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2-3.煉獄篇第一歌/秩序の守護者、あるいは混沌の殺戮者(前編)




 どれだけ無様であろうと、生きることはそれだけで尊い。

 意味も価値もいらない。惰性で日々を繰り返し、果たされない約束を想いながら空虚に生を永らえるだけだとしても、ただ世界に存在するだけで命は祝福されている。

 などと思えれば良かったのだが、生憎とそこまで達観できていない。


 これでも俺には目的がある。

 失った左手を補う義肢もそうだが、半年前に共に戦った仲間・アズラの無事を確かめたいという思いは変わっていない。

 そしてもうひとつ。確かめなければならないことがあった。

 耳に残り続ける冷淡な響きを思い出す。

 転生した直後に繋がった非局所性間世界通信(アンシブル)は俺にこう告げた。


 『あなた以外の転生者はみな殺害されています』と。


 あれから繋がらない通信。転生者の情報構造体ミメーシスを格納した『墓標船』の事故。予定に無い漂着。散り散りになった多くの『魂』。船内で言葉を交わした彼ら彼女らは本当に死んでしまったのか。ベアトリーチェ、ゾーイ、センジュ、ゼイビア、その他にも沢山いた転生予定者たちがひとり残らず殺された? 量子力士スモーレスラー不死童ブシドー変異忍者バイオニンジャまでいたというのに、いったいどうやって。


 もしあの言葉が事実なら、この世界には転生者を殺す何者かがいることになる。

 だが手がかりを掴もうにも見知らぬ異邦で人を探すのは難しい。

 目の前には『魔都』とでも呼ぶべき第五階層の猥雑な人混みがある。極彩色の肌模様は赤褐色、黒、白、黄褐色、青など前世でもよく見かけたものから岩、鱗、獣毛、甲殻、樹皮といった目新しいものまでバリエーション豊か。混沌の坩堝を眺めて立ち尽くす。

 そのあいだは微動だにしない。街路樹さながらの直立不動。

 站椿功たんとうこうだと思えば修行気分や達成感が得られるかとも思ったが自分を騙すのにも限界がある。


 たまに慈悲深い者が立ち止まる。彼らは俺の左腕にある欠落に気付くと足下の小鉢に硬貨を投げ入れ「よっしゃ善行ポイントゲット」などと言いながら立ち去っていく。俺はそのたびに跪き頭を地につける。この虚しい修行で許された唯一の休憩時間である。

 と、施しを行ったばかりの人物が向こうの辻で立ち止まっているのが見えた。浮遊する絨毯に禍々しい木彫りの装飾具を並べた露天商に端末を提示して「ポイント払いで」などと言いつつ商品を受け取っている。どういうシステムなんだあれ。

 というか俺は何をやっているのだろう。


 ふと、ほんのわずかな違和感に気付いた。移動式浴槽に浸かった呼び込みの人魚、肌も露わな背中から煌びやかな蝶の翅を生やした花売りたちに混じって、灰色の翅がひらひらと飛んでいく。

 くすんだ色の蝶はある一点に留まる。

 それは予兆だったのかもしれない。視線が吸い寄せられていく。


 色彩が移り変わる。灰の翅に強い金属光沢が加わり、輝くような白銀へ。

 蝶が新たな止まり木に選んだ白銀の甲冑、その色が伝染したかのような現象だった。

 立ち止まった鎧姿の騎士は、兜をしていなかった。露わな顔立ちは端的に言って美男子のそれだ。


 同性の俺でさえ息を呑むほどの造形。ギリシャ彫刻のように整った精巧な顔立ちはまるで美術品のようだ。流麗な線が作り出す表情には硬質な意思が浮かんでいる。

 思わず目を引きつけられるほどに華のある男が、こちらを真っ直ぐに見つめていた。

 こちらの精神を射貫くかのような灰色の眼光。視線というものに物理的な力があれば、俺は貫かれていただろう。心臓が止まるかと思うほどの威圧感。


 その場に縫い止められたかのように身体が動かない。いや、身体は動けるはずなのだが、心が動けなくなってしまっている。

 致命的な相手と出会ってしまったという確信だけが脳内を駆け巡り、それでいて全く行動が起こせないというもどかしさが苛立ちを募らせる。


「君は、このままならない世界に不満を感じているか。その鋼鉄の腕で新たな時代を切り開き、異端の知識で古き文明を一掃したいとは思わないのか」


 鋭い問いかけだが、意味がよくわからない。

 時代だの文明だの、大層なスケールで話を展開されても困る。

 俺にそんなことはできないし、興味も無い。

 黒い本が俺の言葉を光に包まれた文字列へと変換し、相手の前に並べていく。


「世界に全く不満がない奴なんているのか? 明日の食事がもう少し豪華になりますように、って夢なら持ってはいるが、その先のことまではわからない」


 俺の答えを受け取った男は目を閉じて小さく息を吐いた。

 安堵するかのように、漲っていた緊張が解けていく。


「それならいい。君がそのまま、秩序の敵にならないことを祈っている」


 美貌の騎士はそれだけ言うとその場を立ち去っていった。

 目の前に置かれた小鉢には、いつの間にか一枚の紙片。

 背景には複雑に光を反射する虹。猟犬を伴った若い男が描かれた長方形の紙きれには複雑で精巧な『透かし』が入っており、複製困難な紙幣であるとわかる。

 

「偽造、じゃないよな」

 

 しげしげと眺め、周囲を見回してからそっと懐に入れる。

 違う。仕方が無いのだ。この小鉢に入れた金はほとんど俺の稼ぎにならない。このくらいの判断は許されてしかるべきだ。だいたい俺はこういうやり方には馴染めない。

 誰に釈明するわけでもないが、こうして物乞いに身をやつしているのには事情がある。

 それは怪しげなクライアント、呪術医のトリシューラから請け負ったある依頼が切っ掛けだった。内容は単純。とあるコミュニティに潜入し、『ご神木』を守り抜くこと。

 その過程で俺が選んだ手段、それは『達人』に弟子入りするという道だった。

 



 広大な異空間、外界から隔絶された異界を内包する尖塔、世界槍。

 その中心に広がる第五階層はかつて静謐な森が広がる地であったが、この半年で大きくその様相を変化させていた。

 大きな河を中心に森は切り開かれ、様々な者たちが集まった結果として街のようなものが出来上がったのである。


 主な目的は森の奥に存在する謎めいた遺跡の調査と探索。

 そして階層を支配しようと勢力を拡張する複数のならず者たち。

 やくざ、マフィア、ギャング、犯罪組織、呼び方はなんでもいいが、とにかく黒社会で暴力を生業とする連中が集い、探索者たち相手の商売と組織間の抗争を繰り広げる。

 普通に考えれば平穏な生活などというものは望めない。


 だが、その場所に居を構える集団は違った。

 街の外に繋がる広大な森への出入り口であり、貴重な水源でもある河川の通り道。

 狩猟、採集、伐採、集住、もしかしたら農業も安定して行えそうな理想的な土地。

 そこで暮らしていたのは枯れ木のような肌をした植物的な姿の種族だった。


「彼らの名はティリビナ人。他の異称には樹木人、樹人などがあります。枯れ木人は蔑称とされているのでご注意を」


 黒い本がひとりでに浮かび上がり、そんな文字列を白紙に浮かべてきた。

 この本は普段は自動翻訳に徹してくれているのだが、時折こうして重要な知識を教えてくれたりするのでかなりありがたい存在だ。肩の上でまんじゅうみたいなフォルムの黒い怪物が「ギュゲゲ」と鳴いた。はいはい、お前もいるのは忘れてないよ。


 とはいえ小さな怪物の見た目はかなりひと目を惹くし、場合によっては敵意も招く。こいつには悪いが、腰の持ち物袋に隠れていてもらうとしよう。「ゴアギョア」と不満そうに鳴く怪物に謝罪していると、今度は別方向から濁声が聞こえてきた。


「とっとと立ち退け言うとんのがわからんのかクソボケ、この枯れ木野郎どもが」


 荒々しい叫びと共に歪なフォントの字幕が表示される。

 言うべきでない差別用語を胸に刻んだ直後にこれだ。

 街の外れに来ても中心部と変わらぬ治安の悪さ。無政府状態だから当然ではあるが。

 どうやら都市開発事業に伴う用地収用のための交渉が目的らしい。

 別名、地上げ。


 遠くから見たところ、ティリビナ人たちのコミュニティに押しかけて恫喝と挑発を繰り返しているならず者たちはヒレのような耳をした魚じみた連中だ。

 俺が闘技場で飼われていた時に多く目にした種族。俺は勝手に魚人と呼んでいる奴らの組織はこの街における最大派閥のひとつだ。


「『海の民』と呼ばれる種族です。あそこにいるのは海運業や漁業を軸とした黒社会の勢力であるため、河川への執着がとりわけ強いようです。この街の上下水道インフラ事業に真っ先に手をつけてある種の『社会的信用』を確立できたのもそうしたノウハウを有していたからと思われます」


 という『断章』の解説を裏付けるように、ならず者たちは巨大な銛などを持ち出して実力行使をちらつかせていた。なるほど、どんな世界でも犯罪者は密漁や密輸に手を出して肥え太っていくというわけか。

 助けに入ろうと一歩踏み出した俺だったが、その心配は杞憂に終わった。

 

 いかにも硬そうな外皮を持つティリビナ人たちはぞろぞろと雁首並べて威嚇するごろつき連中には全く臆していない。正面切って戦う気構えは十分といった雰囲気。

 だが俺の目が真っ先に吸い寄せられたのは、彼らの中心にいた人物だ。

 その人物はさほど体格に恵まれているわけでもなく、目立った行動を取っているわけでもなかった。しかし奇異な特徴がひとつ。

 両腕が、なかった。


 戦うことなど到底できそうもないその人物の姿にごろつきたちは嘲笑を浮かべ、俺もまた『非戦闘員』というレッテルを貼った。

 次の瞬間、屈強な海の民たちが宙を舞い地に臥せる。

 何が起きたのかもわからずに逃げ帰っていくごろつきたち。

 俺は呆然とそのティリビナ人の姿を凝視していた。


 重心を真下へと落とした肩幅程度の騎馬立ちはさながら地面に立つ杭の如く。

 世に流派の数あれど、この不動の構えを崩すには一手や二手の小細工では到底足りぬ。

 積み重ねられた日々の基礎鍛錬、その重みを体現する立ち姿だった。

 俺は見続けた。両腕のない、その達人の姿を。


 存在しない左腕が疼く。

 気付けば俺はその男の前に跪き、叩頭していた。

 確信がある。この腕を失った達人こそ、俺が師と仰ぐべき先駆者なのだと。


「どうか、この腕の御し方を教えて欲しい」


 ティリビナ人たちは頭を下げる俺が隻腕であることを認め、神妙な表情になった。


「また物好きが来たか」「この間の男といい、軽々しく弟子入りを許すのはいかがなものか。ミューブランの至尊と謳われた老師の教えだぞ」「だがこの男の腕を見ろ。生半可な覚悟ではあるまい」「老師、いかがなさいますか」

 

 達人の視線は俺の左腕に注がれていた。存在しない左腕に。

 やがて彼は厳かに口を開く。嗄れた声が重く響いた。


「強さとは何か。それは拳のみにあらず」


 試されている。そう感じた俺は一瞬だけ考え、すぐに答えた。


「心、ですか」


 渾身の回答。直後、右方向からの攻撃予測表示。アラートに従って反射的にガードした右腕を砲弾のような一撃が襲い、俺の上半身を真横に吹き飛ばす。

 片足を持ち上げた態勢の達人が冷ややかに告げる。


「蹴りじゃ。未熟者」


「組み技や投げ技、寝技もあるのでは?」


 奇襲のような正答だが動揺は顔に出さない。『七色表情筋トレーニング』アプリが作り出す不敵な顔と余裕のある雰囲気で達人を挑発。

 ティリビナ人は鼻で笑いつつこちらへの関心を取り戻す。


「このフームを前にして口が減らぬ小僧め。我が腕を見てよく抜かしおるわ」


 無礼で向こう見ずだが骨はある。そんな自分を売り込めたのかどうかは定かでは無いが、達人にとってその受け答えは間違いではなかったらしい。

 俺はその日から、彼のそばで過ごすこととなった。

 存在しない腕を操る達人の技を学ぶために。




 義肢を試した。

 張りぼての腕、懸垂用フック、仕込み槍、香辛料を詰めた風船、爆竹入りの筒。

 その全てが、ことごとく爆発四散して使い物にならなくなった。

 後半は爆発する特性を利用できないかという試行錯誤の結果である。


 何故そうなるのかはわからない。

 別の世界から持ち込んだ右の義肢がどうして爆発しないのかも不明である。

 何度か実験を重ねた結果、得られた知見はこうだ。

 どうやら、形ある義肢は『形のない幻肢』と同時に存在できないらしい。


 失われた部位は脳の錯覚により架空の触覚となって現れる。いわゆる幻肢痛だが、それが物理的な形で頭蓋骨の外に影響することは本来あり得ない。

 しかし、魔法やらオカルトやらが平然とまかり通っているこの異世界においてその『存在しない腕』は奇妙な実体を獲得してしまうようなのだ。


 架空の痛みとして出現する亡霊の腕。

 遙か先に遊離していたり、肘や肩口に埋没していたりと不条理な振る舞いをみせるこの幻肢は実在の義肢を押し退けて破裂させてしまう。

 突然の破裂は幻肢の感覚を強く意識すればするほどに発生しやすくなるようで、ある程度のコツがわかれば任意のタイミングで仕込み義肢を炸裂させることも可能だった。


 とはいえ不意の暴発には悩まされるし、入眠後の突発的な激痛は痛覚制御すらままならず悩みの種。幻肢を制御する手段が切実に欲しかった。

 だから呪術医トリシューラの『とある達人のもとで制御方法を学べば義肢が使えるようになる』という言葉はまさに福音だった。


「ついでにそこでティリビナ人たちが守っている『ご神木』を一緒に守って欲しいかな。修行のついでに護衛のお仕事できるなんて、一石二鳥だよね」


 などと言っていたが、もうひとつの目的に関してはどうもしっくりこない。

 達人があまりにも強すぎるのだ。その教えを受けている門弟たちだってかなりの手練れ揃いだし、俺一人が加わったところでさしたる戦力にはならないのではないか。


「そこで見ておれ。これも見稽古よ」


 両腕のない達人ことフーム老師は向かうところ敵なしだった。大地を踏み割るような独特の歩法からの肩からのぶちかまし。長く伸び上がった脚による上段蹴り。いずれの所作も修練に裏打ちされた高い練度が窺えた。

 見事なものだ。

 やってくるごろつきの半数はあの肩と足技で叩きのめされていく。思い出して震えが来る。あの蹴りの重さときたら、巨大な鉄槌で横殴りにされたのかと思ったくらいだ。


 もし達人の技がそれだけならば力を流した上でより近い間合いに踏み込んで仕掛けていけただろう。だが彼の真骨頂はそこにはない。

 今回ティリビナ人たちを襲撃に現れたのは異なる勢力。

 雄々しい双角と同方向に伸びた耳、前方に突きだした鼻先がひくひくと震え、力強い二の腕は丸太のように太く逞しい。

 牛の頭を持った巨漢たちを牛人と俺は呼んでいたが、『断章』によれば彼らのことはモロクとかモロレクとか呼ぶらしい。またの名を悪鬼。もちろん蔑称だ。


 まさしく悪鬼羅刹のごとき咆哮を轟かせながら斧や棍棒を手に迫り来る。

 対する達人の身体は一見するとひどく頼りない。

 だが見るがいい。大地に根を張るその立ち姿の力強さときたら。


 下段蹴りが巨漢の膝を粉砕し、同時に飛ばした小石が正確に眼球を貫く。

 射かけた矢はことごとく躱され、振り下ろされた棍は踏み砕かれる。

 それでもなおと立ち向かい、取り囲もうとした者たちは達人の真骨頂を目撃する。

 俺は思わず身を乗り出した。


 はじめ、誰もがその意味を取り違える。

 重々しい震脚からの体重を乗せた背による一撃。

 完璧な体重移動は実戦的な目的を見定めた物理的な攻撃動作である。

 達人の動きはそれを確信させるものだったが、しかし違った。


 遠当て。

 それを可能とする達人が存在すると言われれば、その武術は大道芸の類だと判断していいだろう。サイバーカラテにも遠当てはあるが、それは投射武器を用いた物理攻撃、もしくは対サイボーグ戦闘における義肢クラッキングの応用でしかない。触れずに敵を倒すなど、身内が呼吸を揃えた上で行う道場用デモンストレーションでしかあり得ない。


 だとすれば、目の前で起きているこの現象は一体なんだというのだろう。

 存在しない拳打が、大男を吹き飛ばしていた。

 もしかすると掌打かもしれず、あるいは肘打ちということもあり得る。

 遙か間合いの外に立つ巨漢が腹を押さえて悶絶し、顎を打たれて足を浮かせ、金的を押さえながら泡と涎を噴いて昏倒する。明らかに鼻が潰れ、角が砕け、目が潰れて失明している者さえいた。


 達人は触れていない。独りで套路をなぞっていると言われればそれまで、鍛錬をしているだけだと主張すれば通ってしまいそうな有様だ。

 だが違う。彼は戦っている。実践の中で遠当てを使いこなしている。

 何が起きているのか。

 ごろつきどもは無意識に彼の協力者になっており、息を合わせてやらせの大道芸を共演してしまっているのか?

 

 ありえない。それとも、強い思い込みが肉体に影響するというやつの応用か。

 こんな話がある。『遠当て』を信じる者と信じていない者、二つのグループで実験を行った結果、信じる者は打撃の感触を確かに感じたが信じていない者は何も感じていなかったという話だ。強い思い込みや迫真の動作が遠当てされる側に『やられた』と確信させるのだとすれば、全く信じていない者や想像力の乏しい者には効力が薄いはず。

 だが達人の技は相手の状態には影響されない。


 仮説がある。

 この世界に特有の『幻肢が義肢を押し退ける』という現象。

 何故か俺の右腕に適用されないこの法則が、達人の遠当てに関係しているのではないか。もしかすると『幻肢』が義肢を破裂させる物理的作用、それを武術に転用する技法が存在しているのかもしれない。

 であれば、この世界を生き抜くために俺はそれを学ばねばならない。


 が、わからない。何度見てもさっぱり理屈が理解できない。

 確かなのは、達人の技には確たる足腰の鍛錬が基盤として存在するということ。

 両腕がない格闘家なのだから蹴り技はもちろん、肩や背を使った体当たり的技法が増えるのは当然のこと。動作の起点が地面や体幹にあるのだから拳も肘も肩も力を発する箇所の違いでしかない。重心の精密な調整、全身の筋骨を細やかに割って開き、力を過不足なく発するという運用思想はいかなる時でも変わらない。練り上げた勁力は腕を失おうと健在である。


 乱舞する不可視の拳撃をかいくぐって手練れの牛人が肉薄する。

 達人は強引なタックルを流れる水のようにいなし、背後から地を割り砕くようにして全身を叩きつける。あの恐るべき鉄山靠の威力あってこそ『幻の拳打』という錯覚が生じるのかもしれない。やはり幻肢の技、その要諦は足腰にあるのか。


 戦いが終わる。いつものように圧倒的だった。

 血気盛んな若者が木の槍を担いで倒れた牛人に近付いていく。

 とどめを刺すつもりだろう。

 だが、達人はそれを静かに制止した。


 不殺。達人の在り方を、俺ははじめ報復の連鎖が激化することを危惧しての判断かと思っていた。しかし違った。

 彼は地面に列を作る蟻を跨ぐ。肉を食わず、羽虫が周囲に群がろうとも振り払ったりしない。彼の不殺は状況判断ではなく、生き方の反映なのだ。


 暴力に依存して生きる俺のような人種とはかけ離れた精神性。

 理解はできない。しかし、正しいのは間違いなくあちらだという確信があった。

 そのように生きることができる彼が、少しだけ羨ましかった。




 達人の生き方は素朴で質素だった。

 日々の鍛錬の他は川や井戸からの水汲み、森での採取、それから街での物乞い。

 樹人たちは主に物乞いで生計を立てていた。

 最初、俺はこの行動を無駄と考えていた。

 この暗黒の街で他者を慮る余裕のある者がどれだけいるだろう。

 

 だが、施しの心というものは意外にも実践者の懐事情とはあまり相関しないものらしい。金を持っていても一銭も出さない者はいるし、腹を空かせていようとパンを分けてくれる者はいる。なにより、彼ら樹人の立ち姿は奇妙に絵になる。

 彼らは街角に真っ直ぐに立つ。

 地面に根を張るように、大地と共生するかのように、完璧な姿勢を維持したまま幾らでも立ち続けていることができるのだ。


 あるとき、品性のねじ曲がった大男が唾を飛ばして声を荒らげながらひとりの樹人を突き飛ばした。しかし微動だにしない。種族的な身体能力ゆえか。それとも達人の教えの賜物か。いずれにせよ、彼ら樹人が物乞いとして路上に立つことは磨き上げられた技を披露するのと同じ効果があった。


 敬意。他の集団に馴染まない異物ではあるが、異種族たちの樹人に対する視線には特別な感動があった。俺も同じ気持ちだからよくわかる。

 自由への憧れ。

 暴力が支配する街において、暴力に屈さずに生きることができる。

 あるがまま、誰にも支配されずに立ち続ける樹人たちの姿は自然な風景として街に溶け込んでいた。その姿はある意味で街路樹のようでもあった。


 達人は何かを積極的に指導したりはしない。

 ただあるがままに生きている。

 俺は物乞いとしての活動に不満を覚えながらも感情を押し殺し、じっと師の技を見続けた。その一挙一動が重要な情報だ。全ての行動を見逃すものか。


 俺の思惑とは関係なく、達人は今日も泰然自若と構えている。

 彼の生には動的な目的などはないのだろう。

 ただ生きる。生命とは本来かく在るべきではないか?

 我欲と執着に塗れた己の人生観を否定されるような気がしてくる。

 それでも不思議なことに、達人を眺めるのは嫌いではない。

 美しく雄大な風景を眺めるのに、どこか似ていたかもしれない。


「お前はなかなか根性があるのう。それとも捨てるような誇りが最初からないのか。前の奴はどうも物乞いが耐えられなかったようでな、途中でいなくなりおったわ」


 ある日、珍しくお褒めの言葉をいただいた。


「他の門弟の方々も話しておりました。俺の前にも弟子入り志願者が?」


「うむ。長い髪の、お前たちの基準で言えば中々の美丈夫であった。要領も良くてな、ありゃあ蹴りと内功はあらかた盗まれたな。もうここには用はないと考えたのだろう」


 俺にとっては兄弟子にあたる人物のことを回想しながら、達人は遠い目になった。

 不心得な人物かもしれないが、才能は本物だったのだろう。

 達人が手放しに誰かを褒めるのはそうあることではない。

 単に俺が不出来なだけかもしれない。


「良いか。ただ街路に立つのではない。人を見よ。人と人が立ち並ぶ世界。命からなる森を『観』じるのだ。さもなくば、心の手は届くべき深みには至らぬぞ」


 それは極めて稀な直接的な指導だった。

 俺に不足している態度。俺が乗り越えるべき課題。

 その曖昧な、しかし明確な指示内容についてしばし考え、俺はうなずいた。


「わかりました、老師」


 その日から俺は、乞食として街中に立ちながら道行く人々の表情と仕草のデータを徹底的に蒐集した。『七色表情筋トレーニング』が参照するデータベースに登録されていくありとあらゆる人間の外形的データ。『サイバーカラテ道場』内における心理戦メタプログラムと連携させるための情報が修行のために蓄積されていく。


 師の言葉、その意味を俺はこう解釈した。

 『人を見よ』とはすなわち対人戦略、特に心理戦を考えろということ。

 腕を使わぬ遠当ての奥義は、相手の精神状態に応じた気合いや発声で一種の催眠状態に陥らせる『強制的なやらせ』なのではないだろうか。

 ほとんどオカルトの域だが、そうであるのなら色々なことに説明がつく。


「うーむ。お前、本当に理解しておるのか?」


「はい。言われたとおり、励んでおります」


「なーんか噛み合っとらん気がするんだがなぁ」


 はきはきと返事をする俺を見て唸る達人だった。

 だが、そんな修行の日々は唐突に終わりを告げる。

 その来訪者達は善意と施しの義心を胸に、笑顔で現れた。

 彼らは神のしもべ。

 樹木を切り倒し、神の奇跡と教えを広める、正しい秩序の信奉者。

 そして、秩序の外にある異端を殺す正義の執行者。

 俺の天敵だ。




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[良い点] このバージョンのアキラくんはゾーイとかと知り合いなんですね 墓標船って移動中コミュニケーションとれる乗り物?だったんだ… ティリビナ人のコミュニティの内側に入っての描写は本編と違う感覚をテ…
[一言] 序盤の情報量で少し驚いたが、どういう目的で船を出向させたのか気になりますね。 殺された人達は本当にそこで終わってしまったのか。 現状は、言葉が通じるが、少し綱渡りな状態でもある感じですね。…
[良い点] 刹那さ纏ったフリしてクソみたいな闘争に自分の身を投げ入れるのアキラくんらしくて好き 最後の再開は店員さん大興奮では?
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