第491話 レイガント霊氷山
―――レイガント霊氷山
西大陸の最北端には最極寒とされる、白の大地が広がる雪原地帯がある。嵐がなければ雪が積もった白の大地が眺められ、タイミングが良ければオーロラを空に見る事ができると、人々はこの世界で最も美しい場所の1つとしてこの場所を話題に挙げる事が多い。
しかし実のところ、美しい雪の下にあるのは大地などではなく、途轍もなく分厚い氷。だと言うのに場所によってはなぜか表面の薄い箇所も存在するので、運が悪ければ雪原に一歩足を踏み入れた瞬間、真下に広がる水の中に真っ逆さま。凍て付く海水は侵入者の体温を瞬間的に奪い取り、そのまま海底の底へ底へと引きずり込む魔の領域と呼ばれている。
「―――だから、ここの雪はいつも綺麗に保たれている。誰も、動物さえも、この雪原に足跡を残さないから」
「んな事は知ってる。俺が何年ここに住んでたと思ってんだ?」
「懐かしいですね。ここは今も昔も変わりません」
そんな極寒の地に、とある3人組が当たり前のように足を踏み入れていた。氷竜王サラフィアに会いに来たトライセン組、アズグラッドとロザリア。そして、水竜王のところに向かった筈のシルヴィアだ。彼女らはこの地周辺の地元民でさえ絶対に近づかない雪原を、慣れた様子でぐんぐん進んで行く。迷いなく、寒さに震える様子もなく、全速前進だった。
「しっかし、ルノアまで一緒に来るとは思ってもいなかったぜ。確か、水竜王のところに行ってたんじゃなかったか?」
「ん、そうだけど…… 3秒で了解してくれたから、時間が余った」
「破格の待遇ですね…… それで、たまたま空を飛ぶ私達の姿を発見したと?」
「そう。折角だから、サラフィアにも挨拶しておきたい」
「何つう偶然なんだか」
出会いの経緯、意外と適当である。しかしながら、そんな世間話をする余裕があるほどに歩みは快調だ。風で舞う雪を掻き分け、その向こうに段々と白き山がうっすらと見えてくる。
「いーい天気だ。こいつぁ、サラフィアの機嫌が良い証拠だな」
「レイガント霊氷山周辺の天候は、母の機嫌次第で快晴にも猛吹雪にもなりますからね。アズグラッドとルノアが来る事を予期したのでしょうか?」
「ん、ロザリアも一緒だからかな? 快晴も快晴、雲1つない。足場の氷もしっかりしてる」
シルヴィアは確かめるように、雪の下へぐいぐいと力を込めている。それでも足場となっている氷が砕ける様子はない。
「あー、ご機嫌斜めだと薄い部分が広くなるからなぁ。寒中水泳は流石にもうしたくねぇ」
「それは自業自得でしょうに。母が怒るのはアズグラッドが悪さをした時くらいなもので、大体の日はこんなものですよ。お蔭で竜王の住処で、最も難易度設定が難しいと言われてしまっていますが……」
「機嫌が良いと最も温い、機嫌が悪いと最難関。ん、的を射てる」
「こう易々と進めてしまうのも、私はどうかと思いますが。雪山とは死の象徴。おいそれと侵入を許すのは、あまり褒められた事ではありませんよ」
「ならロザリアがさっさと跡を継いで、氷竜王になっちまえば良いじゃねぇか。それでコロコロと天候を変えられるのも、堪ったもんじゃねぇけどな」
「何を言いますか。エフィルメイド長の下で使用人としての矜持、技能、その他諸々を学んだ私が、些細な事で感情を表に出す筈がないでしょう? それに感情の起伏とは関係なく、この地を一定の環境に定めてみせます」
「そこは王としての矜持やらを学んだ方が良かったんじゃないか?」
それからも雪原では何も起こらず、モンスターと出くわす事もなかった。既に3人はレイガント霊氷山の山麓にまで差し掛かり、今も無駄話は続いている。天気は快晴、マジ登山日和である。
「お腹、減ったな……」
ポツリと、シルヴィアがそんな呟きを漏らした。アズグラッドはお前さっき間食の干し肉食ったばっかじゃんと呆れ顔、一方のロザリアは待ってましたとばかりにピクニックバスケットを取り出した。
「私、お弁当作ってきましたよ。中腹まで進んだら皆で食べましょうか。メイド長やリュカのレベルにまでは至らないと思いますが……」
「んーん、ロザリアの料理は私も認めるところ。感謝してもし切れない」
「お前、最近紅茶にも凝り出してるし、本気で竜王よりも使用人になった方が良いんじゃないか……?」
「アズグラッド、再三ですが何を言い出しますか。世の中には農夫を営みながら竜王になる者もいるのです。メイドとして働きながら竜王をやったところで、何の問題も生じないでしょう?」
「お、おう……」
ロザリアの余りの力説に、思わず引いてしまうアズグラッド。前々からフーバーと共に(こちらは適度にサボってはいるが)、メイド業にのめり込み過ぎているのではないかと不安に思っていた事が、見事に的中してしまったようだ。アズグラッドにとってロザリアは、相棒であり義理の姉のような存在。無事に氷竜王の場所へと辿り着く事よりも、そんな彼女の将来の方が心配になってしまう。
しかしながら、このダンジョンだってそう楽観視ばかりできるものではない。3人が登るこのレイガント霊氷山、この山頂こそが氷竜王、そしてロザリアの母であるサラフィアの真の住処だ。雪原地帯の魔の領域の恐怖こそはなくなるが、ここからは別の恐怖が始まる。
この雪山の土台は巨大な氷の塊で、その昔サラフィアがその力を使って作り出したものだとされている。氷塊自体が魔力の塊であり、一部のモンスターにとってはフェロモンとして作用する魔の香りだ。まんまと誘惑されたモンスターは女王の手足となって働くようになり、氷山を守護する。そういったモンスターの中にはS級までもが含まれており、喩えサラフィアの機嫌が良い状態であろうとも、危険なダンジョンである事は間違いないのだ。道中にはほぼ垂直に伸びる断崖絶壁も多数存在する為、登るだけでも至難の業である。
―――尤もアズグラッド達に限っては、氷竜王に魅了されているモンスター達が襲い掛かる事はないのだが。そういう意味では、やはり容易な道中だ。
「あー、俺がクライヴのクソ野郎が苦手だった理由を思い出した。何となく力の使い方が、サラフィアと似てんだわ」
「そうかな?」
「母をクライヴと一緒にするのは心外です。確かに魅了の状態異常にする事はあります。が、それは侵入者をも殺したくないという母の慈悲深さの表れで、決して私利私欲の為に行っているのではないのです」
「やられる方からすれば、知らぬうちにこき使われるのも十分嫌だろうが。まあ、侵入者に限定してんならギリセーフ…… いや、赤ん坊の俺を攫って来た前科もあったか。アウトだ、お前のおふくろは完全アウトだ」
「ほ、他の竜王と比べればギリギリセーフな筈です! 無益な殺生はしません、殺生は!」
「2人とも、落ち着いて。 ……敵が来た」
「「っ!」」
シルヴィア達の進行方向、その真横から衝突するように突き進む巨大な猪型のモンスターが地響きを立てて駆けている。敵意があるという事は、恐らくはサラフィアの魅了を受けていない。こんな場所に迷い込んで気が立っているのか、モンスターからは強い怒気が感じられた。
「おう、こんなところまで自我を保ってる奴がいるたぁ、結構強い奴だな。俺の獲物だ、手は出すなよ」
「待って、アズグラッド」
「何だよ、こればっかりは譲らないぜ?」
焔槍ドラグーンを構えたアズグラッドは、振り向きもせずにそう返答する。
「違う、あれだけ大きな猪肉なら食べ甲斐も絶対凄い。ジビエは最初の処理工程が大事。倒す前に焼かないよう注意して。幸い周りは雪だらけで、私の魔法もあるし新鮮な肉を冷やすのには不自由しない」
「……何の話だ?」
「私は料理は駄目だけど、解体するのには自信がある。サラフィアへのお土産にすれば、調理してくれるかも」
「ルノア、よだれが出てますよ」
「………」
その後、アズグラッドはシルヴィアの指示通りに猪を倒した。