第2話 扉と開けゴマ
「さてと、戻ってきたはいいんだけど……」
俺は洞窟の前から、魔法陣のある原っぱまで戻ってきていた。
足元には、血のように赤い石に刻まれた、邪悪な魔法陣が鎮座している。
もちろん俺が勝手に邪悪認定しているだけだし、そもそも実際は何のサークルなのかも知らないわけだが……。
最初にあったバリアみたいな謎の見えない壁は、完全に消滅してしまったみたいだ。魔法陣の縁あたりに手を伸ばしてみても、もはや何の抵抗も感じない。
伸ばした手が、すかすかと虚しく空を切る。
しかし、改めて見直してみると、この魔法陣だけ完全に周りから存在が浮いている。
周辺は静寂と、おだやかな深緑の木々に覆われていた。
平和だ。
木々はそう密生しているわけでもなく、林と言えるかどうかという雰囲気だ。
だが、この木立は見たことのない広葉樹で形成されている。
一見すると樹高の低いクスノキみたいな感じなのだが……。
俺は手近な木に近づき、枝から葉っぱを1枚拝借した。
手に取って見ると、葉の形がクスノキとは全く違う。
「一体何の木だ、これは?」
外国産の知らない樹木だろうか。
とは言うものの、俺自身が植物についてそう詳しいわけじゃないので、これだけでは何とも言えない部分はある。
ただ、少なくともこの奇妙な木立、自然のままの原生林って感じはしない。
長年手入れがされていないせいで崩れはじめてはいるが、元々は誰か人の手が加えられた植生のような印象を受ける。よく見れば、ただの木立というよりは、緑の広大な庭園といった風情だ。
大体、魔法陣を中心に円状に開けたこの空間自体が、人の作為を感じざるをえないものだ。この草地だって伸び放題で一見荒れているけど、刈りそろえればきっと美しい緑の広場になるのではないだろうか。
そんな風に足元の草を眺めていて、俺はあることに気づいた。
――魔法陣の横から、謎の線が伸びている。
膝まで生い茂る下草にほとんど埋もれてしまっていたため、今の今まで気が付かなかったのだ。
浅く数センチの溝が掘られた地面に、魔法陣を描いているのと同じ赤黒い塗料を使って直線が形成されていた。
赤黒い線は魔法陣と直結し、まるでその一部を成しているかのようだ。
そのまま直線は草地を突っ切って、木立の中へと続いている。
これは、例のトンネルがある場所とは正反対の方向だな。
何となく、確信めいた予感がした。
この線の続く先に、何かがあるのではないかと。
------
予感は的中した。
問題の線を追っていったその先、崖には――巨大な石の門があった。
魔法陣から伸びたこの赤黒い直線は、草地を突っ切り、さらに木立の中を直進し続けた。
そして最後に、木立を抜けたその先、盆地を取り囲む断崖に突き当たったのだ。
要するに、予想外に長い線だった。
途中で見慣れない果樹が生えていたりして、意志の弱い俺は、何度か謎の線なんぞ放り出して植物観察でもおっ始めそうになったくらいだ。
さて、その問題の長い線の先にあった石の門。
崖の壁面に形作られた、高さ5・6メートルはありそうな、重厚で巨大な門だ。
その扉は固く閉ざされている。
ごつい門扉には、これまたごつい魔法陣めいた紋様がでかでかと刻まれていた。
ただ、この魔法陣からは、別にそう邪悪な印象とかは受けないな。
軽く観察してみたが、本当にただ純粋に複雑な組み合わせの幾何学模様、という感じだ。
うん。美しいデザインだ。
……いや、最初の魔法陣の方のビジュアルが酷過ぎたせいで、補正がかかっているだけかもしれない。
地面の赤黒い線は、ぴっちりと固く閉じられた門の下を通って、さらにその奥へと続いているように見える。
つまり、何かがあるとすれば、この石門の先ってことだろう。
「しかし、まいったな……。軽く詰んじまったんじゃないだろうか、これ……」
門には鍵穴も、取っ手すらもないのだ。
周辺に開閉装置がないかひとしきり調べてはみたが、装置どころか開閉手段のヒントすら何も見つからない。
門なのだから、開くのは間違いないと思うのだが。
断崖の石門は、でかくて立派だ。
イメージ的には、まさに“封印の門”といった風情である。
人智を超えたゴリラのパワーなどは持っていない俺。到底こじ開けることはできない。
そもそもこの門は、人力で開閉することを想定しているのだろうか。
石材の重さってよく知らないけど、このサイズだと確実にトン単位はあるよな。
あ。そういえば、墓石の重量が1セットで、1トンぐらいは行くと聞いたことがある。
だとすれば、この超巨大な石の門の重さは――
…………。
俺はがっくりと肩を落とした。
脱力しつつ、門扉に刻まれた魔法陣めいた紋様を眺める。
脳裏に浮かぶのは、最初に見つけた邪悪な方の魔法陣だ。
「ひょっとして、この石の門も魔法的ミラクル謎パワーで開閉すんのかなぁ……」
あの魔法陣を出ようとしたときに感じた、不思議なバリア的謎パワー。
わりと現実的かつ常識的な思考を持ち合わせている俺が、魔法なんていう突飛な考えをあっさり許してしまっている理由はここにある。あれは静電気などの、俺が知っている物理現象という感じではなかった。明らかに、何だかよく分からないモノだった。
いずれにせよだ。
俺に現状、この門に対する打開策はない。まことに残念ながら。
「これは完全にどうしようもないな。別の場所を当たるか」
俺は不思議な魔法陣が描かれた門を見上げた。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「魔法なら、呪文で開いてくれれば苦労はないんだけどなぁ。
〈開けゴマ〉 ……なんつって」
……――みしり。
最初に感じたのは、そう。言葉を発したときの、違和感だ。
俺がふざけて〈開けゴマ〉と口にしたその瞬間、本当に微弱なのだが、空気が……いや、周囲の空間自体が軽く震えたような気がした。
続いて認識したのは、ほんの少しの、喪失感めいた不思議な感覚。
俺の中から極々微量の何か、パワーのようなものがすっと抜けていくような気がした。わかりやすく言えば、あれだな、すかしっ屁が出たときみたいな感じかもしれない。
いや、うん。下品な例えをしてしまった。俺らしくもない。申し訳ない。
……――みしっ みしり。
何かが軋むような音で、くだらない思考から現実に引き戻された。
音の発生源は扉の中心部、魔法陣のあたりからだ。
おや、まさか先ほどの呪文パワーでゲートオープンしてくれるのかい?
別に真面目な期待もせずに門を見上げる俺。
まぁ、石材だってきっと、古くなれば軋んで音くらい出すわな。
しかし、視界に飛び込んできた光景に、ぎょっとして目を剥いた。
門扉に刻まれていた魔法陣が、赤く光って……、いや、これは、赤熱している。
魔法陣周辺から熱気が吹き出し、陽炎がゆらめく。
放射されているのが視覚で分かるレベルの熱だ。
というか、近くに立っている俺も暑くなってきた。
いや、それだけじゃない。
門を構成する石自体が、音を立てながら、ねじれ始めている。
はげしい軋み音を出し、ものすごい握力で握り潰されているかのごとく、石門が窪んで、ねじれつつあるのだ。
すさまじい圧で石がねじれそうになる度、扉の魔法陣がまるでそれに抵抗しているかのように、ひときわ明るく発光を繰り返し、激しい光と熱を放つ。
な、何が起こっている……?
耳に聞こえるその音は、既にもう、ミシミシなんて生やさしいものではなくなっている。
バキバキと、まるで背骨が折れるような音だ。
そして、その骨ごと、何かに咀嚼され、貪り食われているような――
これは、まるで断末魔だ。
そう、石門全体が、断末魔の悲鳴を上げている。
門扉は威容を誇った魔法陣ごとめきめきとひび割れ、その状態から、圧力にあらがいきれずについに歪にねじれる。
抵抗むなしく何か圧倒的な暴れる力を突きこまれたようなそれは、無残にもねじ伏せられ、こじ開けられ、そのまま、ついでとばかりに柔らかな粘土細工のごとくひねり潰されようとしていた。
その光景は、まさに、地獄。
え? ちょっと待ってくれ。
一体何なのだこの現象は。
もしかして、俺が〈開けゴマ〉なんて言ったせいで、こんな事になっているのか……?
いや、違うだろう。さすがにそれはない。
俺は常識的な判断ができる男だ。
だが、タイミング的に……。
や、ないない。うん。絶対違うだろ、これは!
大体だな、開けゴマなんてのはおとぎ話のウソ呪文の、しかも適当な日本語翻訳版じゃないのか? 効果なんてないはずだ。かといって、俺自身がこんな超常現象を引き起こすサイコパワーを秘めていたなんて話も、今まで聞いたことがないぞ。
それに呪文を唱えたときに俺が望んでいたことにしたって、何かもっとこう、パカッと扉が開いてくれたらうれしいな、的な、純朴でメルヘンな少女のごとき美しい願いだったのだ。
そうだ。こんな邪悪なゴリラパワーで貴重な遺跡の石造建築を破壊したいなんて、そもそも俺は1ミリも望んでいない。
……うん、やはり違うな。俺のせいのはずがない。
これは何かの偶発的な事故だ。決定。今、そう決めたぞ。
俺が一つの決定を下し終えた、ちょうどその時。
かつて荘厳な石門だった物は、“黒っぽく変色し”、ぼこっと膨れあがった。
そして、そのまま内圧ではじけるかのごとく、魔法陣があった中心部の位置からびろんと五つに裂けて外向きにめくれ返った。
五つの花弁が生み出した巨大な口から、うす暗い洞穴の内部が、ぽっかりとさらけ出されている。
その様子はまるで、どろどろと赤熱した黒い百合の花のようだ。
というか、何で変色したんだこれ。めっちゃ気持ち悪いんだが……。
こうして、洞穴を守護する巨岩の扉が今、開かれたのであった。
しかし、開き方がほとんどグロ画像である。
悪趣味すぎるだろう、これは。子供が見たら確実に泣くぞ。