記憶の真相と私
目が覚めた。隣を見ると、お姉ちゃんが私のことをじっと見ていた。その様子はまるで観察するかのようだった。私はそれを特に不快に思うことなう、挨拶をする。
「お姉ちゃん、おはよう」
「……あなたは、どこまで覚えてる?」
「全部。昼の私が耐えきれずに壊れてしまったことも含めて、全部」
私は即答した。何を今更、そんなことを聞くのだろう。レイムが全部話を通してくれているものだと思っていた。いや、それとも、今のは私を試したのだろうか。間違わないために、反応を探ったのだろうか。
私の答えに、アリスは苦い顔をした。
「……その、ごめんなさい、澪」
「何が」
「あのとき、私がちゃんと止めていればよかったの。そうしていれば、私は……」
アリスが、あの忌まわしい一週間の原因となった瞬間のことを言っているということは簡単に想像できた。
「いいよ。それよりも、あれから東野、御陵臣、宗、キア、美沙お姉ちゃんはどうなった?」
あの時、無間地獄での戦闘を思い出す。
私は御陵臣を殺す気で殴った。最後の最後でブレーキがかかり、気絶させるにとどまった。けれど、殺そうしたことは事実。彼を無力化したあと、私は自らがしたことの罪の深さに押しつぶされそうになった。そして、同時にあの一週間の記憶も、私を苦しめていた。罪悪感と被虐の記憶が対立し、身がねじれるような気持ちになった。
そして、私は気付いたのだ。
今のままでは、弱い私には耐えられないのではないか? と。このまま弱い私に……昼間の私になれば、きっと記憶や罪悪感に飲み込まれて壊れてしまうだろう。なんとかしないと、と思っていたところで、本で読んだあることを思い出した。
人の心は、辛すぎる記憶を忘れて難を逃れることがあるということを。ありえないこととは思わなかった。実際、私は苦痛の多くを忘れていたのだから。
私はそばまで来たレイムに、希望を託した。
『私は、狂うか忘れるかなら、忘れることを選ぶ。だからレイム、全てを忘れた私をよろしく』と。
実際に忘れていなければどうなっていたかは、わからない。だが、案の定私はそれを最後に意識を失い、昼の間はすべてを忘れ、夜となった今、ここにいる。
「……宗、って忍者っぽい人は死んだそうよ」
私は身が凍るような思いをした。私が、あのとき攻撃したから、だろうか。
「私のせい?」
恐る恐る聞いてみたら、アリスは首を振った。
「捕まえてたんだけどね、縄を自力で解いて暴れたから、慧音がね」
私は、どんな反応をすればよいのだろう。少し、わからなくなった。ケイネが、人を殺した。それも、仇のうちの一人を。
「復讐……だったの?」
「それは、わからないわ」
アリスは悲しそうな表情だった。人の死を見たことがないのだろうか。それとも、ケイネが復讐に身を任せてしまったのが悲しいのだろうか。
そう疑問に思っても、私には聞く勇気がなかった。
「御陵臣だけど……みんなの取り決めで、あなたには言わないことにしたの」
「私が、子供だから?」
アリスは首を振った。
「あなたが大切だからよ」
釈然としないものはもちろんあるけれど、アリスがそう言うなら、それでいいか。この口ぶりなら、きっともう彼は私の前に現れないのだろうから。
「キアは? 東野は?」
「二人は神社よ。東野はニコニコ笑顔で、キアは怯えながら神社の手伝いやってるわ」
キア……どうしよう。無間地獄での私は少し変だったからか、勢いでキアを奴隷にしてしまった。彼女、怯えてるのか。楽にしてあげるべきなのかな。
「美沙って子は……今のところ、永遠亭にいるわ」
よかった。私は胸を撫で下ろした。無事だったんだ。美沙お姉ちゃんは、アリスお姉ちゃんと同じくらい大切な人だ。私が戦いを決意したのも、美沙お姉ちゃんのためなのだから。
「……お姉ちゃん、なのよね」
「え?」
「珍しい苗字だったから、すぐに気付いたわ。本当のお姉ちゃん、いたのね」
その顔は少しだけ、残念そうだった。同時に不安そうであった。まさか、絶縁を言い渡されると思っているのだろうか? そんなことはないのに。むしろ、私のほうこそ……。こんな汚れた私が、アリスお姉ちゃんのそばにいていいのか、と不安なくらいなのに。
「お姉ちゃんだって、本当のお姉ちゃんだよ」
私は迷わずそう言った。
「……ありがとう」
アリスは私に微笑みかけてくれた。その笑顔は……私に、罪悪感をもたらした。花のような笑顔は、嬉しい。けれど、その嬉しいを、素直に感じていいものかと思うのだ。私はもっと不幸に――もっと言えば、苦しむべきではないかと思ってしまう。それは、ひとえに私は洗脳してしまった彼女が原因だった。
「ねえ、お姉ちゃん。私ね、キアを魅力したんだ。東野も。……私、最低だ」
キアに至っては、完全に虐待する心づもりだった。夢でしていたような残酷なことを、そのままキアにするつもりだったのだ。
「……そうするしか、なかったんでしょ?」
「東野はそうだった。でも、キアは違う」
「どう違うのかしら」
「……私は……」
つい、いい渋ってしまう。アリスの目を見たまま、何も言えなくなってしまう。けれど、言わなければ赦しを乞うことすらできない。私は、教会で神父様に懺悔をしているような気持ちで、アリスお姉ちゃんにすべてを打ち明けた。
「私は、復讐がしたかったから」
「……」
アリスは何も言わなかった。怒っているのだろうか。それすらもわからないけれど、私は続けた。
「だから、意識を残した。彼女の悲鳴が聞きたくて。彼女が私にしたように、私も彼女に恐怖を植え付けたかった」
私はそれから目を閉じた。怒られるなら、怒られるつもりだった。文句も言い訳も、一切するつもりがなかった。
「今は、どうなの?」
「まだ、御陵臣やキアに対する恐怖は消えないし、復讐したいって気持ちも消えない。……でも、お姉ちゃんが言うなら、全部忘れるよ」
ただでさえ、昼の私は全てを忘れているのだ。復讐心を忘れるなんて簡単な……ことだ。きっと。
「そんなこと、言えるわけがないでしょう? 復讐くらい、したかったらいくらでもしてもいいのよ?」
私は少しだけ悲しい気持ちになる。止めて欲しかったのに。復讐なんて連鎖を繰り返すだけ。復讐なんてやめて、幸せに暮らしましょ? そう言って欲しかったのに。
「……復讐って、いいことだと思う?」
「思わないわ」
「だったら」
「それでも、あなたは復讐してもいいと思うわ」
「どうして?」
私はアリスが何を考えているか知りたかった。どんなことを考えているのだろう。
「あなたがいい子になろうとして努力して、復讐を忘れて、憎しみも忘れようとするのは、すごいことよ。でも、あなたがされたことは……正直、私が不老不死だったとしても、耐える自信はないわ。それだけ、心の負担も大きいわ。やり返さないと気が済まない。心が晴れない。そんなことだって、あるでしょう」
違う。私の心はちっとも晴れなかった。そんなことを言ってほしいんじゃない。優しい言葉をかけてもらえて嬉しいのには変わらないけど、違うんだ。
「それでも、ひとつだけワガママを言わせてもらうなら……。あなたには、優しいあなたのままでいて欲しい、かな」
でも、やっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんだった。復讐を許容するようなことを言ってはいるけど、心の底では、私がいい子であってほしいと思ってくれている。
「復讐するなってこと?」
「……ありていに言えば、ね」
ゆっくりと、私は頷いた。嬉しいとは別の次元で、ホッとした。
復讐なんてするものじゃない。そう思っていたのはなにより、私だったのだ。
「お姉ちゃん、これからもよろしくね。ちょっと変になっちゃったけど、私は、私だから」
「ええ」
私はふと思いついてベッドから降りて、靴を履いた。
「どうしたの?」
「キアにちょっと話をしてこようかな、って思って。謝らなきゃ」
私は寝室から出ながらそう言った。
「でももう夜よ?」
「だから行くの。昼の私はキアのことすら忘れてるから」
それに、自由に移動しようと思うのも今くらいだし。
「……わかった。私も行くわ」
「でもアリス、寝てなくていいの?」
「もうあなたを失いたくないの。もう二度と、あなたをあんな目に遭わせやしないわ」
アリスはそう言って無理についてきた。嬉しいし、安心するのだけど、少しだけ心配だった。
もしかしてアリスは、私が攫われたことに引け目を感じているのだろうか。私があんな苦痛を味わったのは自分のせいだと、本気で後悔しているのだろうか。
「……行こ、お姉ちゃん」
その後悔を私は、残念に思った。私は、納得して死地に飛び込んだ。結果は予想と許容量を少しだけ超えていたけれど、それでもあの時御陵臣のところへ向かってノーマを助けようとしたことは後悔していない。だから、むしろ私は、もっと別の感情を、アリスお姉ちゃんに持ってほしかった。
そうもっともらしいことを頭で考えていても、それでも感情では、そばに家族がいることに安堵するのだった。