新しい愛情と私
アリスの家に帰って、私とアリスは食事を取ることにした。
朝に採った食事と寸分違わぬ食事。
「いただきます」
「いただきます」
朝と違って、二人合わせて挨拶をする。僅かな違いだったが、より家族の繋がりのようなものを感じて、嬉しかった。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「ん?」
アリスがスープを口に含む前に、話しかける。
「レミリアのところには外来人、いたのかな」
「いたんじゃない? でもどうして?」
少しだけ言うのをためらう。
「レミリアが私を噛むとき、いただきます、って言ったから」
「……」
思った通り、アリスは快い表情をしなかった。
「……あなたはご飯になりに行ったのよ」
「うん、ごめんなさい……」
叱られてる。先生以外に叱られるなんて、初めての経験だった。
怖い、とは感じる。
「……次は、ないわよ。もし次自殺なんてしようものなら、縛り付けてでも改心させてやるからね」
「はい」
家族の縁を切る、なんて言われるかと思ったけど、そんなことはなかった。だから、嬉しい。叱ってもらえた。悪いことをしたら叱られる。当たり前のことなのに、嬉しかった。叱られて喜ぶなんて変だとは思ったが、それでも、悪い気はしなかった。
「レミリアのところの外来人が来た、っていうのはわかったけど、エイキのところにはいないのかな?」
アリスはスープを飲みながら、何かを考えている様子だった。しばらく黙ったあと、ゆっくりとアリスは口を開いた。
「あなたの父親を連れていった黒服。あれ、外来人だって噂よ」
思い出す。随分冷たい印象がするから死神だと勝手に思っていたが、外来人だったのか。
「でも、なんか冷たかったよ?」
「連れて行く相手が相手だし、仕方ないんじゃない?」
「お父さんは、悪い人じゃないよ」
「あなたの中ではね」
思わず、違うと叫びそうになったけど、やめた。すぐにわかってもらう必要はない。ゆっくり、私とお父さんとの愛情を理解してもらえばいいんだ。
「うう……。わかった。じゃ、いただきます……」
挨拶はしたのだけど、ついもう一度そう言って、スープを口に入れる。
……。
「どう? おいしい?」
「うん。とってもおいしい」
何も味を感じなかった。砂でも食んでる気分になる。味もしないのに舌の上を転がる液体みたいな物質が気持ち悪くて、吐き出しそうになる。それでも、半ば無理に飲み込んだ。
こんなとき、普段表情が変わらないというのは便利だ。何か驚きがあっても隠せるし、美味しいと言ってるのに嬉しそうでなくとも疑われない。
「ねぇ、お姉ちゃん。吸血鬼の主食ってやっぱり」
一度は騙せたのに、私は疑われるようなことを口走っていた。もう二度と、家族を騙したくない。そんな思いからだった。
「……血よ。あなたまさか、血が欲しいとか? さすがに、血は用意してやれないわ。……でも、その代わり、『狩り』を咎めるつもりも……ないわ」
「大丈夫、そんなに欲しくないから」
ふるふると、首を振った。血が欲しいのは事実。でもそれはまだ本が欲しい、自転車が欲しいのとほとんど変わらない。
でもこの気持ちは、もっと強くなるのだろう。その時私は、どうするのだろう。
「ご馳走様」
「ほとんど食べてないじゃない。出された物は全部食べる。この家では、それがルールよ」
「……はい」
家のルールを教えてもらって、それに従う。それは私がゲスト扱いから家族になった証左のようで嬉しいのだけど、食べるものが何の味もしないものだったなら、流石に辟易する。
栄養を摂取するために食べるわけではない。味を楽しむために食べるのではない。
ならば、一体この食事になんの意味があるのだろう。
「お姉ちゃん、食べる意味、ってなんだと思う?」
「私は、習慣かな。本当は食べなくてもいいんだけど」
知らなかった。つまり、お姉ちゃんも人間じゃないのかな。聞いても大丈夫かな、変に思われないかな。
「お姉ちゃん、ちょっとだけ、聞いて欲しいのだけど」
アリスが人間でないなら、きっと、私の悩みもわかってくれるだろう。そう思ったから、私は打ち明けることにした。
「何? 嫌いだから残すっていうのならダメよ」
「違うの。味を、何も感じないの」
「嘘、ついたのね」
私はすぐに謝った。
「ごめんなさい」
はぁ、とアリスはため息をついた。
「……味付け、薄かったかしら」
「そういう意味じゃないの。朝は美味しかったのに、なのに」
アリスはまだ、私の悩みを理解してくれなかった。もっと、言葉を尽くさないと。
「私、もしかしたら、血以外の味を感じないかもしれない。もしそうだったら、どうしたらいい?」
アリスは傷ついたような表情をしたあと、ゆっくりと口を開いた。
「……レミリアに、聞いてみたら? もしかしたら、何かわかるかも」
「アリスは、わからないの?」
ごめんなさいね、とアリスは言った。
「私、魔法使いで人間とは違う存在だけど、それでも、吸血鬼の体の仕組みとかは知らないわ」
つまり、私はもうアリスの理解の埒外だと。そういうことなのだろうか。
「お姉ちゃん、私不安。私が悪いのはわかってる。でも、不安なの」
「……何とも言えないわ。そもそも、あなたがレミリアのところに行かなければ、こんな目に遭わずに済んだのよ」
アリスの言葉に、私は何も言えなかった。感じるのは失望や、怒り。
「……私、お姉ちゃんを怒らせた」
「そうね」
「……出て行った方が、いい?」
バン、とアリスが机を思い切り叩いた。私は驚いて肩を跳ねさせた。
「……あなたは、あの父親に歪められたのよ」
でも、次にアリスが言ったのはそんな憐れみに満ちた言葉だった。
「違う」
「違わない。私はあなたが死のうとしたことも、吸血鬼になったことも、こんなことで出て行こうとしたことも全部、あいつのせい。
だから……絶対にあの父親から解放する」
それは強い口調だった。何がなんでも達成するという意気込みを感じるほどの、強力な意志。
「私はお父さんに縛られてなんかいない」
「父親にかけられた僅かな言葉に歓喜して、その言葉を軸に今まで積み上げてきたもの全部捨てようとしてるのよ? 縛られていなければなんなの?」
「愛」
アリスは首を振った。
「もうあなたの父親はいないの。死んだの! 父親の影を見て父親を追うのはやめなさい!」
「違う! 私はお父さんの影なんてみていない! お父さんは私のせいで死んだんだ! だから私は!」
アリスの表情はどんどん険しくなっていく。
「どんな事情があったか知りもしないで、盲目的に父親の言うことを信じて! あなたはあいつの」
「あいつなんて言わないで!」
「あいつよ! 父親としての責務を果たせない人間を、父親だなんて呼べるか!」
私はアリスのように机を叩いた。机が真二つに割れ、アリスの作ってくれたスープが二つとも地面にぶちまけられた。
「お父さんは、お父さんだ! 何があっても、何をしていても!」
私も、アリスも、そんなことに構わず口論を激化させていく。
「違う! あいつはあなたを切り捨てた! あなたに死ねと、後を追えと強制した! あなたは、愛をくれなかった上にそんなことを言う人間を、父と呼ぶの!?」
「当たり前! 私は四年、お父さんを想い続けたんだ! 愛してくれるって信じて! お父さんのために、お父さんと仲良くなるためだけに捧げた四年を、無駄にしたくない! 無駄にするわけにはいかない!」
私はお父さんに愛してもらうんだ。絶対に。
「あなたは、あいつから返事を聞いたでしょう!? あいつは、全部知って、それでもあなたを拒絶したのよ!?」
「地獄に行けば、お父さんは私に触れてくれる! 抱き締めてはもらえないかもしれない。でも、私のことを見てくれるんだ! それは、私にとっては愛なんだ!」
アリスは、言葉を詰まらせた。
「物心ついてから、私にはお父さんにちゃんと見てもらったことがないの! だから、見てくれるだけでも、十分にありがたいの、嬉しいの! だから、私は!」
アリスは、首を振った。
「あなたのそれは、愛なんかじゃない! 普通の愛をあなた、知らないわけじゃないでしょう!? さっき言ってたじゃない! さっき言ってくれたじゃない、愛してるって! あなたみたいに聡明な子が、虐待と愛情を取り違えるなんて……!」
「……!」
私の頬に涙が流れた。今まで、誰にも話さなかったし、どんな大人にも勘付かれなかったのに。閻魔大王でさえ、私のことを勘違いしたのに。
気付いて、くれた。私は、涙を流して、アリスを見る。
「……お姉ちゃん、私ね」
私は、ゆっくりと話す。私の様子が変わったことに、アリスは気付いてくれた。
「実はね、本当はね、知ってたんだ」
実は、全部知っていた。
ずっと憧れてた。ずっと、羨ましかった。普段は、心の中にさえ浮かべないようにしているけど。それでも、私の本心は、私の本当の心は。
「愛ってね、心地いいものだってね、知ってたんだ」
痛くない、苦しくない、冷たくない、辛くない、嫌じゃない。それが、愛情。そんなのは、知っていた。本に、私の知っている愛はなくて。だからいつしか、私がおかしいということに気付いた。気付いていたのだ。
「じゃあ、なんで? なんで、そんなに頑なにお父さんに従うの? 愛を知らない振りまでして」
「だってね、お姉ちゃん。私ね、諦めたくなかったんだ。お父さんから愛情が欲しかったのは、ホント。それだけは、嘘じゃない。でもね、『普通の』愛情が欲しかったんだ」
でも、ダメだった。
『自分のせいで娘が歪んだ』と思えば反省して愛してくれる。それが、私が賭けた、最後の望みだった。ほんと、私はダメな子だ。親をだますようなことを考えて。
「そのために、必死で頑張ったんだよ。この動かない表情と他の子より言葉を思いつくこの頭を精一杯使って、お父さんに普通に愛してくれるよう頑張ったんだ」
けれど私の頑張りは、無駄だった。初めから、成功することのない可能性に私は四年を費やした。
「……それだけ? それだけで、本当に死のうとしたの? 私じゃダメなの? 私は、普通の愛情をあなたにあげれるよ。それでも、私じゃダメ?」
私は首を振った。違う。アリスが悪いんじゃない。
「お父さんから愛してもらわなきゃ、世間一般の『普通の愛情』じゃないんだよ。お父さんがいて、お母さんがいて。どっちか片方だけだったにしても、最大限の愛をもらえて。それが、普通なんだ。父親にも母親にも愛されたことがないなんて、普通じゃない、異常だよ。それに!」
私はアリスの方を見た。アリスは悲しそうに顔を歪めて、今にも泣き出しそうだった。
「それに、お父さんからの愛が欲しいって、そんなに変な願いかな……?」
高望み、だったのだろうな。だから、全部失敗したんだ。ああ、そうか。
「そうか、そもそも私に普通の愛なんて」
「澪!」
ぎゅっと、抱き締められた。ふわりと柔らかいアリスの服と、服越しに伝わるアリスの体温。
「あなたに普通の愛はもう手に入らないかもしれない。でも、私が代わりに、いや、普通以上の愛情をあげる。だから、だから!」
会って、まだ二日なのに。それなのに、どうしてアリスは私の事をこんなにも、こんなにも……。
愛してくれるのだろう。
「……お姉ちゃん」
「もう、愛が手に入らないなんて悲しいこと言わないで。もう、お父さんからの全てが愛だなんて苦しいこと言わないで。ここが、あなたの家だから。ここが、あなたの安心できる場所で、私が、あなたに愛をあげる。だから」
だから、なんだろう。
「だから、あなたも私を愛して。もういなくなったお父さんと同じくらい、私のことを愛して」
ああ、本当に、私は何をしているのだろう。こんなにも。
「……ありがとう、お姉ちゃん……!」
それから先は、言葉に出なかった。数年かぶりに私は幼子のように泣いて、泣いて、泣き通した。アリスを力強く抱き締めて。今までの寂しさを打ち消すかのように。大声で泣いて、再び産まれるかのように。
「……澪、愛してる」
私は、バカだ。
大事なものは、すぐそばにあったのに。