01.新興宗教と臨済禅
私がその集まりの声掛けを受けたのは、2016年6月のことだった。
その人とは、私の親の縁で知り合い、けれどその後二重三重に縁が重なり、今では個人的に親しくさせていただいていた。
その人は、年の初めに大きな手術をし、その為暫くお会いすることも出来なかった矢先だったことから、個人的に声を掛けられ一緒に食事を、というだけで、私にとっては喜びだった。
今にして思えば、「一緒に食事を」という口実は文字通り口実でしかなく、その新興宗教の集まりに誘うのが本来の目的だったのかもしれない。けれど、それさえもどうでもよかった。
私とその人の一番深い縁。それは仕事関係なのだが、そちらもまた思想に宗教色を帯びている。だから、「他人にはあまり言わないでほしいのだけど、ちょっと付き合ってほしい集まりがあるんだ」と言われた時も、私はあっさり「大丈夫ですよ。私たちの属する○○だって、よく『宗教法人○○だ』と揶揄されますからね。何も知らない人に先入観と思い込みでどうこう言われるのは気分悪いですもんね」と答えたのである。
ところで。その誘われた先の宗教団体。それがどこにあり、どのような教義なのか。それどころか何という名称なのか。その人は、それらについて一言も口を開かなかった。ただ、「俺は感動のあまり、その日は一睡も出来なかったんだ」「口でどうこう言うより、まずは体験してほしい」と繰り返すだけだった。
それを聞いた私は、言葉では快諾したものの、既に内心訝しんでいた。おそらくは、新興宗教の洗脳セミナーか、ボランティア。そんなところだろう。けれどそれでもかまわない。その人がそれほどにまで感動したという説法を、私も是非聴いてみたい。そう思ったのだ。
「お金もかかるよ?」
「独身男は金の使途がありませんから。その程度は貯金してますよ」
実際、その時は幾らかかるかは聞いていなかった。そして普通預金の口座には10万も入っていなかった。けれど、定期預金を崩せば百万くらいまでなら何とかなる。そう思えるほどに、私はその人に惚れこんでいたのだ。
7月に入り、具体的な話を聞いた。
なんと、その集まりに行くには、面接を受けなければいけないのだという。
そしてその人の付き添いで、面接を受けることになった。
面接の相手は、千代田区に本社がある某建築会社の社長と、台東区に本社がある別の建設会社の社長(どちらも建設関係なのは多分偶然)。
その時になって初めて、行く先が神戸であること、宗派の名称などを耳にした(但し、書類等は見せてくれなかった。記録に残してほしくなかったのだろう)。
その面接に際し、幾つかの事実を確認された。家族関係や家の信仰、そして今回の話を誰かに洩らしたのか、等。
「いや、洩らすも何も、具体的な話は一切聞かされてませんから。ただとても感動した体験だった、としか」
本当は、家族には話をしていた。けど、この言葉の通り具体的なことは一切聞かされていなかった為、実質何もわからなかったのである。
それから、信仰について。
他の宗教に属している人は基本お断りだが、仏教系の場合は「その信仰を尊重する」のだという。また、その宗教は「他の宗派を誹謗することは許さない」と明言していた。
うちの菩提寺は臨済宗である。だから改宗を迫られたら困るというのも一つの本音としてあったのだが、それは問題なかったのでほっとした。
ただ一つだけ、その宗教の考え方と一致しなかった部分がある。死生観だ。
私は、人生一期一会だと思っている。けどこれは、「この世に生まれ死ぬこと」も、その一期一会の結果なのだと理解する。
つまり、今ここに生きているのは、過去の縁によるもの。だけど、死後何処に行くかは、今の自分が考えることではない。死後浄土に行く為に善行を積むのではない。生きている間に善行を積むことと、死後浄土に行くか地獄に行くか(或いは魔法世界に転生するか)ということは、全くの無関係。次の世を考えて今の世を生きるのは、一期一会の考えとは違う。
尚、その宗教は「現世利益は求めない」のだそうだが、死後の浄土行きを予約したいというのなら、それも立派な現世利益ではないのか? と思ってしまった。
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ところで、臨済宗。うちの寺はその中でも「妙心寺派」に属しているのだが。ここの教義はちょっと面白い。基本的には「考えなさい」というのだ。
その代表的なエピソードを一つ二つ。
一つ目は、臨済宗がまだ中国にあって日本に来ていなかった頃の話。
ある人が、和尚様に「私は生きているのが苦しい。辛い。だから和尚様、どうにかしてください」と言ったのだという。
すると和尚様が応えて曰く、「ではその苦しく、辛いモノを持ってきて、私に見せてみなさい。そうしたら私がそれを消し去ってくれよう」。
何が苦しく、何が辛いのか。それをちゃんと直視出来れば、実は問題を解決したも同然。それが何であるかわからないから、苦しく、辛いのだ。だからそれを自分で見つけなさい。
それが、臨済の教えなのだ。
◇◆◇
もう一つ。明治維新直後の日本の話。
西洋哲学を勉強した学者先生が、東洋哲学「禅」を学びたいと、臨済宗の寺の住職の許を訪ねた。
その思想を論破し、西洋哲学が東洋哲学より優れていると証明しよう、と意気込んでその寺に赴いた学者たちだったが、その住職は湯呑に茶を出しただけで、ただ黙して座していた。
ある程度時間が経ち、流石にいたたまれなくなったのか、学者たちが何かを言おうとした時。恰も頃合いを見計らっていたかの如く、住職は口を開いた。
「どうやらお茶が冷めてしまったようですね。新しいお茶を継ぎ足しましょう」
学者たちはお茶を飲みに来たのではない。論戦しに来たのだ。
だから、出されたお茶に口を付けていなかった。
そこに、熱いお茶を継ぎ足したらどうなるか。
当然。茶は湯呑から溢れ出る。
それを見て住職は、
「こんな時。
西洋哲学ではどうします?」
当然ながら、学者たちには答えが出ない。西洋哲学で「お茶が零れた時どうするか」などは学ばない。困惑していると、
「禅では、こうします」
そう言って、布巾で卓の上に溢れた茶を拭った。
◇◆◇
禅(臨済禅)は、自然底で生きよと教える。だから、茶が零れたら拭く。これは当たり前のこと。
そして臨済は、常に「考えなさい」という。むしろ、「○○さえすれば良い」といった思考停止・思考省略を禁じているのだ。これは即ち、窮極的には宗教の否定でもある。
臨済宗の教えとは。最終的にはその教えを否定することにあるのである。
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さて。面接を受けた私は、本山で審査され、許可が下りたらそちらに行けるのだという。
けど、許可が下りるのは前日の昼頃。許可が下りるのを待ってそれから準備をしたのでは間に合わない。
だから、それ以前に新幹線の切符の手配やお金の準備など、用意を進めておくようにと言われた。
これはつまり、審査などは形だけ。ただの権威付けでしかないということだ。
◇◆◇
ところで。先に紹介した臨済禅のエピソード。その二つ目の話には、別の大事なことをも教えている。
新しいお茶を飲みたければ、まず冷めたお茶を湯呑から飲み干しなさい。
東洋哲学を学びたいのなら、まず自分の持っている西洋哲学を一旦忘れなさい。
その新興宗教の教義を学びたいのなら、まず自分の持っている臨済宗の教えを忘れなさい。
よって私は、「考える」ことを一時止め、無条件でその教えを受け止めることを覚悟したのである。
◇◆◇
その新興宗教のお寺。
念佛宗無量壽寺(ねんぶつしゅうむりょうじゅじ)
という。
(3,169文字:2016/08/17初稿)