体の変化と私
それから四時間ほど、歩いた。もうすっかり夕暮れ時で、空もかなり赤くなっている。湖の水が赤を反射して、すごく綺麗だった。
「……こんなところに何か用?」
「景色が、見たくて」
……死にたい。けど、アリス達を裏切りたくない。だから私は賭けることにした。
紅魔館の主、レミリア・スカーレット。彼女が私の気配を感じ、ここに使者を送ってきたら死ぬ。そうでなければ、お父さんには六十年後くらいに会いに行こう。
そこまで思って、自分で自分を笑う。
レミリアの言った通りになった。私は今、心の底から死を望んでいる。死にたくなるよう苦痛があるという暗示だとばかり思っていただけに、少し不思議な気持ちだった。
……レミリア、気づくかな。気づかないかな。
私は綺麗な湖を眺めている。もっと、こんな景色を見ていたい自分がいる。こんな景色をアリスと見ていたい自分が、いた。自分の中では、二つの思いが激しくぶつかっていた。
死にたくない。アリスを、エイキを裏切りたくない。
死にたい。お父さんに会わなきゃ。会って、愛してもらわなきゃ。
自分が二人いるかのような錯覚に陥った。
「……」
チクリ、と手に刺すような痛みが走った。ゆっくりと手を見ると、手のひらの中に小さなコウモリがいた。
「アリスお姉ちゃん」
「ん」
「おトイレ」
私はそう言うと、アリスの横を通り抜け、湖のそばにある森に入る。アリスが見えなくなったところで、コウモリを手放す。そのコウモリはたくさんに分裂し、いつしか黒い塊になっていた。その黒塊はやがて小さな人の形をとり、やがてはレミリア・スカーレットになっていた。
「こんにちは、ミオ。わざわざこんなところに出向いて、しかもひと気のないところまで移動してくれた、ということは……。いいのね?」
賭けの結果は、お父さんに会いに行くことに決まった。
「うん」
「じゃ、行きましょうか」
頷く。バサバサと耳障りな音が私を包む。
「ミオ? 何の音……っ!」
気付かれたけど、もう遅かった。私の体はコウモリの集団に持ち上げられ、地面を離れていた。
「レミリア! 止めなさい!」
「私はただこの子の望みを叶えてあげるだけ。じゃあね」
「望み!? まさか、ミオ!?」
レミリアと一緒に私は宙を飛んで紅魔館の中へと入った。レミリアと始めて会った、謁見室のような部屋だった。腕を引かれ、豪奢な椅子の裏にあった扉まで連れていかれた。扉を開けると、部屋の中の様子が見えた。
天蓋付きのふわふわもこもことしたキングサイズのベッドが、一つだけあった。クッションもたくさんベッドの上においてあり、まるでお姫様が眠る場所のようだった。
「ここは?」
「私の寝室よ」
レミリアは部屋に私を連れ込むと、扉を閉めて鍵をかけた。ここから出す気はないらしい。私も、出る気はない。ここが私の墓場になるのだ。
改めて部屋を見回すと、ここだけ、壁の色が赤というよりもピンクに近い色をしていた。なぜかを聞けばきっと、内臓の色だから、などという可愛げのない回答が返ってくるのだろうけど。
私は腕を掴まれ、半ば力づくでベッドの上に放り投げられた。ふわりとした感触が、背中全体を包んだ。心地よい感覚に、安心する。
「……食べないの?」
「食べるわよ」
きしりと、ベッドが少し軋んだ。レミリアが、私を見下ろすように私のことを見ている。その瞳は酷く扇情的だった。……何も感じないが。
……なぜなにも感じないのだろう。私はあらゆる能力を増幅し、少しの攻撃で死ぬのではなかったのか?
「どうしたの? 難しい顔して。私だけを見なさい」
す、とレミリアは私の顎に指を当てた。背筋が痺れるような感覚がした。
「……食べないの?」
「食べるわよ。……色んな意味で、ね」
思わず体を起こそうとして、肩を押さえつけられた。悪戯をしているときの子供のような顔で、レミリアが首を振った。
「あなたは、女の子」
私は思わず、そんなことを口にしていた。
「あら、耳聡いのね。いくつ?」
「……十歳」
レミリアはにぃ、と笑みを深くした。
「まだ、あなたの年頃の子は食べたことなかったわ。……痛いのは嫌でしょ? だから、気持ちよくしてあげる。ほら、怖がらないで……」
レミリアはそれから、私の全身を撫でていく。東野にされていることは同じはずなのに、不思議と嫌悪は抱かなかった。
「……ふふ、頃合いね」
全身を撫で回され、すっかりできあがってしまった私に、レミリアは淫靡に舌なめずりをした。私の首筋に口を寄せる。
「……レミリア。いいよ」
「……いただきます」
あれ、なんでレミリアがその挨拶を?
そう思ったのとほぼ同時、私の首にレミリアの牙が突き立っていた。皮を引き裂き、血管に牙を滑り込ませる。首に生暖かい液体が大量に流れていることがわかった。
様々な痛覚神経を刺激しているはずなのに、私は全く痛みを感じなかった。
むしろ。
「……ん」
「こくっ……ごくっ……」
むしろ、もっと。全然、痛くない。それどころか。
「……あ」
「じゅる、じゅるる……」
吸われることを、嫌だと思えない。このまま吸い尽くされたいとさえ思う。この経験したこともないような快楽が手に入るなら、私は。
「……ん?」
私の血を啜っていたレミリアは、扉の外に目を向けた。波のように押し寄せていた快感が、嘘のように消えた。
「レミリア、飲まないの?」
私の声はまるで乞うようだった。そんな自分に、嫌気がさす。
「待って。……来る」
レミリアの妖しく光る赤い瞳は、扉の向こうに誰かを見つけたようだった。その、次の瞬間。
寝室の扉が吹き飛んで、たくさんの人形を従えたアリスが、立っていた。
「ミオはどこ?」
視線をキョロキョロとさせていたアリスは、素裸にされていた私の方を見ると、顔を歪ませてレミリアに向かって叫んだ。
「澪に何をした!」
「ただ、請われるままに血を吸っただけよ。痛くなんてしてないわ。至上の快楽を、一緒に与えてあげたの。見て、この顔……は、変わらないわね。この子の身体、触ってみて? 全身しっとり濡れてるわよ? まるで甘い蜜のよう。ふふっ」
レミリアに撫でられて、私はピクリと体を跳ねさせた。それが、さらにアリスの怒りを加速させた。
「痛い目みたくなかったら、澪を離しなさい」
騎士のような甲冑を着込んだ、アリスよりも大きい人形が、レミリアに向かって一歩進んだ。あれを、アリスが動かしているのか。
「この子が、望んだことよ」
「ひゃっ」
私の内腿を慈しむように撫でられ、思わず声を上げてしまった。
「……っ。死にたいの?」
「今あなたはどんな気持ちなのかしら。目の前で大切な人が壊されていく感じ? それとも、犯されて心身ともにメチャクチャになった家族を見る感覚?」
「黙れ。何がしたい」
「この子を食べたい」
まるで見せつけるように、レミリアは私の耳たぶに口をつけると、噛みちぎった。耳から血が流れていくのは感じるが、痛みは感じない。
「……ん?」
しっかり咀嚼したあと、レミリアはそんな風に疑問符を浮かべた。
「それ以上、妹に手を出さないで」
「……食事の邪魔をしないで」
レミリアは、ふわふわとしたスカートの中から、カードのようなものを取り出した。
「……弾幕勝負? 勝負? そんなもので、私の怒りが収まるとでも!?」
「譲歩してやろうって言ってんのよ。吸血鬼に、なりたての魔法使いが敵うとでと思ってるのかしら」
アリスは腕を指揮者のように動かした。彼女の後ろから、大小様々、古今東西を問わず優秀な武器防具で武装した人形が出てきた。人とよく似ているけど、呼吸音がしないし、血が流れていないことはすぐにわかる。
「……本気、ってわけ? 咲夜達はどうしたのかしら」
「眠ってもらってるわ」
レミリアはここで始めて、焦ったような顔をした。
「へぇ。やるじゃない」
「ミオを返せ。さぁ、あなたにも見せてあげる。私の、力を……を?」
アリスは、最後で不審な声を上げた。脈拍が少し上がってる。何かを恐れ……いや、驚いてる?
「……あ、あなた、み、耳たぶが」
「……え?」
指摘されて、自分の耳たぶを触る。さっきレミリアに齧られたところが、きれいさっぱり再生していた。
「……」
「痛いっ!」
いきなりレミリアは私の拳に噛り付き、そのまま噛み砕いた。なぜか、もう痛みは感じるようになっていた。
レミリアはしばらく咀嚼して、すぐにベッドの上に吐き出した。ぐちゃぐちゃになった私の拳がぶちまけられる。
「……アリス、この子は返すわ」
「どういう風の吹きまわし? それからこの子の拳を食べたこと、どうしてくれるわけ?」
比較的柔らかい装備をしている人形が私のそばまできて、私のことをゆっくりと抱き上げた。アリスのところに運ばれるころには、食べられた私の拳は再生していた。
「ライオンがライオンを食べないように、人間が人間を食べないように、吸血鬼も吸血鬼を食べないわ。それが答えよ」
私は、その答えの意味がわかってしまった。
「わ、私、は」
私はきっと、いつも通りの無表情。でも、声には、身体情報には私が怯えているということが出ているはずだ。何を言われたのか、わかってしまったからこそ、怖かった。
「ようこそ、吸血鬼の世界へ。ミオ・マーガトロイド」
レミリアはニヤリと笑ってそう言った。
「……くっ。ミオ、取り敢えず、帰りましょう」
警戒しながら、アリスはゆっくりと下がっていく。
「……あら、あら。逃げられるといいわね、クスクス」
私たちが謁見室のような部屋を出る寸前、そんなからかうような声が聞こえた。
アリスは、何も言わなかった。