第512話 開戦の狼煙
―――戦艦エルピス
エルピス艦内に存在する、礼拝堂と思われる一室。かつてアイリスを演じていたエレアリスが創造した最後の聖域、そこをそっくりと移動させたかのような既視感を感じさせるこの場所には、あのパイプオルガン型の祭壇までもが安置されていた。そして、オルガンは重厚な音色を響き渡らせている。演奏者は事の主犯であるクロメル。彼女の小さな指が鍵盤の上を動けば、デラミスに伝わる有名な賛美歌の曲が奏でられる。
「ほう。神になろうとする貴女が、神を称える曲を弾くのか。これは実に興味深い事だ」
クロメルの背後にて、初老の男が言葉を発する。それと同時に曲を奏でる指が止まり、必然礼拝堂には静寂が訪れた。
「何だ、止めてしまうのか。私としてはもう少しだけ、貴女の演奏を聴いていたかったんだが」
「……解析者。いえ、今や同胞として残っているのは、真の名を知る者ばかり。最早この呼び名は不要でしょうね。何用ですか、リオルド?」
漆黒の翼をバサリと一度羽ばたかせたクロメルは、リオルドの方へと向き直る事なく問いかける。
「何、今日はやけに上機嫌のようだったからね。ケルヴィン君との約束の日でもある事だし、最後に挨拶でも…… と思ってね。お邪魔だったかな?」
「いいえ、そんな事はありません。リオルドはアンジェと共に、彼の最も近くで貢献してくださった功労者です。どこに無下にする必要がありましょうか」
クロメルは再びオルガンを弾き始め、先ほどとは異なる曲を奏でる。その曲をリオルドは知っていた。東大陸を取り巻く大戦が終わり、4大国が静謐街パーズを作り上げた際にできた楽曲だ。
「……本当に器用なものだね。見たところ、『演奏』のスキルは持っていないようだが?」
「私が何年生きてきたとお思いですか? スキルがなくとも、この程度の事は難なくできますよ。分からない事は覚え、できない事はできるようにしてきましたから」
「ほう、黒の君は白い君よりも努力家なのだね? こうして直接話をする機会はあまり設けられなかったが、私の目からはそのように映るよ」
「……私という生物は怠惰なものでして、大切なものがなくなってからでないと、本気を出せなかったのです」
ゆったりとしていた曲調が、ほんの僅かに速くなる。当然、リオルドはそれを聞き逃さなかった。
「おっと、すまないね。少し配慮に欠けた質問だった。話を変えよう。エルピスは貴女の魔力をエネルギーにして動いているし、今やその操縦も思いのままだ。しかし、昨日まではあんなにも高らかに飛行を続けていたのに、今日はやけに低空飛行。一体どうしたんだい? これでは、自分はここにいると自ら教えているようなものだよ?」
「リオルドらしからぬ質問ですね。今日は約束の日、なんですよ? 折角殺し合いにお誘い
されたのです。待ち合わせの時間は心持ち早くに、分かりやすい場所でするのが当然ではないですか。私は待つ事は得意ですが、一方で早く会いたいという気持ちもしっかりとあるのです。リオルドなら既に承知の筈、わざわざ聞くまでもない事でしょう?」
「……重ねてすまない。そこには思い至らなかったよ。まだまだ私も思慮が浅かったようだ。世間話の延長として流してくれ」
この瞬間だけ、リオルドの表情に困惑が宿る。どうやらその理由は想定していなかったようだ。
「ふふっ、では私も他愛のない世間話を1つ。リオルド、貴方の望みは『パーズ出身の英雄を生み出す』、でしたね? それも、世界を救うほどの大英雄を」
「ああ、そうだね。果たしてケルヴィン君がそうなってくれたのかは定かじゃないが、私はそう願った。私なりに努力もした。さて、どうなる事か」
「なぜ、そのような願いにしたのです?」
一向にこちらを振り向こうとしないクロメルの背を見ながら、リオルドは含みのある笑顔を作っていた。今の彼であれば、トリスタンとも張り合える悪い表情をしているといえる。
「ふむ…… 私はパーズの出身ではないが、あの街には何かと愛着があってねぇ。柄ではないけど、街を守護する人物がいない事に危機感を持っていたんだ。パーズは弱いからね。そんな中、何の因果か使徒として転生してしまった。私の前に現れた悪い女神は、協力をする代償に願いを叶えてくれるという。となれば…… 後は、ご想像の通りだと思うよ? 断罪者は祖国を護る事に入れ込んだようだったが、私はそれ以上に利を得たかった。パーズを護る為、彼に全てを賭けたんだ。君の企みを打ち砕くほどの大英雄を作り、パーズを含めた世界を救い、パーズの誇りとなってもらう。おっと、改めて言葉にして、初めて気が付いた。私はかなり強欲だったようだね。いやはや、お恥ずかしい限りだよ」
「……ええ、知っていましたとも。貴方が狸であると知っていた上で、私はリオルドを最後まで手駒に残しました。そうであるからこそ、リオルドは本気で任務に取り組んでくれると思っていましたから。お蔭様で仕上がりは上々。戦い方次第では、あのセルジュでさえも打倒可能な実力となりました」
パーズ生まれの祝いの曲は流麗に綴られている。クロメルの声遣いも同様だ。
「君はケルヴィン君を楽しませたい。私は彼を強くしたい。互いに利があって結んだ契約だった。後は彼の活躍を信じるだけだよ」
「そうですね。この後はどうしますか? 使徒を抜けると言うのであれば止めません。彼と手を組むという手もあります。ああ、今から私に斬りかかるというのも、なかなか面白いかもしれませんね」
「そんな事はしないよ。私はね、負けると分かっている賭けはしない主義なんだ。それに、今も私は君の使徒だ。契約上、最後まで筋を通さないとすっきりしないし、願いが解消されては堪ったものじゃない。貴女とケルヴィン君がサシで戦えるよう、精々協力させてもらう。言いたい事はそれだけだよ」
「……リオルド、貴方の健闘をお祈りしていますよ」
「その言葉、そっくりそのまま返させてもらおう。良い戦いを、我らが主よ」
その言葉を最後に、リオルドの姿は跡形もなく礼拝堂からなくなった。それはパーズの曲を演奏し終えるのとほぼ同時であり、クロメルは続けて次の曲を弾く。弾き始めた曲は再び賛美歌。心なしか音に、高揚とした感情が乗っているように感じられる。
「……神を称える曲? ふふっ、違います。違いますよ、リオルド。私が思い馳せる方はただ1人しかいませんもの。これはあなた様に捧げる為の、あなた様を讃美する為の曲です。私が管理するこの世界は、あなた様を中心として転生し続けます。ああ、そうです。次の世界では白き私の代わりに、この私がパートナーとなって共に旅をするのも良いかもしれません。或いは敵対する、それとも傍観? 戦いに明け暮れ、仲間を増やし、愛を育み、旅の終着点として―――」
クロメルは両手を振り上げ、オルガンの鍵盤を破壊するかの如く叩き付けた。ダァーン! と、感情を爆発させたかのような音が響き渡る。
「―――どうあっても、私に殺される。どのような過程を踏もうとも、物語の最後を締めくくるのは私なのです。これだけはエフィルにも、セラにも、リオンにも、アンジェにも、シュトラやコレットにだって譲れません。ええ、絶対に許されません……!」
次の瞬間、戦艦エルピスが大きく揺らいだ。遅れて、途轍もなく大きな轟音もこの礼拝堂に聞こえてきた。
「……やっとお越しになられましたか、あなた様。待ち侘びましたよ。マオ、リオルド、トリスタン、開戦の狼煙は上げられました。丁寧に出迎えてくださいね?」