本心であるかどうかなど、正常な判断力を失っている彼女には関係ないのだ。

 ナツキ・スバルを愛し、ナツキ・スバルから愛されること。

 それこそが『嫉妬』の魔女の全てであり、世界を滅ぼす意味なのだ。


 ――意味がわからない。


 それを理解して、スバルの胸中に浮かび上がる疑問は最初に舞い戻ってしまう。

 即ち、魔女はどうしてこれほどまでに、スバルに執着しているのか、だ。


 会ったこともない、話したこともない、顔を合わせたのだってこれが初めてだ。

 そんな相手がどうして、これほど狂おしいほどにスバルを愛するのか。

 なにもわからない。何一つ、論理的でない。愛は常識で測れないものであるなどと言うのは容易いが、魔女の愛はその次元を超越し過ぎている。


「――愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して」


 上辺だけの愛を、それを真実の愛と勘違いさせてもらえることを望んでいる魔女。

 きっとおそらく、スバルが一言、その愛に報いる形での答えを返せば、それだけで魔女はこの拘束状態からスバルを解放するだろう。

 普段のスバルならば、打算的に考えて、小賢しく立ち回るスバルだったならば、歯の浮くような台詞で彼女の求愛に応えたかもしれない。

 だが、


「――俺は、お前が嫌いだ」


「――――」


「お前を愛してなんか、絶対にやらない」


 魂が拒否するままに、スバルは『嫉妬』の魔女の求愛を断った。


「――――」


 そのスバルの答えに、魔女はこれで何度目になるかの無言。

 二度も三度も、『嫉妬』の魔女の意気を挫いた人間はそうはいまい。そのことにつまらない誇りを感じるスバル。その身がゆっくりと、高度を下げ始めた。


 影の衣に包まれたまま、宙に上げられていたスバルの体が地面に下ろされる。が、それはそのまま解放するという意味ではない。

 スバルの体は拘束されたまま、足先からずぶずぶと、魔女の足下――渦巻き始めた影の中にゆっくりと呑み込まれていくのだ。


 スバルの心が手に入らないと見て、魔女はスバルを取り込むことを決めたらしい。それはあまりに短絡的で、即物的すぎる思考としかいえない。

 だが、そうして影の中に膝下が呑まれて、感覚が消失していく恐怖に苛まれつつあったスバルは、ふと疑念を抱いた。


 このまま影の中に呑み込まれれば、間違いなくスバルは命を落とすだろう。

 それは、ある種、諦めが利くことだ。自分が『死』を迎えることは、半ば覚悟した上での魔女への反抗だった。だから、それは呑み込める。

 しかし、


 ――これまでの『死』を、魔女の力でやり直してきたのだとしたら、こうして魔女手ずから命を落としてしまう状況を、やり直すことはできるのだろうか。


「――――!」


 気付いた瞬間、スバルは遅すぎる抵抗を行う。すでに下半身が影の中に呑まれてしまった状態では、抵抗といっても幼稚に過ぎるものだ。だが、それでもやらずにはいられない。

 考えを深めれば、やり直せるかどうか以前に、影に呑まれてそのままあっさりと命を奪ってくれるかどうかすらわからない。下手をすれば影の中に取り込み、そのまま魔女と同化して、死すら許されない永い時間を過ごすことになるかもしれない。

 その長い長い時間の中で、自分の今の決意が、覚悟が、擦り切れて摩耗して、いずれ魔女に屈しないかどうか。そうはならないと言い切れるほど、スバルは自分を信じていなかった。故に、このまま呑まれるわけにはいかない。


 最悪、舌を噛み切ってでも、魔女の手にかかる前に――その判断は、


「――う、お?」


 ふいに胸の内に生じた熱い感覚に、早まる前に中断させられていた。


 火傷しそうなほどの熱量が左胸に発生し、スバルは何事かと視線を落とす。と、熱は内側から光を放ち、スバルを包む影の中から光を溢れさせるほどだった。

 そしてさらに驚いたのが、その光が発生した箇所から徐々に、スバルを絞めつけていた魔女の影が、溶けるように消失していったことだ。


「これ、なら……っ!」


 唐突に溢れ出した光、その正体に意識を走らせるより先に、スバルは身をひねって光の力で影の衣を切断。動ける範囲を広げて衣を断ち切り、腕が自由になったのを確かめると即座に光の根源に指先を伸ばした。

 そして、懐から抜かれた指先に掴まれていたのは、ひらひらと風になびくハンカチ――灰色の猫の刺繍が入った、ペトラのハンカチだった。


「ペトラの、ハンカチ……? なんで、これが……いや!」


 考えるのは後回しに、スバルは掌の中のハンカチを一閃。柔らかい生地であるはずのそれは、スバルの意思に従って急速にその硬度を増し、ナイフのような鋭さを発揮すると、魔女と地面とを繋ぐ影を断ち切ってみせた。


「――――」


「すげぇ! これなら……いける!」


 ついで、スバルは自分の下半身が呑まれた影へ、ハンカチの刃を突き立てる。

 光を溢れさせるハンカチの先端が影に埋まり、影は一瞬だけその光に向かって集まるような挙動を見せ、直後に音も立てずに爆散。

 影が吹き飛んだあとには、両足を地面に投げ出したスバルが残るだけだ。


 即座に後ろへ転がって両足の健在を確認。そのまま腰溜めにハンカチを構えて、スバルは光をこぼれさせているそれに目を走らせる。

 ペトラの刺繍したハンカチ。まさか彼女のスバルへの想いが、これほどの奇跡を引き起こしたとは考え難い。直後に、スバルはこのハンカチに、このような細工をした可能性のある人物が思い浮かんだ。


「エキドナの奴……まさかこうなるの、わかってやがったのか」


 保険だよ保険、とでも言いたげな白髪の魔女の顔がちらと脳裏をよぎった。

 茶会の別れ際に、対価と称して仮想世界でハンカチを抜き取ったエキドナ。夢の世界で手渡したものが、現実にどう干渉を受けるものかとここまで考える暇すらなかったが――小細工をするぐらいの干渉なら、夢から現実にでもできたということか。

 いずれにせよ、


「これで、魔女に対抗する手段ができたってんなら、感謝してやる」


「――――」


 自分の生んだ影が消された事実を前に、魔女は茫然自失としたように立ち尽くしている。スバルは短く息を吸うと、その魔女の隙を突くように横に回り込み、


「油断、大敵だ!」


 棒立ちの魔女の横から、スバルは突き上げるようにハンカチのナイフを叩き込む。魔女は動かない。が、まるで自動防御のように彼女の足下から影が噴き出し、ガーフィールが影のドレスと称した防御が発動する。


「――るぁぁぁぁ!」


 だが、それすらもスバルの構えるハンカチの光を止めることはできない。

 ナイフの鋭さを持つハンカチは、影のドレスをクモの巣を破るような容易さであっさりと突破、そのまま先端が魔女の横顔目掛けて突き進み――直撃。


「取った――!」


 確かな手ごたえに快哉を上げ、スバルは素早い身のこなしで勢いを反転。その場で身を回し、返す刃を再度魔女の体に叩きつけようとして――、


「――え?」


 目の前の光景を見て、その動きが止まってしまった。

 眼前、棒立ちの魔女がスバルを見ている。横顔に叩きつけた光の一撃は確かに魔女に届き、これまで茫洋とおぼろげだった彼女の顔を、影の仮面を剥いで、外気へとさらけ出していた。


 見知った、見慣れた、銀髪の少女が、感情の凍えた目でスバルを見つめていた。


「エミリア……?」


 呼びかけに彼女の反応はない。しかし、それ以外は大きく動いていた。

 再び勢いを取り戻した影の衣。一度は死んだはずのそれが足下からスバルの肉体をまたしても絡め取り、今度は容赦のない絞めつけでスバルに絶叫を上げさせる。


 右脇を起点に、左半身ががっちりと影の衣に拘束されてしまう。かろうじて動くのはハンカチを持つ右腕だけだが、それすらも稼働範囲を制限されてまともに動けない。

 そのまま身動きを封じられるスバルを、影の海が躊躇なく底へと引きずり込んでいく。手心を加える気がないのか、先ほどをはるかに上回る速度。


 下半身が、そして左半身が肩まで沈み、表に出ているのが右半身が胸から上だけと、首から上だけの極々わずかな部位のみ。

 必死に首を持ち上げて、スバルは沈みかけの身で抵抗しながら、


「エミリア! エミリア!? なん、どうして、なんだ!?」


 彼女の存在が墓所から消えて、『聖域』が影に呑まれているのを見たとき、スバルは彼女もまた、魔女の手で影の海に沈められたものと思っていた。

 『嫉妬』の魔女へのここまでの抗いには、その弔い合戦の意味が少なからずあったというのに。


 ――何故、彼女が影をまとって、『聖域』を襲っていたのか。


 考えがまとまらない。彼女は答えない。スバルを見ていない。見たことのない、冷たい紫紺の瞳の輝きに、スバルは彼女の意識がそこにあるのかを疑う。

 そしてその疑いを確かめる暇もない。


「ぐ、う、あ……」


 ずぶずぶと、さらに自分の体が影へと引きずり込まれていく。

 呑まれた部分は感覚がない。感覚がないだけならともかく、存在している実感さえ失われている事実に、このまま影に呑まれた場合のリスクをスバルは改めて意識。


 そして右腕の中のハンカチと、未だかろうじて動く残った部位を確認し、覚悟を決めた。

 覚悟を決めた脳裏を、またしても過る白髪の魔女。

 さっきの言葉を訂正して、改めて魔女に一言、物申したい。


「エキドナの奴、まさか本気でこうなると思ってやがったのか……?」


 だとしたら、その行き届いた気配りに涙が出そうだ。

 涙は涙でも、血の涙だが――。


 ――目をつむり、見開いた直後、スバルは右手のハンカチを自分の喉へ突き込む。

 鋭い先端が肉を破り、喉の致命的な部分に穴を開けたのがわかった。逆流する血が喉を浸し、肺に流れ込む血で意識が溺れ始める。


 自害。『強欲』の魔女はスバルに、この機会を用意したのだ。

 『嫉妬』の魔女に対抗する手段ではない。彼女はおそらく、城での会話の内容が『嫉妬』の魔女の逆鱗に触れると悟っていた。対価は、そうして支払われる。


「――――!」


 スバルの自害に、『嫉妬』の魔女が初めて、愛以外の感情を爆発させた。

 しかし、自分の血に溺れて、意識をすでに手放しつつあるスバルにはそれがわからない。


 ただ、目の前で、見慣れた少女の顔が悲痛に歪むのが見えて、中身がどうなっていたとしても、そうして悲しい顔をする少女を見て、なくなりかけている胸が痛むのは変わらなくて――。


 溢れる血が、その喉を浸して、まともに言葉を作れないけれど、それでも、スバルは目の前の少女に、その器を満たした偽物にではなく、その少女に告げる。


「俺が、必ず――」


 ――お前を、救ってみせる。



 次の瞬間にナツキ・スバルは命を落とした。



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