プロローグ3 現実は甘くない
あらためて周囲を見回すと、白亜の広間は不気味な光景に包まれていた。
ヴィンセント殿下とわたくし以外、誰も動かないのだ。皆がある一瞬の動作を切りとられたように硬直している。
先ほどのヴィンセント殿下による護衛魔法の発動、あれは会場全体を範囲としていたらしい。これだけの人数に魔法をいきわたらせるとは、さすがすべてにおいて秀でているお方。
でも、ちょっと、うん……蝋人形の館に迷い込んだようで怖い。
早く魔法を解いてほしい、という思いを込めて視線を送ると、すぐに察していただけたようだった。
「では、いまから皆の自由を返すが……その前に今一度、己の表情を確かめよ」
ヴィンセント殿下は、唇を歪め侮蔑の笑いを張りつけたままのユリシー嬢に一瞥を送り、それからわたくしたちを囲んでいる人々をぐるりと眺めた。
「感情を表に出さぬ者、これは貴族として合格だ。眉をひそめ王太子の錯乱を拒絶する者、これも正しい心根の持ち主である。……最前列で顔を輝かせている諸君――」
言われてみるとたしかに、反応は三パターンに別れている。
期待、失望、無、の三つである。
そして意外にも、令嬢だけでなく子息のほうが数が多かった。彼らはおそらくユリシー嬢に骨抜きにされたモブ軍団だ。
真ん中でガッツポーズをしそうな勢いなのはエドワード・ノーデン先輩。驚いた、こんな人までユリシー嬢を応援していたとは。
「君たちは物語と現実の区別がつかず、思慮の浅はかな者。または身分の秩序を乱す者が現れた際の害を知らぬ者だ。ま、この場に君らの親はいない。誰からも叱責されることはないだろう。己で深く反省するんだな」
暗に生徒同士の諍いに釘を刺し、パチン、とヴィンセント殿下の指が鳴った。途端に止まっていた時が動きだし、広間はざわめきに包まれる。
やはり表情を動かさない人、ほっと安堵の息をはく人、そそくさと前列から姿を消す人……。
それぞれに思うところがあったはずだ。最小限の言葉で彼らの心をつかんだヴィンセント殿下には頭が下がる。
わたくしたちの前にいるユリシー嬢も、魔法が解けたとともに力なく崩れ落ち、座り込んでいる。
しかし、その表情には隠しきれない憤怒が浮かびあがっていた。
「ユリシー嬢。君はエリザベスが青ざめたのを見て笑ったな」
ヴィンセント殿下は視線を伏せ、静かに言った。ユリシー嬢は唇を噛んで、何も答えない。
かたくなな態度に殿下はため息を一つ落とす。
「エリザベス。あのとき、何を思った」
こちらは見ないまま、尋ねられて。
ヴィンセント殿下は答えを知っているのだ。この場にいる者たちに聞かせたいのだろう。殿下がシナリオどおりにこの場を選んだ意味がわかった気がした。
「……わたくしも殿下も、どちらが欠けても国のためになると思えませんでした」
ユリシー嬢は訝しげにわたくしを見た。
おそらく彼女は、あの瞬間わたくしが敗北を悟ったと思った。けれども違う。
あの瞬間悟ったのは、
「もし陛下の御許可が本当であれば、我が公爵家の没落か、殿下の御廃嫡か……どちらかですから」
「!」
ユリシー嬢の深い藍色の目が見開かれる。そんなことは思ってもみなかったと、表情が語っていた。
以前は薔薇のように咲き誇っていた無邪気なかんばせは、頬も唇も青ざめて色を失った。
わかっていなかったのね。
つまり彼女が欲しかったのは、ヴィンセント殿下ではなく――王太子妃の座。
「君の協力者は、ぼくが君を選べば王妃になれると言ったのだろうが、それは違うぞ。立場を忘れ女にうつつを抜かした者に王が務まるか。追放同然に駆け落ちがいいところだ。つまり君はどう転んでも王妃にはなれなかった」
「……そんな、そんな……!!」
「現実は物語ほど甘くない」
鈴の音のような声がかぼそく喘ぐ。今日、はじめて彼女が発した声だった。それをヴィンセント殿下の迷いのない声が切り捨てた。
広間のあちこちで起こる息を飲む音。物語にのめり込んでいた子息令嬢たちもようやく理解したのだ。身分と立場にまつわる責任を。
沈黙の落ちた広間に絹を裂くような悲鳴が響く。
「最初から、なんて……! どうしてよぉ……っ!」
「ヴィンセント殿下、ここでは人目がありますわ、あとはあちらで……」
肩を震わせて泣きはじめたユリシー嬢の姿を見て、憐憫の情がわき起こった。
大きな瞳からぼろぼろと涙がこぼれる。おそらく彼女は利用されただけ。小説のように王太子を虜にできると唆されて。
広間の外に兵士が配備されているのであろうと扉へ視線を向ければ、ヴィンセント殿下はすぐに付き人を呼んだ。その背後には思ったとおり数人の兵士と侍女が続き、立てなくなってしまったユリシー嬢を恭しく連れだす。
完膚なきまでに心を折られたユリシー嬢が、共犯者を庇い立てすることはないだろう。またその誰かは監視されたこの広間から逃げ出すことはできない。
軽くて、人心を混乱させた罪。重ければ、王太子への反逆罪。
ユリシー嬢に罪をなすりつけ逃げおおせたとしても、今後ヴィンセント殿下への不実をはたらく勇気など持てない。
殿下はユリシー嬢を使って、この場にいる将来の有力貴族たち全員の畏怖と尊敬を勝ちとった。
わたくしも含めて。
ユリシー嬢の背中を見送って振り返る瞳は揺るがぬ色をたたえ、やはり王たる器だ、と心の中で感嘆の息をつく。
わたくしに追いつけるだろうか。
「お詫びに、なんでも君の好きなものを贈るよ、リザ」
「そんな……勿体ないお言葉ですわ。わたくしのほうこそ、わが身の修行不足を恥じ入りました」
殿下はわたくしに欠けているものを、遠回しに教えてくださったのですわ。
そう言って頭を下げると、ヴィンセント殿下は少しだけはにかんだ笑みを浮かべ、握ったままだった手の甲に唇を落としてくださった。
こうして大ヒット小説『乙星』をめぐる事件は幕を閉じた。
――でも、一つだけ不思議に思うことがあるのです。
どうして顔をあげたとき、殿下はなんとなく残念そうな顔をされていらっしゃったのかしら?