24.ユリシーの罠・その2
翌週、指定された時刻に西校舎の庭へ赴くと、ユリシー嬢はすでにオレを待っていた。
庭の樹々は丸く形を整えて刈り込まれ、中央の池には噴水がしぶきをあげて虹を作る。美しい光景だが、オレにとってはそわそわしてたまらない。
万が一にもユリシー嬢が抱きついてきたりしないように十分な距離をとって足を止める。
「やぁ」
「ごきげんよう、ヴィンセント殿下。なかなかお会いできずに寂しかったです」
「すまない。忙しくてね」
だから名を以下略。あと唇を尖らせるな。
次の約束があるんだからそれ以外で不用意に会いたいわけがないだろうという本音を飲み込む。
この一週間オレはユリシー嬢を避けまくっていた。教室移動の際もハロルドの陰に隠れたしやむをえず放課後に居残る際にはユリシー嬢の天敵であるラファエルを呼びだして一緒に残ってもらった。
それだけしても今日この日のことを考えると暗澹たる思いに駆られ胃が引きしぼられたのだ。わざわざ自分からは近づかん。
いますでに緊張と不安で腹の中がひっくり返りそうになっている。昼食はほとんど食べていないというのに胸焼けみたいな症状がある。
オレのメンタルが弱いというよりは、ユリシー嬢がエリザベスを標的にするとわかってしまうからだ。
何かが起こればオレはエリザベスではなくユリシー嬢を助けなければならない。そうでなくてはシナリオと齟齬が出る。そのことを考えると……吐きそうだ。
「あっ」
ユリシー嬢が声をあげた。つられてオレも顔をあげると、中央校舎から数人の令嬢たちが歩いてくるのが見えた。
中心にいるのは、見間違えるはずもない、エリザベス。傍にはマーガレット嬢もいる。
向こうもユリシー嬢に気づいた。マーガレット嬢をはじめとした令嬢たちの顔に緊張が走る。
しかしエリザベスだけは、穏やかに微笑んだままだった。
「いってきます」
おい、何をしにだ。
なぜか悠々とした足取りでユリシー嬢はエリザベスたち一行に近づいていく。スカートの裾をつまみお辞儀をすると、エリザベスに何事か話しかけた。
一人の令嬢が止めるそぶりを見せたが、エリザベスは手をあげてそれを制した。こういうとき護衛だと明言していない護衛はつらい。
渋々と頷いた彼女たちからエリザベスとユリシー嬢が離れる。
池のそばまで移動し、二人はしばらく何事か話していた。声は聞こえない。マーガレット嬢が鬼の形相で見つめているので残された令嬢たちにも内容はわからないようだ。
エリザベスは困ったように首をかしげている。口数は少なく、ほとんどユリシー嬢が話しているらしい。
――と。
エリザベスがユリシー嬢に向かって手をのばした。
それはゆっくりとした動きで、なんら危険を感じるものではなかったのだが――。
「きゃあっ!!!」
ユリシー嬢は派手な悲鳴をあげると、池のふちに向かってよろめいた。
「!?」
見ていた誰もが息を飲む――「何をやっているんだ」という意味で。
池は人工的なもので水深は浅い。ユリシー嬢が自ら倒れたのは明らかだった。オレを含め呆れの表情を浮かべる者はいても心配する者はなかった。
しかし、状況は次の瞬間一変する。
「あぶない!」
その一声とともに、エリザベスがユリシー嬢の手をつかんだのだ。
だが自分から身体を倒していくユリシー嬢を支えるには至らず、エリザベスもまた体勢を崩す。
「エリザベス!!」
「エリザベス様!!」
令嬢たちは即座に駆けだす。しかし、もちろん間に合うわけがない。
オレは咄嗟に手をのばした。考えるよりも先に口が呪文を紡いでいた。
「風よ、引き寄せよ!」
魔力が呪文の詠唱とともに身体中を駆けめぐり、手のひらから圧縮された空気の層が迸る。
それは風となってエリザベスの斜めにかしいだ身体をくるんだ。ふわりとエリザベスの爪先が地面を離れ、すぐに体勢を崩すことなく着地する。ドレスにも一分の汚れも傷もない。
が、エリザベスは眉を寄せて悲痛な表情を浮かべていた。
視線の先には、風に巻かれて空っぽになってしまった右手。
「――あっ」
ばっしゃ――ん!!!
しまった、と思った途端、派手な音を立ててユリシー嬢が池に落ちた。
一度エリザベスが支えてから離したせいで重心は大きく崩れ、おそらくそのままなら腰のあたりまで水につかって終わりだったろうユリシー嬢は全身をずぶ濡れにしている。
……やってしまった。
マーガレット嬢、こっちに向かってサムズアップしてくるんじゃない。ハロルドがいたら確実に不敬だと注意を受けるぞ。
呆然としていたら目の前でエリザベスが池に向かって手を差しのべたのでハッとして駆けだす。
「大丈夫か、ユリシー嬢!」
さすがに自分が突き落としたようなものなので迫真の演技ができた。
エリザベスを制してユリシー嬢に手を貸す。せっかく守ったエリザベスのドレスまで汚しては魔法を使ってしまった意味がなくなる。
ユリシー嬢はぽかんとした顔をしていたが、オレを見ると顔を輝かせた。
彼女は平民出身の下位貴族であり、魔法には疎い。いまの状況を『エリザベスに突き飛ばされたところにオレが助けにきた』と、脳内で都合よく解釈したようだ。
加護の実績が逆に彼女の疑う気持ちを封じ込めている。諸刃の剣だな、と内心でため息をつく。
「ありがとうございます、殿下……。私とっても怖くて……」
「すまない、オレのせいだ」
「いえ、そんな……」
ぐすぐすとわざとらしく鼻を鳴らしユリシー嬢がもたれかかってくる。全力で拒否したい。マーガレット嬢を筆頭に護衛役の令嬢たちが殺気だった目でオレとユリシー嬢を見つめてくる。さっきはよくやったって顔だったのに。
オレも怖いよ、ユリシー嬢。
「ユリシー嬢はオレが送ろう。ハロルドを呼ぶ。君たちは西校舎へ行く途中だったのだろう? 気にせず行ってくれ」
というかぜひその射殺されそうな眼つきをやめろください。
オレの言葉にエリザベスは少し考えていたが、「わかりました」と頭を下げて令嬢たちの元へと戻った。口々に何か言い募る彼女らをいさめ校舎へと連れていく。
その後ろ姿を見送りながら、平常心を保とうとしていても顔がこわばった。
眉が寄り、唇はへの字になってしまう。
「あの、殿下、私は気にしておりません……」
エリザベスに怒りを覚えていると勘違いしたユリシー嬢が優しく笑う。
いや、違うぞ、ユリシー嬢よ。
ハロルドを呼ぶと言ったとはいえ、エリザベスはオレと君が二人きりになることを許した。オレが君を送って帰るという申し出を許したのだ。オレの婚約者でありながら。
ここまでしてもエリザベスの表情には嫉妬のひとかけらも見えなかった。オレと君の間に何かあると疑ってもいない。
小説の悪役令嬢なら主人公を罵倒するシチュエーションのはずだ。
これがどういうことか、君にはわからないらしいな。
ユリシー嬢、君はエリザベスに相手にされていない。
……そしてオレも、エリザベスに相手にされていない……。