8.エリザベスVSユリシー
セレーナ嬢との偶然の出会いに感謝し、オレは地理学教室を後にした。
時刻はちょうどエリザベスのサロンが終わる頃。これまでの学園生活で最高の放課後のすごし方だった。
歩みも軽やかに渡り廊下を歩いていく。
サロンに使われている部屋は西校舎の一階。オレの馬車が停めてある広場のすぐ近くだ。……まぁ、ハロルドに言いつけてそこに馬車をまわさせたのだが。
あくまでたまたま、オレとエリザベスの帰宅がかちあったのだと、そういうことにしておかねばならない。
……『乙星』さえなければオレの馬車でエリザベスを送りとどけたり、放課後デートもできたかもしれないが……。
しかし作者の人となりを知ってしまった以上、やはりあの本に罪はない。問題は程度を超えて熱中しているユリシー嬢やエドワードといったような者たちだ。
そんなことをつらつらと考えながら歩いてくと、予想どおりエリザベスたちのいる部屋から華やかな笑い声が聞こえた。
ごきげんよう、と言い合う声が聞こえ、ドアが開く。
タイミングはばっちりだ。ハロルドがいればストーカーと断言されただろう。
「あっ」
「あら」
「まぁ……」
中から出てきた令嬢たちは、オレの顔を見た途端に声をあげた。しかしすぐに礼儀を思い出し口を閉じると深く礼をする。
「ごきげん麗しゅう、王太子殿下」
「お久しぶりにございます」
「あぁ、皆も元気そうでなにより」
こちらも軽く頷き返す。エリザベスはまだ片付けでもしているのだろうか。
さすがに女性たちの会合の場をのぞき込むわけにはいかず、ドアの前で立ち止まっていると、一人の令嬢が中へと声をかけた。
「エリザベス様、王太子殿下がお見えですわ」
いや、会いにきたわけじゃないんだけどな!? 建前上は。
本音としては会いにきたんだけど。
とは思いつつ、呼んでくれた令嬢に心の中でグッジョブと親指を立てておく。
「まぁ、殿下が?」
鈴の音のような可愛らしい、それでいて凛とした響きが耳を打った。
エリザベスだ。
人の動く気配がし、ドアからエリザベスの顔がのぞいた。勉強会のためなのか、今日は金髪を編み込んで一つにまとめている。それが普段よりもずっと大人びて見え、エリザベスの気品と包容力を増しているように思えた。
人前であることを忘れて見惚れたオレに向かって可憐な唇が開く。
「ヴィン――」
「ヴィンセント殿下!!」
しかしオレの名を呼んだのは、鈴の音の声ではなく。
快活とした貴族らしからぬ声で。
やはり貴族とは思えぬばたばたとした足音を響かせて、ユリシー嬢が登場した。
「あぁ、ヴィンセント殿下、お助けください! 怪しい男に追われているのです!」
「ユリシー嬢……? どうして君が、ここに」
人のことを言えた義理ではないが、一回生の教室は西校舎にはなく、サロンに参加する者でなければ訪れないはずだ。
ユリシー嬢はオレの疑問には応えず、それどころか涙を浮かべながらオレの腕にしがみついてきた。
「っ!!」
周囲の令嬢たちが目をつりあげる。
焦ってエリザベスを見ると、エリザベスもまた驚きに口元を手で覆っていた。
人前で異性に触れるなどあまりにもはしたない行為だ。しかも婚約者の前で、王太子を相手にしていいことではない。
この女、エリザベスの前でわざと。
カッと頭に血がのぼりそうになるのを拳を握りしめて耐える。ここで怒りに任せて振り払えば、それは王族としての品性を傷つけることになる。
外向けの穏やかな顔面を貼りつけ、対応しようとしたそのとき。
「ヴィンセント殿下!」
ふたたび名を呼ばれ、左腕に絡みついていた重さがふと消えた。
よく知る声の主はめずらしく怒りを顔に浮かべている。強く出にくいオレの代わりにわざと感情を見せているのか、それとも王太子に仕える者として本気で不躾な振る舞いに憤怒しているのか、それはオレにもわからなかった。
「ユリシー様。相手が誰であれ貴族であれば人の身体に軽々しく触れるものではありません。お名前を呼ぶものでもありません。王族は特にです」
「も、申し訳ありません、ハロルド様……私、怖くて……」
不愉快を隠そうともせず眉をひそめるハロルドによって引き剥がされ、ユリシー嬢はわざとらしく鼻声で謝ってみせた。肩をすぼめて俯き、弱々しく足下をふらつかせている。
が、その場にいる者たちの視線は冷たかった――ただ一人、エリザベスを除いては。
「そうですわ、怪しい男がいたとか……」
「その者ならすでにいませんよ。学園の生徒です。怪しい者ではありません」
「ならよかったですわね、ユリシー様」
エリザベスがにこりと笑う。その場を収めようとしている笑顔だった。
ハロルドのド正論はエリザベスの背後に控える全員が思っていることだ。その中には以前ユリシー嬢を糾弾していた令嬢たちもいる。ユリシー嬢に向けられる視線は焦げつくように鋭かった。
それを、自分がユリシー嬢に寄り添うことで、庇おうとしているのだ。
……天使か……。
「はい、ありがとうございます。私ったら勘違いしてしまって……大事ないのであれば、帰らせていただきますね。皆様、ごきげんよう」
「ごきげんよう、ユリシー嬢」
エリザベスに励まされる形でユリシー嬢はその場を後にした。さすがにこの場に留まりつづける勇気はないらしい。
怖い思いをして震えていたわりにはしっかりとした足取りで、誰の手も借りずに一人ユリシー嬢は去っていった。その背後にひそひそと聞こえよがしな囁きが飛び交う。
はしたない、狂言だと指摘しあう令嬢たちを遮ったのは、やはりエリザベスで。
「まぁ、そんなことを言うものではありませんわ。ユリシー様は社交界の経験もなく、知る人が少ないのです。知らぬ方に近づかれたら不安に思うのは当然です」
その鶴の一声でおしゃべりはぴたりとやんだ。
声色は柔らかく同情に溢れていて、それでいてはっきりと明確な言葉。最も怒るべき人物の諫言に、それ以上ユリシー嬢を責められる者はいなかった。
エリザベスがバランスをとったのは明らかだ。オレは黙り、ハロルドは滅多にない厳しさを見せ、周囲は苛立っている。エリザベスが味方になってやらなければユリシー嬢への不快感は上昇しつづけるだろう。
「ほら、わたくしたちも帰りましょう。皆様のお供の方が心配なさいますわよ」
促されて令嬢たちは少しずつ動きはじめた。何人かは荷物を取りに部屋に戻る者もある。
でも、本当にエリザベスはいいのだろうか。
ちらりと視線を投げると、エリザベスもまたこちらを見ていた。ばっちりと目が合って慌てて逸らそうとするオレの横をエリザベスが一礼して通りすぎていく。
「わたくしは気にしておりませんわ――ヴィンス殿下」
すれ違う瞬間、ひそりと囁かれた愛称に、オレのハートは鷲づかまれたまま握り潰されそうになった。
ほ、惚れてまうやろ……! あ、もう惚れてた……。