桜の国チェリンと七聖剣【四十二】
脱衣所の扉を開けるとそこには――まさに秘湯と呼ぶにふさわしい温泉があった。
透明な水面から立ち昇る白い蒸気。
夕焼けに照らされた鮮やかな桜吹雪。
大自然の風情溢れる岩組の露天風呂。
まるで異世界に足を踏み入れたような、幻想的な光景が広がっている。
「こ、これは凄いですね!」
まさかこんな立派な温泉があるとは、夢にも思っていなかった。
「ばらららら、そうじゃろうそうじゃろう! ここは世界で一番の湯屋なんじゃ!」
バッカスさんは上機嫌に笑い、洗い場の丸椅子へ腰を下ろす。
「――ほれ、小僧。さっさと体を洗って、気持ちのいい温泉を存分に堪能しようではないか!」
「はい!」
それから俺たちはシャワーでサッと体を流し、頭を洗っていく。
シャンプーとボディソープは洗い場にワンセットずつ備わっており、二つともシンプルな石鹸のかおりがした。
(……考えてみれば、これはいいチャンスだな)
バッカスさんとは、一度ちゃんと話したいと思っていた。
こうして二人っきりになれる機会は、そうあるものじゃない。
(ゼオンは『あまり深入りするな』と言っていたけど……)
やっぱり俺には、彼が悪い人には見えない。
(ローズの遠いお爺さんということもあるし……)
それに何より、一度剣を交えたときも全く『嫌な感じ』がしなかったのだ。
ただただ純粋。
どこまでも真っ直ぐな剣術への想いが、斬撃を通してしっかりと伝わってきた。
(……よし、ちょっと聞いてみることにしよう)
俺はゴホンと咳払いをして、それとなく話を切り出すことにした。
「――バッカスさん。あの……少し聞きたいことがあるんですが、いいでしょうか?」
「どうした、そんなに改まって……? 儂とお前さんは既に一度斬り結んだ仲じゃ、なんでも聞くがよい」
「ありがとうございます。では早速――あなたは一億年ボタンについて、どこまで知っているんですか?」
「…………あぁ、その話か……」
彼は体を洗う手を止め、ゆっくりと口を開いた。
「巻き込まれたのか、巻き込んだのか……。どちらかは知らんが、小僧は『関係者』のようじゃからのぅ……。――よし。儂が知っておることでよければ、全て教えてやろう」
「あ、ありがとうございます!」
バッカスさんは体をこちらに向け、水気を吸った髭を揉む。
「小僧も知っての通り、一億年ボタンは時の仙人によって生み出された『呪いのボタン』じゃ。それを押した者は一億年もの間、時の世界へ囚われてしまう」
基本的なことを説明した彼は、さらに話を続けていく。
「人間の心は『一億年の孤独』に耐えられるほど、丈夫にはできておらん。長くて千年、短ければ一年と経たんうちに自害を選んでしまう。そうなってしまう前に――心が壊れてしまう前にあの世界を斬り裂き、元の世界へ帰還せねばならんのじゃ」
「そ、そうなんですか……?」
そんな話は初めて聞いた。
「うむ。小僧のように一億年を乗り切った話なぞ――ましてやあの一億年ボタンを連打した話なぞ、これまで一度として耳にしたことがない。お前さんは『例外の中の例外』じゃ」
そう言えば……。
レイア先生に初めて『十数億年もの間、ただ素振りしていたこと』を打ち明けたとき、彼女は心の底から驚いていた。
「それに一億年ボタンは、そう何度もホイホイと作り出せるものではない。なんらかの厳しい条件をクリアして、ようやく一個この世に生み出せるようじゃ。そのため時の仙人は、ボタンを押させる者について『選別』を行っておる」
「選別、ですか?」
「あぁ、そうじゃ。奴は世界中を飛び回り、ずば抜けた才能を持つ剣士を探しておる。そしてそのお眼鏡にかなった剣士にのみ、一億年ボタンの存在をちらつかせるんじゃ」
「……時の仙人の目的は、いったいなんなんでしょうか?」
わざわざ世界中を飛び回り、希少な一億年ボタンを配って……奴になんのメリットがあるんだろうか?
そんな風に俺が率直な疑問を口にすれば、
「時の仙人の目的はただ一つ――『破壊の子』を探すことじゃよ」
バッカスさんは重々しくそう言って、鋭い視線をこちらへ向けたのだった。