知らない家族と私
私、カグヤ、エイリンの三人で竹林を歩いていると、十五歳くらいの女の人と出会った。
その人は周りをキョロキョロと不安そうな顔で観察していて、今にも泣き出しそうだった。
服装はついさっきまで布団に入っていたんではないかと思えるような、パジャマ姿だった。容姿端麗だし、こんなところにいたら攫われてしまうかもしれない。
私はゆっくりと、その女の人に近づいた。
「ひ、人? ……女の子?」
「私、ミオ・マーガトロイド。あなたは?」
私はその人から距離をとって聞いた。
「わ、私は、星空美沙。は、初めまして」
私の方へと歩きながら、美沙という女性は答えた。
「星空……」
私は後ろの二人を見る。珍しい名前に驚いているようだったが、それだけ。私の旧姓と同じだということは、悟られなかった。
それも、そうか。カグヤとエイリンと出会ったころには、もうアリスの家族だったから。
……アリス。
「今、ここは物騒。とにかく、一人になってはいけない。私たちについてきて。悪いようにはしない」
そう言って、私は美沙の手をつかんで引っ張る。
「え、ちょっ」
「カグヤ、エイリン、この人、永遠亭に連れて行っていい?」
二人は頷いた。
「ま、友達の頼みだし……その子、面白そうね。さ、行きましょうか」
カグヤは、そう言うと歩き出した。私は美沙を引っ張ったまま、カグヤについていく。
「ね、ねえ、ここどこ? ちょっと、説明してよ!」
「黙ってついてきて。大丈夫、ちゃんと説明してあげる」
私がそう言うと、信じてくれたのか美沙はそれ以上話すのをやめた。
永遠亭につくと、レイセンが出迎えてくれた。
「おかえりなさい、みなさん……?
一人増えているようですが」
戸惑ったような声を上げたレイセンに、カグヤは一言。
「ま、とりあえずお客さん出迎える準備して」
はい、と返事をすると、レイセンは走って永遠亭の奥へと向かった。
それからしばらくして、美沙は客間へと通された。
お茶に、お茶がし。広いテーブルに、私とカグヤ、美沙の三人が座っていた。エイリンとレイセンは外で見張りをしている。
「……澪ちゃんと、輝夜さん? 説明してくれる……んですよね?」
美沙は冷静になったからか、丁寧語になっていた。
「ここは幻想郷、という場所よ。妖怪悪魔、神様から魑魅魍魎までなんでもいる、不思議な世界」
衝撃を受けたような顔を、美沙はした。
「……な、なんで私そんなところに」
「忘れられたか、迷い込んだかのどちらか」
私はここの人に教えてもらったことを、そのまま口にする。
「迷い込んだ? ……そんな、なんでこんなことに……。私が何をしたって言うのよ!」
涙声になって、美沙が言った。前の世界が楽しくて楽しくて仕方なかったのだろう。だから、違う世界に来たことがこんなにも悲しいのだろう。羨ましいな。
「……大丈夫だよ」
「大丈夫なもんか! お父さん自殺しちゃうし、お母さんはそのせいで病院通い詰めになっちゃったし、しかもその上……っ!」
お父さん……。
私の想像が正しければ、私のお父さんと美沙のお父さんは同一人物。それがどういう意味を持っているかなんてこと、私がわからないわけがない。
「その上、お父さん、隠し子いたんだってさ! なによそれ! わけわかんない! しかも違う世界に飛ばされるし! なんで私ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないのよ!」
だん、と美沙は机を叩いてさめざめと泣いた。
「……美沙、辛いのはわかるわ。でも、悲観することなんてないわ。もしかしたら、帰れるかもしれないから」
見かねたカグヤが、うっとおしそうにそんなことを言った。
「……ほんと?」
ゆっくりと、美沙が顔を上げた。
「でも、特殊な力がなければの話」
私は注釈をつけるように言い足した。
「だ、大丈夫よ! 私ごく普通の女子高生だし? 問題なく帰れるって!」
カラ元気だろうか、美沙は無理に明るく笑った。きっと、クラスでもムードメーカーで、みんなの人気者なんだろうな。
「私も、そう思ってた。だから、期待はしない方がいいかもしれない」
その笑顔は、私の言葉で固まった。
「……あなたも、違う世界から?」
「外の世界から忘れられてここに来た、外来人」
「あなたみたいな可愛い子が、忘れられて?」
私は頷いた。
「……今は、立派に幻想郷の人げ……幻想郷の住人になろうとしてる」
自分が人間でないことを思い出し、言い直す。
「偉いね。私には、とてもできない覚悟だと思う」
「そう。取り敢えず、今は一人で外に出てはダメ」
私は取り直すように言った。不思議そうに、美沙は首を傾げた。
「え、なんで? コンビニ行く時とかどうするの?」
「コンビニなんてものはないわ」
カグヤの言葉に、美沙はぎょっとした。
「それに、今は幻想郷から外来人を解放しようとしてる解放団という集団がいるから、外は危ない」
というかそもそも、なんで見知らぬ土地で好き勝手に行動することが前提で考えるのだろう。
「解放? その人達と一緒にいたら、帰れるの!?」
私は首を振った。
「名前ばかりの集団。今のところ、悪逆無道なことしかしていない」
「なによ悪逆無道なことって」
私が口を開こうとしたとき、カグヤが手で私を制した。
「いくらなんでも話しすぎよ、澪。これ以上は辛いでしょ? 美沙、後で教えてあげるから、今は我慢して」
「えーなんでー?」
ひくりと、カグヤのこめかみが引きつるのを私は見逃さなかった。
「だから、後でって言ってるでしょ」
「でも、解放団がいい人達かもしれないでしょー?」
私はすくりと立ち上がった。
「一週間痛めつけられてもそう思えるのなら、解放団へ行くといい。カグヤ、少し、席を外す」
「ええ。一人になっちゃダメよ」
私は頷いて、客間を出た。
扉を閉めて、うずくまる。
……いい人? あいつらが? 違う、ちがう、ちがう。あいつらは悪い人達。あんなことを平然とできる人間を、いい人だなんて。
私は叫びたくなるのを必死でこらえた。じっと、体の中から激情が過ぎ去るのを待つ。
「……ねえカグヤ、あの子なんなの?」
襖の向こうからそんな声が聞こえた。私は思わず、振り返って部屋の方を見る。二人の姿は見えない。だから、二人がどんな表情をしているか知りたかった。
「いい子よ、すごくね」
「でも、表情変わらないし、変に頭良さそうだし、気味悪い」
私は思わず息を呑んだ。なんで、嫌われているのだろう。
「凄く純真な子よ。見かけはそう見えないけどね。それから、私の友達を悪く言わないで頂戴」
「あ、ご、ごめん」
意外と、美沙は素直に謝った。
「……でも、なんで解放団が悪い人だなんて思ってるの、あの子?」
「……さあ、なんでか聞いてみなさい。そうしたら嫌われるでしょうけど。
……まあ、他にも子どもがいる前じゃ聞きにくいこともあるでしょうし、あの子がいない間なら、答えられる質問なら答えるわ」
「じゃあ、輝夜、彼氏いる?」
いくらふすま越しとはいえ、カグヤが固まるのを感じた。戸惑ってるのが手に取るようにわかる。
「い、いきなり? いないわ」
「え? 超可愛いのに」
「色恋沙汰にはもううんざりよ。でも、他人の恋路は見てるだけで楽しいわ。あなたはどうなの?」
カグヤは楽しそうに言った。美沙は朗らかに笑うと、いないと言った。
「ほら、いい人現れなくてさ〜。なんていうか、パッとしない? よくわかんないけど、付き合おうかなって思わないんだよね〜」
「ま、気持ちはわからないでもないわ」
言葉尻はそっけなかったけれど、その声は楽しそうだった。恋愛話に花を咲かせられる、というのは素晴らしいことなのだと私は学んだ。
恋愛、か。もう私には無縁の事かもしれない。
「だよね〜。そうだ、話し変わるけど、澪ちゃんって何があったの?」
「なにが、とは?」
カグヤの声が少し低くなった。
「ほら、さっき出てくときなんか暗かったから。……もしかして、解放団になんかされたの?」
「詳しくは、言えないわ。けど、彼らにされたことが原因で、今あの子一人で外に出ることすらままならないわ」
へぇ、と美沙は感心したような声を上げた。
「あの年で、ねぇ。……私、悪いこと言っちゃったね」
「反省してたのね」
「そりゃまぁ。でさ、あの子って幻想郷から帰れないの?」
カグヤは頷いたのだろう、美沙が息を呑むのが聞こえた。
「な、なんで? あの子、あんなにちっちゃいのに」
「特殊な力を持ってるから。あなたも、もしものときの覚悟はしておいたほうがいいわよ」
「……わ、わかったわ」
それから、しばらく無言が続いた。頃合いを見計らい、私は部屋に入った。
「あら、おかえり澪」
「ただいま」
私は美沙を見た。すると彼女は、私から目を逸らした。
「……カグヤ、美沙の事だけど」
私は単刀直入に、話を切り出す。
「どうしたのかしら」
「少し、二人きりで話がしたい」
カグヤはいい顔をしなかった。
「なぜかしら」
「聞きたいことがある」
私が言うと、カグヤは立ち上がった。
「……わかったわ。なにかあったら、叫びなさい。絶対よ」
私が頷くと、カグヤは部屋の外に出て、襖を閉めた。多分、話を聞いているんだろうけど別にいい。
私は美沙が座っている反対側に座った。
「あなたのお父さんについて聞かせてほしい」
「……は?」
素っ頓狂な声を、美沙はあげた。
「優しかった?」
「……まあ、それなりには。普通よ、普通」
普通、か。普通の優しさってどんなものなのだろうか。
「どれくらいの頻度で帰って来た?」
「毎日に決まってるでしょ? 何言ってんの?」
毎日。羨ましいなぁ。
「どんな仕事、してたの?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「興味があって」
私のお父さんって、どんな人なんだろう。それを、知りたくて。
「興味って……。なんで? ごく普通のサラリーマンよ? 収入も普通、性格も普通の人。変なことっていうかムカつくことって言えば、浮気してて隠し子までいたってことだけ」
怒気を孕んだその言い方に、私は少し聞いてみたくなった。
「その、隠し子について、どう思う?」
「んー? 私よりいい生活してんだろうなぁ〜って思うとちょっとイラっとするけど、まあ、その子に罪はないしね。仲良くはなれそうにないけど」
私は、この人と仲良くなれそうな気がする。
「で? こっちも質問していい?」
私は頷いた。
嬉々とした表情で、美沙は聞いて来る。
「ねえ、あなたってここに来る前どんなことしてたの?」
「普通。朝起きて朝食を採って、本を読むか辞書を開くかして、昼食まで時間を潰す。昼食を採ったら、買い物に行って夕食と次の日の食材を買いに……」
「いや、学校は?」
私は首を振った。
「友達とは合わないから」
「だから行ってないの? ……でも、お父さんとかなにも言わないの?」
「母は私が六歳の時に死んだ。お父さんにも滅多に会えなかったし、もう、死んだ」
美沙は痛ましそうな顔をして、顔を背けた。
「……ごめん」
「気にしないで」
「……でもさ、お父さんもお母さんもいなかったら、どうやって生活してたの?」
「全部自分でやってた」
「は?」
美沙は素っ頓狂な声をあげた。
「何かおかしい?」
「今いくつ?」
「二千百歳」
「は?」
「冗談」
さっきからずっと暗かったから笑って欲しかったのだけど、うけなかった。やっぱり家族には明るくいてほしい……と思うのが、普通だから。
「ホントは十歳」
「まだ十歳でしょ? お金は?」
「毎月お父さんが二百万くらい送ってくれていた」
美沙はぽかんとした顔をした。
「じゃ、じゃ好きに生活してたの?」
私は首を振った。
「毎日節約して、お金貯めてた」
「は? なんで?」
「お父さんがお金なくて帰って来てくれたとき、すぐにでも渡せるようにするために」
美沙はあぜんとした表情で、口を開けていた。
「いくらくらい貯まった?」
「さあ。わかんない。八千万くらいは貯まってたかも」
「それ、お父さんが金くれって言って帰ってきたら全部渡す気だったの?」
私は頷いた。
「……澪ちゃん、そのお父さんって、滅多に帰ってこないんだよね?」
「お母さんが死んでからは、一度も帰ってこなかった」
美沙は悲しそうな顔をして、うつむいた。
「ずっと帰りを待ってたの?」
「家族だから。もう、死んじゃったけど」
私も、この身体でなければお父さんのところにいるだろう。そう思うと少しだけ、自分の身体が恨めしくなった。
「……その、ごめん」
「気にしないで、お姉ちゃん」
思い切って、そんなことを言ってみた。
「……お姉ちゃん、か。妹ができたみたいで、こそばゆいね。別に、澪ちゃんみたいに可愛い子だったら嬉しいんだけど」
美沙お姉ちゃんは、意外とすんなり受け入れてくれた。
もっと踏み込んでみようかな。
「私の名前、ここで貰ったんだ」
「……確か、まーが……なんだっけ」
「マーガトロイド。こっちでできた家族の名前」
ふうん、と美沙お姉ちゃんは相槌をうった。
「日本にいたとき、どんな名前だったと思う?」
「さあ。わかんないわ。教えてくれる?」
……どうしよう。しらを切ろうかな。
でも、もしここで黙ってしまったら、もう二度と話すチャンスはやってこないだろう。これからずっと美沙お姉ちゃんを騙すことになる。そんなのは嫌だ。
「星空。私の名前は、星空澪……だった」
鳩が豆鉄砲をうたれたような、そんな表情を美沙お姉ちゃんはした。
「……うそ」
「お父さんの名前は、星空七星」
今度はピシリと、石のように固まった。
「……あ、あなた、が? 私の、妹?」
「おそらく」
怒られるだろうか。嫌われるだろうか。
「……ご、ごめん」
「どうして謝るの?」
なぜか美沙お姉ちゃんは、頭を机に突っ伏するように低く下げて、私に謝罪の言葉を言う。
「その、私のお父さんのせいで、苦労させちゃって」
「大丈夫。もう、お父さんを待つ必要はないんだから」
ここにいる。この世界の地獄に。
「ど、どうして? お父さんは、自殺……しちゃったし」
それを言うときの美沙お姉ちゃんの顔を見ると、本当にお父さんのことが好きだったんだな、ということがわかる。
「生き返らせるから。何年たっても、必ず」
「……は?」
美沙お姉ちゃんの気持ちを想像するなら、きっと疑問の連続でいっぱいいっぱいなんだろうな。私と違って、元の世界との繋がりが多いからもっと混乱するのだろう。
「私は何万年、何億年と生きていられる。だから、いつか、お父さんを生き返らせる。その時は、私と、美沙お姉ちゃんと、お父さんと、アリスお姉ちゃんとで一緒に暮らそう?」
美沙お姉ちゃんは微妙な顔をした。
「い、いや、待ってよ。アリスお姉ちゃんって誰? というか、そりゃお父さんが死んで悲しいのは悲しいけど……もう一度暮らそうかって言われると……正直、微妙。あなたみたいなちっちゃい子を放っとくような最低な奴だってわかったし」
「お父さんは最低なんかじゃない!」
私は思わず叫んでいた。美沙お姉ちゃんは驚いて目をパチクさせた。
「……あなたでも表情変わるんだ」
「私、ちゃんと人らしい感情持ってるよ」
「そう。でも、お父さんが最低なのは変わらないよ」
その、まるで侮蔑するかのような言い方に、私はつい苛立ってしまう。
「なんでそんな言い方するの? 大切なお父さんでしょ?」
「いくら大切だろうと隠し子放ったらかしで金だけ渡してりゃいいやっていういい加減なことを許すわけにはいかない」
鋭い言い方だった。完全な否定も含まれているかのような、強い口調。
「……私にとっては、どんな人でも大切なお父さんだよ」
「私にとっても、よ。でも、それとこれとは話が別よ」
どうして? どうしてこの人はこんなことを言えるんだろう。
「……澪、あなたは知らないんだろうけど、愛することと、全肯定は違うわ」
「……」
私は何も言えなかった。
「愛してるから何をしていても認めるんじゃない。愛していたからこそ、許せないことだってある」
「……私は、間違ってたの?」
本気で、愛することとは認めることだと思っていた。相手の言うことを鵜呑みにして、全部肯定して、そうすることが愛することだと信じていた。
「あなたは、まだまだ子供よ。これから、いくらでも変わっていける。ま、子供の私が言うのも変な話だけどね」
そう言って美沙お姉ちゃんはくすりと笑った。
「……ありがとう、教えてくれて」
愛することって、なんだろう。私はそんなことを疑問に思い始めていた。お父さんを失って、アリスと家族になって、美沙お姉ちゃんとも家族になって、それでようやく私は、自分の中にある愛に、疑問を持つことができたのだ。遅すぎるかな。
「気にしないで、妹だもの」
「でも、血は繋がってないよ?」
間違いない。私が、妾の子。そして母は浮気していた。私はどこの誰とも知れぬ子供だ。
「……ううん、それでも、妹!」
美沙お姉ちゃんは、そう言って笑いかけてくれた。
ありがとう、とお礼を言うと、私は立ち上がってカグヤが出て行ったふすまを開けた。
誰もいなかった。
「カグヤ?」
「ん? もういいのかしら」
廊下の奥からカグヤがひょっこりと顔を出した。
「うん」
「そう」
カグヤは頷くと私の方へ来た。部屋に入ると、テーブルにすわる。私は部屋の出入り口付近で立っている。
「話してどうだった?
カグヤが美沙お姉ちゃんに笑いかけた。
「すっごくいい子ね、私にはもったいないくらいの妹よ」
「……妹?」
そういえば、事情を説明していなかった。
「カグヤ、私の旧姓は、星空」
そう言うだけで、カグヤは察してくれた。
「……お姉ちゃんがいたの?」
「私も、この人に会うまで姉がいたなんて知らなかった」
「私もよ。まさかこんな妹がいたなんてね」
でも、私は美沙お姉ちゃんとも血が繋がっていない。私に血を分けた肉親は、もういないのだろうか。
……いなくても、いいか。私には、アリスも美沙お姉ちゃんもいるんだから。
「でさ、澪」
「なに、美沙お姉ちゃん」
美沙お姉ちゃんが、立ち上がって私の方へくる。
「まずはちょっと表情変えてみようよ」
「……私、いつも頑張ってるけど動かないの」
いつから、こんなふうになったのだったか。もう忘れてしまった。
「でも、さっきは表情変わったじゃん」
「そう? でも、私意図して変えたわけじゃない」
「普通は、何も考えなくても笑ったり泣いたりするもんだよ」
「私は、普通じゃなくていい」
「なんで?」
私が表情を無くしたのには、きっと理由と意味があるのだろう。
「表情なんて、変わっても愉しませるだけ。ない方が、早く終わる」
そう、御陵臣にされたことだって、きっと私の表情が変わらなかったからあんなものですんだのだ。もし普通の反応をしていたら、今頃私は……。
「何が早く終わるっていうの?」
「いろいろ。お姉ちゃんは、攫われたことってないの?」
美沙お姉ちゃんは絶句した。
「……あ、あるわけないでしょ」
そうなんだ。……いいなぁ。
「今一人でお外に出たら攫われて滅茶苦茶に痛めつけられるから、一人で出ちゃダメだよ」
私が言うと、美沙お姉ちゃんは神妙な面持ちで頷いた。なんだろう、お姉ちゃんから警戒心が足りないように思う。まさかと思って、私は聞いてみた。
「元の世界でも攫われたこと、ないの?」
「それこそありえないわ……」
今度は私が驚く番だった。
「お姉ちゃん、そんな綺麗な顔なのに、よく無事でいれたね」
「……あなたは、攫われたことあるの? 元の世界で? 日本で!?」
私は頷いた。
「うん。だから、お外は嫌い。怖い人がいっぱいいるから」
私が学校に行かなかったのは、攫われ続けたことも関係しているのではないかと今更思い始めた。
「……そ、そう。ね、ねえ輝夜。その、宿屋とか近くにないかしら」
色々と衝撃を受けていたらしいカグヤは、美沙お姉ちゃんの言葉ではっとした様子で普段どおりに戻った。
「宿なんてこの近くにないわ。しばらく澪と一緒に暮らしなさい」
「え、でも」
「せっかく会えた家族なんだから、一緒にいてあげて」
カグヤは美沙お姉ちゃんの方を見据えて言った。その表情は、妙に悲しそうだった。
「……わかったわ」
こうして、私は新しい家族と一緒に友達の家で暮らすことになった。
早くアリスに紹介したいのだけれど、カグヤとした『休む』という約束は守りたい。だから、もうしばらくだけ、休んでいよう。ゆっくりと、時の許す限り。
そう思ったとき、私の心が少しだけ軽くなったような気がした。