ふとした異常と私
気が付いたら、私は目が覚めていた。
体を起こし、部屋を見回す。私の隣にはすやすやと気持ち良さそうに眠るアリスがいた。もう少し周りを観察すると、窓が朝の日差しを取り込んでいた。どうも私は泣き疲れて眠ってしまったようだ。
アリスに視線を移す。白一色のパジャマに身を包んで眠っている。私の方を向いて、横に眠っている。
私がそばにいると言うのに、警戒心をかけらも抱いていないような、油断しきった顔だった。
この人が、私の大切な家族だ。
自分に強く言い聞かせる。
「……お姉ちゃん」
耳元で話しかけても、反応はない。もっと、耳元に。すんすんと、匂いを嗅ぐ。甘い匂いがする。香水だろうか? 昨日アリスは香水をしている雰囲気はなかったが……。
「お姉ちゃん」
少しだけ、肩を揺する。反応はない。露わになった首元が、私を惹きつける。
白い、すべすべとした感じの首。
つつつ、と指でなぞってみる。
「ひゃっ」
バッ、と飛び退くように離れた。声は上げた。けど、起きては……いないみたい。
「お姉ちゃん、朝だよ」
美しいアリス。キレイな首。
血もきっと、おいしい。
頭に浮かんだ思ってはいけないことを、振り払う。私は吸血鬼である以前にアリスの家族なのだ。食糧なんかじゃない、ぜったいに。
「……う、ううん」
アリスが、目をひくりと動かした。体が自発的に動いた。起きるのか。
「……お姉ちゃん」
「……ん、おはよう澪」
アリスは体を半ば起こし、私の方を見た。しなやかなその格好は、ともすれば淫靡なものに見えた。
「ん、おはようお姉ちゃん」
私はベッドから降りた。アリスから離れたかった。血が欲しかった。
「朝ご飯、どうしましょうか」
「私はいらないよ、お姉ちゃん」
アリスはしばらく黙っていた。私は寝室でアリスの方を見ずに話を続ける。
「いらないって、あなた栄養……。あ、ごめん」
「いいよ。自業自得だし」
私は静かに言った。アリスのことを見てはいけない。アリスはご飯じゃない。アリスは家族。アリスは大切な人。アリスは私の愛する家族。だから、だから、だからダメ。
「……澪、眠くない?」
「あまり」
そういえば、眠くない。なぜだろうか。吸血鬼は夜に起きるものだとばかり思っていたが。
「……そう。その、血が吸いたかったら私のことは気にせず、吸いに出かけても、いいわよ」
そんな言葉が出てくるあたり、アリスも人間ではないのだな、と実感する。
「血なんて吸いたくない。私はお姉ちゃんの妹で、バケモノじゃないんだから」
私は振り返ってアリスの方を見た。
体の奥底から湧き上がるような熱い気持ちを感じた。情欲にも近いこの感情を、家族に対して向けている自分が許せなくて、気持ち悪かった。
「お姉ちゃん、やっぱり私ダメだ。私、永遠亭行ってくる」
きっと、治してくれる。それができなくても、せめてこの熱い思いを消してくれる。
「……わかったわ。すぐ準備するから、ちょっとだけ待ってね?」
私は首を振った。
「一人がいい。一人で行く」
アリスの返事も聞かず、私は家を飛び出していた。
「待ちなさい! その森は!」
だから、その警告は聞こえなかった。
森の中を駆け抜ける。昨日は全く、何もわからなかったというのに、方向を見失わずに済んでいる。
もうアリスが走っても追いついてこれないような場所まで来ると、私は走るのをやめ、歩く。
「こどもが、こんなところになんのようだ?」
それからすぐに、森の茂みの右から、大きな鬼が出てきた。赤くて、角が二本生えている。
「ここがどこだか知らないようだな?」
左の方から、青い鬼が出てきた。一つ目の鬼で、角はなかった。
「……許してください」
まずいものにからまれた。化物が、こんなところにいるとは。アリスと歩いている時には何もなかったのに。……そうか、アリスがいたから、こいつらも出てこれなかったのか。
「だ、め、だ! 食べてやるぅっ!」
赤鬼が思い切り、腕を振るってきた。とっさに、腕を交差させて防御行動をとる。来るべき衝撃に備えて、目を閉じる。
腕に、衝撃。でも、それだけ。想像したような、両腕とも吹き飛んで十メートル吹き飛ばされる、とかいうことは全くなくて、ただ衝撃が来ただけだった。
「……え?」
「な、なんで、なんでなんともないんだよ!?」
私と、鬼。二人一緒に驚いた。
その次に私は鬼の腕を弾くようにして自分の腕を広げてみた。すると、面白いくらい簡単に、鬼の腕は弾かれる。
「……」
その一連の事象で、私は確信した。
私は強くなっている。人とは比べ物にならないくらい、強く。
「……」
私が鬼たちを見ると、彼らは怯えたように一歩下がった。
「ゆ、許してくれ」
「だめ。いただきます」
人間でないのなら、アリスでないなら。
私に攻撃してきた者全てが、食糧だ。
私は力の限り暴れた。存外、気分がよかった。
……うん、美味。
「……」
私は青鬼の右腕を千切って、食べられる大きさにする。一口サイズにすると、口に運んで咀嚼する。血の甘い匂いとなんともいえない至上の味が広がって、最高においしい。内臓を見る気にはなれないから、まだお腹は裂いてない。いつか残さず食べれるようになればいいけど。
「……ああ」
久しぶりに食事をとったような気分になって、思わず声が漏れた。
「へえ、素晴らしいじゃないか」
そんな声が、どこからともなく聞こえた。私は振り返る。誰もいない。周りを見回す。誰もいない。
「誰?」
私はそんなことを聞いていた。名乗りを上げて、襲ってきたら食べてやろう、そんな軽い気持ちだった。
「澪! 澪!」
返事を待っていると、後ろから声が聞こえた。アリスの声だ。こっちに向かってくる。食べるのをやめた私は、鬼二人の胴体しか残っていない死体を森の奥の方へと放った。茂みに消えて、見えなくなる。
「澪、だいじょ……」
「お姉ちゃん」
アリスはさすがに、固まっていた。血の海になった地面の中心で、血塗れになった私がいたのだ。驚くのも、無理はない。
「どうしたの、これ」
「鬼二人に襲われて、許してと言ってもやめてくれなかった。攻撃してきたから反撃したら、死んでしまった」
全く嘘はついていない。だけど、なぜが罪悪感が身を包んだ。
「そ、それで、その、えっと」
「ごめんなさい、お姉ちゃん。血が吸いたくなって、お腹も空いてたから……食べてしまった」
アリスはさらに驚いて、それから一度首を振ると、ゆっくりと私に近づいてきた。
「永遠亭にはまだ行くつもり?」
「うん、もちろん」
私は私のことを知る権利があるし義務がある。そう思う。
「わかったわ。ついていってもいい?」
さっきとは違い、私は頷いた。アリスに感じていた渇きを、私は感じなくなっていた。よかった。心の底から安堵する。
ただお腹が空いていただけだったんだ。だから、思考回路が変になっていた。そういうことだ、きっとそう。
「うん、一緒にいこ、お姉ちゃん。おてて、つないでいい?」
「ええ」
しっかりと手を繋ごうとして、自分の両手が血に濡れていることに気が付いた。
「あ、ごめんお姉ちゃん。手が汚れてるから繋げない」
そう私が言うと、少しだけ残念そうな顔をして、しかたないわね、と言った。
「じゃ、行きましょうか」
「うん」
さっき聞こえてきた不思議な声はなんだったのだろう。そんな疑問を私は持ったけれど、アリスには言わなかった。
私とアリスは永遠亭に向けて足を運んだ。まだ、アリスからの愛情は感じる。
鬼を食べても、私を家族だとみてくれる彼女の愛は、普通の愛では、ないかもしれない。私はそう感じ始めていた。
けど、心地いい。だから、まあいいか。そう思った。
それから何事もなく歩いて永遠亭に着く頃には、昼前になっていた。