355.夜空のような
「――方針だけ意見したい」
使用人二号が去ると、ロジーが言った。
「彼も逃げろと言っていたが、私は元より逃げる選択肢も考えていた。
この実験を破棄し、魔法陣を壊し、異界との繋がりを断つ。
まあ、言うまでもなく、実験は失敗だがね」
むしろそれが正しい、とクノンは思った。
心情的には、今すぐ逃げたいくらいだ。
それくらい状況が悪いと思う。
「もうじき、丸二日になる。
これだけ長い時間何も来ないのは、私が知る限りでは存在しない。
きっと大物が来る。
当然、私の知らない類のモノである可能性もある」
だから、とロジーは続けた。
「もし私が知らないモノが来たら、即実験は終了だ。逃げよう」
――英断だ。
すごいな、とクノンは思った。
あと一日で実験が完了するというこのタイミングで、放棄を選ぶのか。
もし自分の実験だったら、棄てられるだろうか。
いや、違う。
どれだけ惜しくても棄てねばならないのだ。
仲間の命を危険に晒すほどの実験か。
そう考えれば、自ずと答えは出る。
「だが、あくまでも私の意見だ。
シロト、リーダーは君だ。決めなさい」
「先生が知らないモノなら即撤退。賛成します。私も同じ意見です」
シロトの返答には、微塵も迷いがなかった。
神花という、二度と手に入らないような貴重な素材も投入しているのに。
彼女の野望の成就まで、あと一歩なのに。
それなのに。
「この状況は非常にリスクが高いと考えます。理想を言うなら、今すぐ撤退するべきだとも思います。
相手を確認して、対処法がわかるモノであれば、全力で対応する。
それ以外なら離脱して終了。
異論はありません。
ここで魔人の腕開発が失敗しても、次の機会に回します。
――アイオンさん、構いませんか?」
問われたアイオンは「いいよ」と答え。
「――クノンは?」
「それでいいと思います」
自分や仲間の危険より、安全を優先する。
そういう話だ。
異界から来たモノを確認してから。
それだって、悪あがきだけの問題ではないだろう。
次の実験に活かすため。
たとえ異界のモノの姿を見ただけだとしても。
それは情報として残せるのだから。
「では方針はそれでいく。
逃げる準備をしておいてくれ。先生の第一声で行動開始だ」
ロジーが見たことがあれば、残る。
そうじゃなければ逃げる。
クノンは少しほっとした。
「火法円環」のようなモノが。
あるいは、あれを超えるようなモノが来たら。
恐らく、自分が一番足手まといになる。
それが原因で誰かが傷ついたり死んだりしたら、立ち直れる気がしない。
逃げるという選択肢がある。
戦い方がわからない相手だったら逃げる。
これ以上ないほどありがたい方針だと思った。
――この時、クノンは考えもしなかった。
もし逃げられなかったら?
ロジーが「逃げろ」と言っても、逃げられない状況になっていたら?
これから起こるのは、そういう類の危険だった。
「――来た!」
かろうじて、丸二日ではなく。
一日と八割くらいだろうか。
シロトの声に合わせて、三人が立ち上がる。
逃げる覚悟を決めて。
ロジーの第一声によっては、干渉領域から出る。
端っこに立ち。
たった一歩で出られるよう、スタンバイしておく。
「う……」
クノンは呻いた。
地下室に、強大な魔力が満ちた。
とてつもなく強く、とてつもなく大きい。
これまで感じてきた何者よりも。
もはや人智を超えているんじゃないか、とさえ思う。
いや、人智は超えているのか。
異界の生物だから。
そして、冷たい。
深海のように。
もしかしたら。
古の魔王が放つ魔力が、こんな感じだったかもしれない。
そんなことを考えるくらい、この世のモノとは思えない印象を覚えた。
「……?」
なんだ?
中央にある水槽の上に、染みができていた。
深い藍色で。
星屑のような光の粒が瞬き。
少しずつ大きくなって――
「撤退!」
謎の現象をじっと見ていたクノンは、弾かれたように我に返った。
撤退。
つまり、あれは、ロジーが見たことのない生物。
「火法円環」より危険な――
「あっ」
夜空みたいな染みが、広がった。
爆発したかのように、一気に。
何本も走ったそれは、まるで触手だ。
とんでもない速度で伸びて、細く長く伸びて。
障害物に当たるまで伸びて。
びたびた、と障壁や床、天井に阻まれて、止まった。
――この生物はなんだ。
いや、それより。
なぜ誰も動かない?
クノンを始め、三人とも、魅入られたように動かない。
夜空の染みのようなモノを凝視して。
固まっている。
目を逸らせないでいる。
足が。
身体が。
止まった。
動かない。
いや。
これは、違う。
魅入られているとか、凝視しているとか。
そういう問題じゃなくて。
「――顔を庇え!!」
ロジーが力強く叫ぶと同時に。
ガン!
引っ張られた。
内側に。
足が浮くほどの引力が働き。
こちらと向こうを隔てる、見えない障壁に叩きつけられた。
「…っ!」
クノンは両腕で顔を庇ったが、左肩を強かにぶつけてしまった。
かなり痛い。
たぶん、骨に異常がある。
それでも障壁から離れられない。
壁に阻まれても。
それでも、まだ、引っ張られている。
引力。
物理は通さないこの魔法陣において、しかし防御ができない現象。
熱は「火法円環」で経験した。
だったら冷気も通過するだろう。
だが、引力。
これは予想もしていなかった。
恐らく、視界も引き込んでいるのだと思う。
魔術が拘わるなら、そんな現象もありそうだ。
薄い薄い障壁の向こうに。
すぐそこに。
夜空の触手が張り付いている。
めき、と音がした。
魔法陣が軋む音だ。
クノンたちのみならず、この地下室全てを引っ張っているのだろう。
――たった一歩の離脱さえ許さなかった相手。
夜空に吸い込まれる。