24-4 魔法少女には寛容に
エルフ族の精霊戦士、リリームはひとしきり笑い終えると、杉の木から地上へと降り立つ。
異世界にやってきてから、リリームの心は今が一番心が晴れ渡っている。笑い過ぎて気怠いまま元の世界に戻りたい欲求は強い。が、誇り高き森の精霊戦士は、敵の死亡を確認しないまま帰還するようなヘマはしない。
頭部に矢を何本も射ち込んで即死は確定的だったとしても、死亡確認を怠る理由にはならない。仮に死んでいたとしても、魔界の魔族であれば時々復活してしまうので、遺体を完全に損壊させておく必要がある。
人間族相手に慎重になり過ぎている己に、リリームは屈辱を感じているが。
――美しい顔を夜叉の如く強張らせて、慎重に、ゆっくりと、リリームは山の斜面を歩いている。
しかし、リリームにとって、あの殺したマスクの男は、勇者レオナルド以上に憎悪するべき生物だ。低俗で下品なレオナルドは、人間族の標本と考えれば怒りはすれど無視はできたのだ。
一方で、マスクの男はリリームに最大級の辱めをもたらした。その所為でリリームは森の種族しての品質が損なわれ、大きな欠陥を抱える事になってしまった。許されるはずがない。
――リリームは数十メートル進むごとに、木の影で周囲の気配や『魔』を確認する。呼吸を整えてから鈍足に進む。
どの種族よりも知的で、美しい森の種族。
森の種族の若き精霊戦士として、エリートコースを征くリリーム。
生まれと実績に絶対の自信を持っていたリリームは、マスクの男がもたらした呪いの所為で、すべてを滅茶苦茶にされてしまった。
何故なら、リリームは――。
「ッ!」
リリームの背後で、枯れた木の葉を踏む音が響く。
小動物が住処に逃げ込んだ音だと即座に判断する。が、リリームは酷く慎重な女だ。背中を震わせ、耳を必要以上にビクリと立てらせてから気配を確認した。
一分以上経過してから硬直を解き、リリームは再び歩き始める。
「ひぃッ、また音!?」
今度は別の場所から、無害な小動物が移動する音が聞こえた。異世界にやってくる前までのリリームだったら乙女のような声を上げず、足を止めなかっただろう。
けれども、リリームは慎重なのだ。
夜の闇や森の木、雑草、斜面。森の種族にとってはホームグランドとも呼べる大自然に囲まれ、リリームは心拍を抑えきれない程に気を配っていた。
例えば、木の洞の中から、青い腕が伸びてくるかもしれないから、目を凝らしてそんな妄想を否定する必要がある。
例えば、雑草地帯の向こう側から、赤い血だらけの死体が走ってくるかもしれないから、弓を構えて牽制しながらでないと進めない。
例えば、枯葉が堆積している地面に、灰色の井戸が隠れているかもしれないが、そんな一番のトラウマは想像したくもない。
「マスクのアサシンッ、お前の所為だ。お前の所為で私は森の種族なのにッ」
リリームは森に怯える己の体を、爪を立てた手で抑え込む。
「森が、怖くなってしまったッ! 全部、お前の所為だッ!」
廃墟の地下室でマスクの男に掛けられた呪いにより、リリームの森の種族としては人生は絶たれてしまった。
真っ暗で何も見えない地下室の中で視聴させられた呪いは、精霊戦士であるリリームの気を失わせる程に強烈だった。だから当然、気を失わせる程度の呪いで終わるはずがない。
後遺症を自覚したのは、勇者レオナルドとマスクの男が戦闘している隙を突き、月桂花からもどうにか逃げ延びた後である。
森の種族が安心できる場所と言えば、森の中である。
それなのに、潜伏先の森で奇妙な寒気をリリームは感じてしまった。異世界の森が自然破壊の影響を受けているからだ。こう最もらしい理由で納得し、より深く山林を進み、ジャージを脱いで隠してあった装備に着替える。
そうやって時間が過ぎていき、夕日が見え始めた頃にリリームは見てはいけない物を見てしまったのだ。
過去に誰かが住んでいたと思われる廃屋と、傍にある灰色の井戸を。
リリームに植え付けられた呪いは瞬間的に発芽した。井戸だけでなく、誰かが這い出てきそうな井戸がありそうな森そのものが恐ろしくなっていく。
虫の羽ばたく気配が怖い。
枯葉を踏み鳴らす音が怖い。
自然の清涼感が怖い。
金切り声を上げならリリームは森から逃走する。その日は空気が澱んでいても、電光に照らされて明るい街中で一晩を過ごした。
「マスクのアサシンを完全に始末すれば、この呪いから、解放されるッ」
本当は森の奥に入っていくマスクの男を尾行する事さえも怖くて怖くて仕方がなかった。
それでも、こうして暗殺を成功できたのは、リリームは心の底から呪いを解きたいと願っていたからだ。
海の水が怖いと言いながら溺死する魚は、きっと魚類すべてから侮蔑されるだろう。呪われたリリームも、解呪しないまま元の世界に帰還すれば、森の種族全体から笑われる。最悪、恥さらしは殺される。
術者を始末したからといって呪いが解けるとは限らない。そんな事は、魔法も嗜んでいるリリームは熟知していたが、最悪でも復讐という目的だけは果たしておきたかったのである。
慎重という名で着飾った森への恐怖の所為で遅れに遅れたが、ようやく、リリームは憎いマスクの男の死体の傍に到着する。
死後硬直が開始しているレオナルドに抱きつかれたまま、マスクの男は首を反らして死んでいる。矢の先は頭蓋の奥まで突き刺さっている。これで人間族が生きているはずがない。
マスクの中心を矢が何本も射ぬいている。恐怖に負けなかったリリームの弓の技量が、マスクの男を殺害したのだ。
森は怖くても、己が作り上げたマスクの死体は喜ばしい。リリームの顔は喜色満面となっていった。
リリームのトラウマは外的要因があったにしろ、深刻化したのはリリームの自己暗示的なものが強い。
だから、マスクの死体を確認すれば、もしかすると本当にトラウマを払拭できた可能性がある。
……しかし、リリームは完璧な間違いを犯してしまった事に、まったく気付いていない。
マスクの中央に複数の矢が刺さっていた所為だろう。
独りでに、マスクは真ん中から二つに割れて地面に落ちていく。地獄の門を閉じていた南京錠が割れ、封印が解かれてしまったかの如くマスクが落ちていく。
「……し……し……深淵よ。深淵が私を覗き込む時」
ふと、マスクの死体は間違いか何かで言葉を呟き始める。
「私もまた……深淵を覗き込んでいるのだ」
光の透過率ゼロの真っ黒い空間が、マスクを失った死体を中心に発生する。有効範囲内にいたリリームは内部に取り込まれる。
直後、顔の喜色を凍結させるリリームに対して一閃が走った。
この一閃でリリームの首が絶たれなかったのは、リリームが尻餅を付いたためである。戦士としての日頃の鍛錬が体を動かしたというよりは、年相応の未知に対する恐怖がリリームの生命を繋ぎ止めた。
山の斜面を滑り落ちていき、真っ黒い空間からリリームは落ち延びる。
獲物を追うように空間は靄を伸ばすが、射程が五メートルであるため早々に諦めて消失していく。
「なっ、何が起きて??」
リリームは空間が消えただけで安心するべきではない。見えない空間の内側で、マスクを失った死体はレオナルドの拘束から逃れていたからだ。
死体の顔の上半分を見て、リリームは魂を吸い込まれていきそうな予感に立ち眩む。
「何なんだッ、あの顔の穴は何だ! そもそも、何なんだお前はッ!」
「…………言ってしまって、良いのか?」
「ひぃッ、くるなアあアァッ!!」
死体……いや、正体不明の何かが質問に質問を返した。
質問する事すらタブーとなる存在と、リリームは対峙した経験がなかった。そんな上級神秘と出遭っていて、精霊戦士ごときが生き延びられるはずはないが。
リリームはついに恐怖を発症した。今度こそ培った肉体を駆使して、正体不明の存在から逃走を開始する。
しかし、長い金色の髪を振り回しながら走る少女に、戦士としての誇りは見受けられない。筋肉の動かし方も滅茶苦茶だ。敵に背中を見せて逃げる様子からも、リリームが半分以上正気を失っていると傍目にも分かってしまう。
「ひぃ、イヤ、ああああああああッ!!」
風を斬る音と共に、投げナイフがリリームの長い耳の傍を通り抜けいく。
正体不明が本当に攻撃を外したのか、無様なリリームで遊んでいるのかは分からない。顔に大穴が開いていて表情が読み取れるはずがない。
ただ、リリームの恐怖の倍化には成功する。とうとう、森の種族を象徴する弓さえ放り捨てて、リリームは一心不乱に駆け出した。
斜面を滑りおり、その途中何度も足を取られて転ぶ。膝を血と泥で汚しながらであったが、リリームはようやく出口に到着する。
山と森が途切れて、川岸と思しき小石の地面が見えてきたのだ。森から逃げ切れたら、それで正体不明がもう追いかけてこないという保証はどこにもないのに、リリームはゴールが見えた事で安堵してしまった。
そんなリリームが苛立たしかったのか、正体不明はリリームの無防備な背中を蹴り付けて、派手に転倒させる。
膝どころが、腕も顔さえも切り傷だらけになったリリーム。ただ、その程度の傷で、矢で頭を貫通された正体不明が許すはずがない。
森の境界線まで残り一メートルの距離で、正体不明はリリームを仰向けに押し倒す。そのまま細見の上半身に馬乗りして、ナイフを首に押し当てて命乞いを迫った。
リリームとしては、ナイフ以上に大穴のある顔を眼前にしている事の方が怖くて、涙声になってしまう。
「いやァ! そんな顔を、近づけるな!」
「お前が空けた穴なんだぞ。そう怯えてばかりいると、苦しめたくなるだろ?」
「離してッ、助けてッ」
「強姦されている訳でもないのに、喧しい耳長族だ!」
正体不明は、ナイフを持っていない方の手でリリームの口を掴んで言葉を封じる。
「この顔の穴の奥へと、リリームは沈んでいきたいか?」
正体不明はイエスと答えるはずのない質問を親切に聞いて、リリームは首を横に何度も振る。
「……まったく、ナイフで首が斬れるぞ? 散々、邪魔してくれたのに、勝手に死のうとするなよ」
ナイフで脅す必要はないと判断したのだろう。正体不明はナイフをリリームの耳の近くの地面に突き刺して、代わりにもっと顔を近づけた。キスができる距離であるが、いやらしさは皆無だ。
「俺に殺されても仕方がないと、リリームも思うだろう。俺だけでなく、俺の魔法少女も殺そうとしたのに、なあ?」
首を掴まれて、リリームの喉は狭くなる。
ただ、恐怖で瞳孔が開きっぱなしの少女の瞳を見た正体不明は、喉を握り潰そうととしていた手を緩めていく。
金髪の少女の泣いた顔に、正体不明は語りかける。
「殺す前に一つ聞いておく。リリームは、魔法をつかえたよな?」
反応は微かになっているが、リリームは肯定の意を伝えた。
「――はぁぁぁぁぁ、あーもー、分かった。それならリリームも魔法少女だ。な?」
リリームに同意を取っているようで、実は一人で勝手に納得しているだけの正体不明。彼は顔の殺気を溜息一つで吐き出すと、リリームから離れていく。
立ち上がった正体不明は、どこからかスペアのマスクを取り出すと、慣れた仕草で顔に装着する。
これで正体不明は、いつもの御影に戻る。
「リリーム。もう異世界に帰れ。異世界にもうかかわるな」
オーリンを暗殺するという目的を達成できず、ロバ一匹を脅して解放した。そんな時間浪費に、御影はガクリと肩を落とした。