18.ユリシーの罠(中)
わ――――はっはっは!!! ひっかかったなユリシー嬢!!! 君がこうして尻尾を出すのを待っていたのよ!!!
エリザベスの名を騙る瞬間をな!!!
と、オレは心の中で快哉を叫ぶ――わけはなかった。
正直な気持ちを言おう。
天使がそんなことをするわけがないだろうがああああああああああああ!!!!!!!
……嘘だとわかっていても、そう言いたい。
言いたい気持ちをぐっと我慢する。虚構と現実の区別がついていないのはオレも同じだ……。
ぐっと拳を握りしめ無言のままのオレの背後から、ハロルドが歩み出た。そして証言を行った令嬢の隣にしゃがみ込むと、ユリシー嬢の手を押しのけて令嬢の震える肩に手を置いた。
「勇気を出して言ってくださいましたね」
優しい声だった。
恐怖に打ち勝って罪を告白し、また公爵家の令嬢を摘発した彼女を、いたわり、慰める声。
……オレあんな声で話しかけられたことない。
「エリザベス様のなさったことは王太子の婚約者にあるまじき振る舞いです。あなたの行動は王家を救うものとなりましょう」
「あぁ、そうだな。よくぞ打ち明けてくれた」
呆然としていたら振り向いたハロルドに睨まれたので、慌てて台詞をつむぐ。
令嬢は涙のにじんだ目でオレを見上げた。貴族社会で家格というのは絶対的な上下関係を決める。それに逆らって上の者の不始末を指摘するには、……しかもそれが嘘であれば余計に、相当の覚悟がいる。
その《相当の覚悟》をさせてしまうのがユリシー嬢の《魅了》の力だ。
まずはこの令嬢を残酷な魔力から解放してやらねばならない。
ハロルドがエリザベスに対して否定的な意見を述べ、それをオレが肯定したことで、ユリシー嬢は自分の企みがうまくいったと思ったようだった。笑みを浮かべ、一歩下がる。
オレは令嬢を見下ろして言った。
「君のことは悪いようにはせぬ。このことはぼくが預かろう。ユリシー嬢、それでいいか?」
「もちろんでございます。この方を責めないでくださいと、私のほうから言おうと思っておりました。悪いのは命じたエリザベス様で、この方は逆らえなかっただけですから……」
『乙星』の中の台詞をそっくりそのまま、朗々と告げるユリシー嬢。小説の中ではこうした健気な姿が当初は下層の民と主人公を見下していた王太子の心を溶かしていくのだが……。
あぁっオレは顔がひきつりそうだ! 軽々しくエリザベスと呼ぶんじゃない、ハロルドに言われたろうが……!!
ちょっと自分に有利と思った途端に図々しくなるの、そういうとこだぞユリシー嬢!!!
詰めが甘くてこちらとしては助かるが、それはそれとして色々とムズムズするんだよ。
「……優しいのだな」
これも小説どおりの台詞だ。そして、にこり、と王族スマイル。
ユリシー嬢は恐縮することもなく、同じくにこりと微笑み返してきた。
「殿下、実はエリザベス様のよからぬ噂は、私も聞いておりまして……」
「なんだと?」
ハロルドの一言に驚いたふりをする。これは小説の八章序盤、主人公に心惹かれはじめた王太子に対して、従者が告げる台詞と同じだ。
小説では誰もいない王宮の一室で交わされる会話だが、シーンを忠実に守るよりユリシー嬢にシナリオは着実に進行しているという印象を与えたほうがいいだろう。
実際、ユリシー嬢はきらきらと目を輝かせている。自分が連れてきた可哀想な令嬢に視線を向けることもなく……。《魅了》に憑りつかれた令嬢は脇役扱いを受け入れているのかじっと息をひそめて俯くまま。
この娘は《魅了》の効果が抜けた頃に改めて話を聞くとして。
もう一度ダメ押しにユリシー嬢に微笑みかけた。
「ぼくは、真実の愛を知らないのかもしれない……また君と話せるだろうか」
「はい、喜んで。ヴィンセント殿下」
名を呼ぶのは許可していない。あとオレは真実の愛を知っている。
ハロルドはユリシー嬢の背後へ下がったため彼女からは見えてはいないが、また能面のような顔になっている。こわいこわいこわい。
「ありがとうございました、殿下。ではこれにて……」
相かわらずどこかぎこちない退出の礼をすると、ユリシー嬢は教室を出るべく踵を返した。
その瞬間。
まるで見計らっていたかのように、がちゃりと音を立ててドアが開く。
首をつっこむように顔を覗かせたのは、ラファエルだった。
「ユリシーちゃん♡」
「ゲッ!!!」
ユリシー嬢の口から『星の乙女』とは思えない悲鳴が迸った。喜びに紅潮していた顔は一気に青ざめる。
シナリオ進行の安堵にひたりきっていたせいで咄嗟にとりつくろうことができなかったらしい。しかしラファエルはまったく意に介していない。
「こんなところにいたんだねぇ♡ 探してたんだよ。邪魔な二人はまいたから、一緒に帰ろうじゃないか」
「ま、まぁ、嬉しいですわ……わざわざ探してくださいましたの……」
震える声からは『お前もまいたはずなのになぜ』という困惑が読みとれた。
手を取られ、ドアまで開けられては断るすべもなく、ユリシー嬢はラファエルのエスコートに従う。ぷるぷると手が震えている。
「では皆様、ごきげんよう……」
「まったねー☆ で、この後はどこに行く? ボクの馬車で送ろうか、それとも……」
ドアが閉まり、ラファエルの嬉々とした声が廊下を遠ざかっていく。ユリシー嬢の声が聞こえないのはどうすれば逃げられるのか考えているのだろう。
「…………」
「…………」
「…………」
完全にラファエルの声が聞こえなくなってからも、しばらくは誰も何も言わなかった。
沈黙の落ちること、数秒。
まだうずくったままの令嬢を挟んで立ち尽くしているオレとハロルド。なんというか、取り残された感が強い。
はぁ、とため息をつき――最初に動いたのは、ハロルドだった。
「こんなこともあろうかと、用意しておいてよかったよ」
言って、ハロルドは枕を取りだした。
羽毛のたっぷりつまった、ふわっふわの大きな、レースで縁取りのされた白い清潔な枕。
――え? なんで枕?
ていうかどこから出てきたの?
「ありがとう」
唖然とするオレの前で、令嬢はゆっくりと立ちあがるとその枕を受けとった。