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2-1.夢と呪いのファンタジー

 



 誰も俺の言葉を理解できない。

 元来、異邦とはそういう所だ。

 仮に異言語と異文化をあらかじめ学んでいたとしても、『羅列された知識』と『体感する現実』との間に横たわる溝は深い。配慮の不足、不注意からの衝突、困難はいくらでも予想しうる。


 仮の話だ。それ以前に俺は言葉がわからない。

 だから周囲に満ちる熱気と歓声、どこからともなく響く芝居がかった長台詞の意味を理解することなど全くできない。それは俺の耳にとって獣の咆哮となんら変わらぬ大気の振動でしかないのだ。


 とはいえ、吼える獣の感情くらいなら俺にだってわかる。

 目の前で頭から血を流す巨漢の形相は雄弁だ。

 俺が背後から酒瓶でぶん殴ったそいつは、苦痛に呻きながらうずくまってこちらを睨んでいた。叫び声と唾、酒やらつまみやらが俺に向かって殺到する。避けない。甘んじて受け止め、挑発するように相手の復帰を待ち続ける。

 

 誰も俺を理解できない。俺は誰も理解できない。

 だが、少なくとも今の俺は孤独ではない。

 目の前で男がのそりと立ち上がる。

 俺の体格を遙かに上回る巨漢、ブルドッグそのものの頭部がくしゃりと歪み、叫ぶ。

 呼応して沸き立つ周囲の声。


 言葉の意味はわからない。だが意図するところは明白だ。

 最もシンプルで手っ取り早い共通言語、それが俺たちを繋いでくれる。

 重心を落とす。握りしめた芝居用の酒瓶をリングの外に放り投げ、散らばった飴の破片と血糊を足で払いながら低く構えた。


「来いよ、犬っころ。遊んでやる」


 ブルドッグ男が日本語を理解できるはずも無いが、伝わった確信がある。

 試合開始のゴングはそうして鳴った。

 大仰なマントを脱ぎ捨てる。布で包まれた両腕を広げ、待ちの構え。

 ブルドッグ男を挑発するように威嚇の叫び。

 ゴングの前に仕掛けた俺への反撃とばかりに豪快なキックが炸裂。こちらの右腕をとり、真上から叩き落とされるチョップが『延髄』に直撃。正確無比な肩叩きに体勢を崩され、そのまま投げ飛ばされる。


 たたらを踏んでロープに全体重を預ける。派手な虹色に輝くロープは弦のようにしなって俺という矢をつがえ、射出した。ブルドッグ男が横方向に突きだした片腕が俺の顔面を直撃。上体で受け止めた衝撃を使いながら引っ繰り返るようにダウン。手を使うようなわかりやすい受け身はもちろん取らない。派手にマットに沈む。


 主役の活躍に場内は沸騰する。

 飛び交う声援は『卑劣な外人野郎をやっちまえ、俺たちのチャンピオン』といったところだろう。場の空気がただ一人の活躍を期待して加熱していく。

 人種も、性別も、年齢も、階層も問わない。

 闘争の熱、力がぶつかり合うことへの期待。

 強く正しい闘技者への憧憬。リングの上には純粋な強さという夢が確かにあった。


 だがあろうことか、この場所にはそんな正しい闘技者を嘲笑う卑劣漢がいた。

 俺だ。

 飛び起き、棒のように真っ直ぐに伸びた左腕を振るう。

 ブルドッグ男の正面、テーピングで中身の見えない腕が爆発する。

 仕込まれていた爆竹が相手の目を眩まし、張りぼての腕を放り捨てた俺は飛び上がってドロップキックをお見舞いした。さしもの巨漢もたまらずに倒れ込む。


 はらりと布が解けて落ちる。

 がらんどうの左腕。手段を選ばぬ卑劣な隻腕の闘技者。それが俺の立ち位置だ。

 構え直しつつ重心を微調整。隻腕で戦う際に最も重要なのがバランスだ。

 助走の無いドロップキックで衝撃力を過不足なく伝えるのは難しい。今のは双方の呼吸が上手い噛み合い方をした結果だ。このブルドッグ男、評判通りいい目をしている。俺の技を正確に見切っていなければこういう受け方はできない。本物の闘技者、その在り方に思わず心拍が乱れる。


「どうした、来い! こっからだろうが!」


 日本語など誰にも伝わらない。だがその場にいる誰もが俺の言葉を理解できていた。

 この流れ、この場面でなら俺のコミュニケーションは成立する。

 ブルドッグ男が立ち上がる。どれだけ卑劣な攻撃を受けようとも堂々たる在り方を見失わない、この男こそが真のチャンピオンだ。


「よっしゃ来いっ!」


 応じるようにチャンプが吼える。観客が拳を握る。

 闘争の熱がリングの内と外に伝播し、言葉と咆哮の境界は溶けて消え、意思はただ肉体によってのみ示されていく。

 お互い技は避けない。攻めて受ける。受けて攻める。

 力と技の応酬、このリングが求めているのはそれだけだ。

 腰から掴まれれば俺も跳び上がって持ち上げられる。

 上昇は下降の前振りだ。叩きつけられなければ期待外れもいいところ。


 でかいブルドッグ男がこちらの上を跨ごうとすれば、小柄な俺は屈んで股の下をくぐる。衝突と交錯をテンポ良く繰り返す。試合のスピード感を疾走によって演出。跳躍して仕掛ければカウンター。互いにリングを駆ければすれ違いざまに肘を叩き込む。荒っぽい蹴りが放たれれば足を掴んで捩るように巻き込み倒す。


 左腕が無い上に体格で劣る俺はまともに組み合えば不利。

 絞め技を振り解くための強烈な肘打ちと頭突き、時には口から緑色の毒霧を噴いて窮地を脱し、リングの外からパイプ椅子を持ち込んでのラフプレイ。

 それでもブルドッグ男は倒れない。得意の間合いに持ち込まれ、俺は締め上げられてしまう。圧倒的な体格差と巨大な存在感。まともな脱出は不可能に近い。


 そこで俺は身体を揺さぶり、腕先をブルドッグ男の股間にぶちこんだ。

 内腿への金的。手首の返しで打撃点を太腿側に逃がす技がある。

 『外人闘技者』の卑劣なラフプレイ。会場に大ブーイングの嵐が吹き荒れた。

 耐え難い激痛に悶絶するブルドッグ男。中々いい表情と呻き声だ。

 卑劣で残虐な俺はダウンした相手に過剰な追い打ち。


 容赦の無い踏みつけを繰り返す俺をレフェリーが止めようとするが、俺の軽い突き飛ばしで倒れた彼は頭を打って昏倒してしまう。審判員がいなくなったリングの上はまさにルール無用の死闘の舞台。もはや闘技者の誇りなどどこにもなかった。

 再び持ち込まれた芝居用の酒瓶がチャンピオンを打ち据える。

 割れた鋭利な凶器を俺は残忍そうな表情を作りつつ舐め回した。仄かな甘味。

 絶体絶命の窮地。果たして我らがチャンプは闘技者の誇りを忘れた悪漢の手にかかってしまうのか。俺は十分に溜めを作ってから勢い良く凶器を振り上げた。


 激しい流血を伴う、闘技と暴力のぶつかり合い。

 実況が何かを叫ぶ。解説が何かを捲し立てている。試合を見に来た闘技ファンが、強さに憧れる少年が、酒とつまみの売り子が、固唾を飲んで展開を見守る。それは惨劇への期待か、それとも。


 果たして。

 試合の結末は、望まれた通りに推移していった。

 どれだけ予想を外しても、期待を逸れればそれをエンタメとは呼べない。

 チャンピオンは観客の前で夢を見せ続けなければならなかった。


 酒瓶が弾き飛ばされる。衝撃が突き抜け、俺は勢い良くマットに沈んだ。

 ブルドッグ男が立ち上がり、反撃を開始したのだ。

 そこからは怒濤の猛ラッシュ。

 実戦的な下段へのローキックが決まったかと思えばタックルからの掬い上げ。

 幾度となく俺を真下へと叩きつけ、鋭い反撃にも挫けず勝ちへの姿勢を貫いていく。

 

 立て続けの攻撃に俺はとうとう体力が尽きてしまう。

 足下などはふらふらで、もはや立っているのが精一杯というふうに重心をぐらつかせ、乱した呼吸を不規則に吐き出す。

 そろそろだ。頭に叩き込んだ段取りは画像とジェスチャーを使った簡素なものだが、細かいアドリブ以外はきちんと全てこなせている。

 あとは主役が決めれば完成する。


 それはチャンプの得意技だった。太い腕が俺の首を押さえ、身を屈めた犬の頭部がこちらの右脇、もう片方の腕が股下をくぐる。

 弾みを付けてよいしょと片足がマットを踏みつけ、勢いのままに俺の全身が軽々と持ち上げられた。絶叫する俺の身体が鮮やかに回転し、受け身もままならないまま背中からリングに沈んだ。反射的な防御行動を強制停止。俺は敗者をやり遂げねばならない。


 ブルドッグ男はそのまま俺の両肩をマットに押し付け、いつの間にか復帰していたレフェリーがカウントを開始。もはや俺には立ち上がる体力が残っていない。

 勝敗はここに決した。

 正しい闘技者が勝ち、邪悪な闘技者は敗れ去ったのだ。

 大歓声が会場を埋め尽くす。

 立ち上がり、拳を突き上げたチャンプの姿。

 彼こそが真の男。彼こそが真の闘技者。

 やはり俺たちのチャンプこそが最強なのだ。


 敗者として倒れながら、そんなアウェーの空気を深く吸い込む。

 ブルドッグ男がわずかにこちらを一瞥する。

 彼の感情などわからないし、拳と拳で通じ合えるなどということは無論ない。

 だが勝敗が決したあと、立ち上がる前に彼は俺の肩を軽く叩いた。

 誰にもわからないほどそっと。

 今はそれだけが確かな事で、俺にはそれだけで十分だと思えた。

 



 勝者は称えられるものだ。

 リングの上でブルドッグ頭のチャンプが恰幅の良い壮年男に一抱えほどもあるトロフィーを授与されている。壮年男の丸い腹は恰幅が良いを通り越した膨張ぶりで、顔立ちも相まってカエルを思わせる。俺は密かにカエル爺と呼んでいる。

 

 もちろん『雇い主』に面と向かってそう言ったりはしない。

 言葉がわからずともあの老人の勘の良さと理解力は並外れている。だからこそ俺はこうして飼われる身に甘んじているわけだが。

 この興業も会場も仕切っているのはあのカエル爺だ。

 奴の好む馬鹿げた茶番はそこまで嫌いではないが、終わったあとには決まって虚無感に襲われる。それは多分、俺が『外人』だからだろう。

 

 外人、すなわち外世界人。

 異邦から来た闘技者は敵であり、素朴なゼノフォビアに基づいて悪役というアングルを与えられるのがセオリーだ。快楽原則に忠実な、エンタメの王道。

 主人公には敵対者が必要だ。嫌というほどではないが、それはそれ。

 勝利に飢えているのもそうだが、何より少し、刺激が足りない。

 安全に血が流れ、安全に暴力が振るわれる仮初めの戦い。

 

 強さとは、戦いとは、この程度で甘んじていて良いものなのだろうか。

 何かの病に罹患した少年のような鬱屈を押し殺す。

 これでいい、この光景に間違いはない。

 観客席を見ろ。目を輝かせている少年がいる。薄汚れた服のスラムの子供がいる。端末を片手に興奮している眼鏡の格闘技オタクがいる。鍛えた肉体を疼かせている若者がいる。売上とチップに満足げな売り子がいて、安らかに酔い潰れている中年がいる。

 

 悪くない。敗者である俺は一度リングを去り、漆黒のマントで身体を隠す。

 フードを被り直し、舞台脇から会場を眺めながらそんな感慨に浸っていた。

 闘争と血を求める熱狂は際限なくエスカレートし続ける。

 それはいつもと同じ段取りで、俺にとっては退屈な次のステージに過ぎない。


 俺たちは前座だ。『本当の闘争』を求める目の肥えた観客たちが観たいのはこの程度のショーではない。もっとスリリングで刺激的な残酷がこの後には待っている。

 闘技場に放たれたのは、見るのもおぞましいほど異様な姿をした怪物たちだった。

 どれひとつとして同じ醜さはない。

 それは毛むくじゃらであり、左右の四肢の長さが不揃いであり、顔の部位が捩れていたり、歪んだ骨格であったりした。


 まともではないもの。おぞましいもの。目を背けたくなる異常。

 それらをリングに解き放ち、子飼いの『戦士』と凄惨な殺し合いをさせる。

 地下闘技場の華、血塗れのショー。

 勇敢な戦士が哀れにも散るも良し、苦闘の末に怪物を退治するも良し。

 いずれにせよ命を賭けた闘争は盛り上がる。


 何度か出場したこともある。

 俺がどちらの側として扱われていたのかは、あまり考えたくはない。

 このショーはあまり好きではなかった。

 子供たちは勇敢に戦う戦士に憧れの視線を向けているようだが、俺にはそんな夢は見られそうにない。明日の自分がどちら側に立っているのか、その保証はないのだから。


 命がエンターテインメントとして消費される様子を眺めていた俺の目にそれが留まったのは、たぶん偶然だった。

 ひとりの女がリングに向かっている。その女は小さな動物が入る程度の檻を手にしており、その中で奇妙な生き物が蠢いているのが見えた。


 怪物の飼い主だったのだろう。女はその生き物を檻から解き放ち、血塗られた戦場へと送り出した。宗教的な衣装なのか、黒紫の衣と薄いヴェールに覆い隠された女性の表情はわかりづらいが、薄い笑みを浮かべているように見えた。

 嗜虐的な悪意。底の見えない黒い愉悦。


 凄まじい忌避感情。胸に理由のない反発が湧き上がる。

 リングの上に放たれた怪物は、かつて見たどの異形よりもちっぽけだった。

 そしてこれまで見た中で最も醜悪な形をしていた。

 まず色彩からして極限まで薄汚くした黒と茶色が混ざった『泥色』だ。


 楕円の胴体下部にちょこんとくっついている小さな四つ足がひょこひょこ蠢いているのが生理的嫌悪感を込み上げさせる。浮き上がった骨、羽虫がたかる腐肉、全体的な印象は朽ち果てた骸。肥大化した片目がぎょろりとしており、長く伸びた牙を剥き出しにして威嚇している。


 それを見たあらゆる人間が敵意を向けるほどの醜さ。

 誰もが死を願う、公共の敵。

 退治されるために存在する不快な異物。

 世界全てからの嫌悪を一身に受けて、矮小な異形は聞くに堪えない声で鳴いた。


 ちっぽけな怪物と相対する戦士は赤いトカゲのような頭部の人間。遺伝子デザイナーに爬虫類人レプティリアン風の身体を依頼する物好きなら見たことがあるが、突き出た鼻先や鋭い牙や角なんかを見るに竜人とでも形容したほうが良さそうだ。

 この街ではそこそこ見る種族。屈強な肉体、いかにも硬そうな角と鉤爪。その姿に観客たちが歓声を上げ、口笛を吹く。


 人々はリングの上に夢を望んだ。それはわかりやすい物語。善玉と悪玉。勇士と怪物。勇敢さと力強さが敵を打ち砕くという筋書き。

 それがこの場所に存在する最低限のルール。そのはずだ。

 勇ましい竜人の華々しい勝利を誰もが期待し、醜悪な怪物が打ちのめされることを願っている。何故なら怪物は異物であり、排除されるべき外側だからだ。


 俺と同じように。

 悪役と怪物、敗北を定められた者。

 下らない。現状に不満でもあるのか、俺は。

 『本気でやれば負けはしない』だの『こんなはずではなかった』だの、愚にもつかない現実逃避だ。筋書きに文句があるわけではない。言葉が通じないなりに環境には適応できている。


 たまに理性が問いかける。もっとマシな環境に身を置くことはできなかったのか?

 できる奴にはできるのだろう。そうではないからここにいる。俺のどうしようもない現状はつまりそういうことだ。ろくに言葉を喋れない。手足も満足に伸ばせない。気力も萎えて惰性で生きる。きっとこのまま腐ってどこかで死ぬのだろう。


 あの怪物も同じだ。目の前の戦いをそんなふうに憐れみと同情で消費しようとしていた俺は、理解に窮するものを見て呼吸を止めた。

 何だこれは。

 異常なことが起きている。それに気付いたのは数度の攻防が行われたあと。

 攻防が成立している? あの体格差で?


 気付いているのは俺だけか?

 そんなことはないはずだ。その証拠に竜人の動きに焦りと苛立ちが混じり始めている。

 圧倒的な体格差、一方的な猛攻。これは悪趣味な怪物の処刑ショーに過ぎない。

 少なくとも予定されていた残酷劇はそういう筋書きだったはずだ。


 振り下ろされる拳は確かに小さな怪物を打撃している。踏みつけは肉を押し潰し、鋭い引っ掻きが血を飛び散らせる。

 いずれも致命打に至らないのは、竜人が相手をいたぶることでより観客を興奮させようとしているから、ではない。


 拳が命中する。異形の小怪物が短い足を開き、胴体をわずかにずらす。

 打点がぶれる。重心が偏る。最小の動きでダメージが軽減されている。

 インパクトの瞬間にぎょろりと目玉が動き、下あごから牙がジャブのように伸びる。

 赤い鱗を切り裂いてわずかに滲む鮮血は、わずかな、しかし着実なダメージ。

 間違いない。あの怪物、竜人の動きを完全に見切っている。

 

 戦士が怪物を退治するショーのはずが、これではまるで逆ではないか。

 巨大な竜に立ち向かうちっぽけな命。

 使い古された英雄譚さながらに、その光景は俺の目を惹き付けて離さない。

 俺だけではない。その場にいた観客たちもまた目を奪われていた。


 避け、いなし、機敏に立ち回って翻弄する。

 小さな怪物がギリギリで猛攻を凌ぐたび、観客たちは手に汗握りわっと歓声を上げる。

 醜悪でおぞましい、倒されるべき敵であるはずなのに、いつの間にかその戦いに夢中にさせられている。既にその場の主役は入れ替わっていた。


 荒ぶる赤い竜に挑む、ちっぽけな勇者。

 予定調和の残酷ショーを書き換える、ありふれたヒロイックファンタジー。

 俺は、この時に見た光景を生涯忘れないだろう。

 醜いはずの怪物が戦う姿は、たとえようもなく胸を熱くさせた。


 だから直後に俺が下した決断は必然で、ある意味では衝動に流された結果だった。

 竜人が焦りから大振りの一撃を繰り出し、怪物は回避しつつ腕を駆け上って顔面に渾身の体当たりをぶちかます。巨体を揺らすクリーンヒットに会場が熱気に包まれ、痛みと屈辱に歪んだ『元主役』の理性が音を立てて千切れた。


 赤い竜の咆哮に応えてリングの外から同じ種族の仲間たちが駆けつける。

 そいつらが一斉に投網や刺叉で怪物の動きを阻害すると、すかさず竜人が身動きの取れない対戦相手を一方的に殴りつけた。

 観客たちは一斉にブーイング。


 この『怪物退治ショー』は基本的にどちらが勝っても良しとされている。仮に戦士が怪物に食い殺されてもそれはそれで残酷で刺激的な絵として盛り上がるからだ。

 俺のように金もなく立場も弱い出場者など幾らでも替えがきく。せいぜい命を賭けて観客を満足させろ、というわけである。


 ただし、金があり社会的な地位を持つ選手がプライドをかなぐり捨てた場合は話は別だ。興業主のカエル爺は札束を満足げに受け取って興ざめの試合展開を許すだろう。

 この時の竜人がまさにそうだった。

 集団で小さな怪物を押さえ付け、一方的な殴打を加え続ける。

 必死に逃れようとする怪物に突き刺さった針からは液体が滴る。麻酔か何かだったのだろう、短い手足の動きが明らかに鈍くなっていた。


 こうなれば終わりだ。結末は既に定まった。観客たちは白けたようにリングを眺め、予定調和の死に唾を吐くことだろう。

 ありふれた幕切れ。それだけのことが、気にくわない。

 考えるより前に動いていた。


 投網を持っていた奴の顔面に一撃をぶちこむ。

 自分が乱入していたことに気付いたのはそれからだ。

 頭の中でスイッチを入れて、二人目の股間を蹴り上げる。

 カチリと音がして、理性と感情が制御されていく。

 あらゆる行動原理を根底から書き換えて、俺は何もかも滅茶苦茶にすると決めた。

 

「不快なんだよ。俺の脳に喧嘩を売ったんだ、覚悟はできてんだろうな」


 奴らに与えられたストレスが俺の健康リスクを増大させている。心理的反応から交感神経系が刺激され、副腎から過剰にホルモンが分泌され肉体に負荷がかかっているのだ。

 わかりやすい物語は人を興奮させ、心身に多大な影響を及ぼす。

 それが損なわれるとどうなるのか?


 不快になるのだ。俺は脳下垂体を攻撃されている。

 殺されかけたと言っても過言ではない。よって殺す。

 話し合いの選択肢など、最初から存在しない。

 暴力。さもなくば死。俺にあるのはそれだけだ。


 麻酔使いが手に持ったナイフで斬りかかってくる。刃には何かの液体。おそらく毒。

 右腕が自動的に動いた。分厚い布に包まれた腕がナイフを弾き、しかし二度、三度と続く斬撃が布を引き裂いてその内側に攻め入った。

 毒のナイフはわずかでもかすればそれで勝ちだ。

 回避ではなく咄嗟の防御を選んだ俺を嗤う敵の表情が、次第に訝しげに変わっていく。即効性のはずの毒が効力を発揮しない。


 切り裂かれた布が落ちる。

 露わになった俺の右腕は生身の素肌などではない。

 硬質な皮膚。人造の装甲。

 俺の右腕は人の手によって作り出された『商品』だ。


 いわゆる『運動制御特化型人工知能』を搭載した生体侵襲式義肢。

 表面を覆うのは超高分子量の合成樹脂素材。繊維強化を施されたその耐熱・耐衝撃・引っ掻き強度は民生品としては最高峰である。ナイフ程度では傷ひとつ付けられない。

 当然、毒など無意味。

 俺の腕には温かみのある血など一滴も通っていない。

 心にもだ。


 刃を押し退けながら間合いを詰め、首に鋭い一撃。足払いで転倒させながら最後に残っていた『元主役』の鉤爪を紙一重で躱す。

 首狙いの斬撃。試合や喧嘩にある暗黙の了解はどこにもない。

 これは既に殺し合いだ。


「ガチンコでいいんだな?」


 ならばここは既に夢を見せるためのリングじゃない。

 ブックは不要。俺は悪役じゃないし相手に華も持たせない。

 負け犬が吐き捨てる『本気を出せば』は大抵の場合負け惜しみだ。

 しかし物事には常に例外というものが存在する。

 俺がそうだ。


「格闘動作制御アプリ『サイバーカラテ道場』、起動」


 視界と重なるHUD表示が薄く点滅。

 網膜にデフォルメされた人体図が投影され、図像の足部分が赤く発光する。

 不均等な左右の重量バランスを自動補正。俺が左足に体重をかけると、「GOOD!」の文字が輝き、赤い光は膝、大腿部、腰から右肩、肘へと移動。それに合わせて重心を移動させることで交叉する「GOOD!」と「CHAIN!」の文字。


「発勁用意」


 視界に表示された四文字を読み上げるのはある種のルーチンだ。

 発声と発勁は似る。咆哮が闘争心を昂ぶらせ瞬間的な力を増大させるように。

 その言葉と記号は俺の技を鋭くしてくれる。

 たとえそこに意味はなくとも、やるだけの価値はあるのだ。


「NOKOTTA!」


 奔る。知覚は稲妻となり、体重が大地を低く滑り出していく。

 滑らかな、あまりにも滑らかな踏み込み。

 このとき既に肉体は俺の制御を離れていた。

 オートパイロット。俺は自動化されている。

 勝利までのフローチャートをなぞりながら最適手順で竜人を打つ、打つ、打ちのめす。


 『特化型人工知能』によって最適化された俺の動きは先程までとは肉体の運用思想からして根本的に異なる。蓄積された戦闘記録の分析とそれに対する効率的な戦闘プランが複数提示され、シミュレーション結果とリスク要因を比較しながら視界を踊る。


 現行プレーンの人類が作り出す汎用型人工知能などという幻想は前世紀に打ち砕かれた。俺の故郷で発展してきたのは限定的なフレームの学習と処理に特化した人工知能。運動制御という複雑な領域の最適解は既に膨大な量の計算と学習によって更新されている。

 人類が積み上げた人体の科学も神秘のヴェールに包まれた中国拳法の真髄も、たかが数千年の積み重ねに過ぎない。囲碁や将棋がそうであったように、特化型人工知能の研鑚は人類を遙か後方に置き去りにした。人類が千年の修行を重ねている間に、人工知能は一万年の『解』を導き出している。

 

 どれだけ死に物狂いで修練を重ねようと、長い歴史を重ねた拳法であろうと関係無い。

 研鑚の歴史と量で『サイバーカラテ道場』に勝利することは不可能だ。

 そしてこの『特化型人工知能』による運動制御はこのアプリケーションの両輪をなす機能、その片側でしかないのだ。


「俺は外人。異世界から来た、外世界人。お前たちの敵だ」


 倒れ伏した男を見下ろしながら、静かに呟く。

 俺はこの世界の敵だ。あるはずのない文明を持ち込み、この世界が積み重ねた文化と研鑚を否定する。サイバーカラテの答えはいつだって無機質だ。

 俺はそういう悪役だった。この世界の人々は外人である俺に敵意を向けることで感情をひとつにできる。たとえ人種や種族、言葉や文化が違っても、暴力だけは変わらない。


 傷ついた怪物を拾い上げ、騒然となったその場から走り出す。

 ここまで暴れてただで済むとは思っていない。

 やりたいことをやったんだ、後のことは後で考えればいい。

 右腕の中で身動ぎする小さな気配を守りながら、俺は決死の逃避行に身を投じた。




 そして、当然のように終わりが訪れる。

 興業を無茶苦茶にしたあげく、それなりのわがままを押し通せる竜人どもの顔を潰したのだ。無事で済むわけがない。

 追っ手の頭を壁に叩きつけてから振り回すように反対側にぶん投げる。動かなくなったのを確認してその場から小走りに逃げる。足が縺れた。視界を赤く染めるアラート表示。痛覚制御の多用による心的リスクと出血量を示すゲージが笑えることになっている。


 刀やナイフならともかく、槍や弓矢による負傷は前世ではできなかった経験だ。こういう新鮮な積み重ねが転生ライフを豊かにするわけだな。

 下らないことを考えながら路地裏をふらふらと進む。

 肩に乗った小さな重さが弱々しく鳴いていた。


「あまり気にするな。それよりお前、俺が倒れたらさっさとどこかに逃げろよ」


 衝動的に助けてしまったこの怪物がこれからどうなるのか。

 考えても仕方がないことだが、愉快な未来が待っているとはあまり思えない。

 結局、考えなしに動いて無駄に死んだだけか。

 前世と同じだ。無意味に生きて無価値に死ぬ。

 あらゆる命がそうであるように、最後には消えるだけ。


 ぐらりと身体が揺れて、その場に倒れ込んだ。

 街中をどんなふうに逃げたのか、あまり覚えていない。

 といってもどこも変わり映えしない景色だ。

 死に場所がどんな所かなんてさして重要じゃない。

 こんな死はこのクソみたいな街ではどこにでも転がっている。


 この街を支配しているのは暴力だ。

 力を振りかざして他者を支配しようとする連中が幅をきかせ、そいつらの抗争やら暗闘やらで力の無い者は心安まる時がない。

 この街で力に夢を見る者がいるのは、現実の暴力に夢がないからだろう。


 恐喝と詐欺と賭博、誘拐と腑分けと売春、麻薬と武器の密造と密売、殺し合いによる大量消費。クズ以下の蛇頭と手配師が難民の子供に笑いかけ、不敵に笑う用心棒は店の金をちょろまかした挙げ句に娼婦に手を出してとんずらする。そういったクズどもの頂点に立つのがあのカエル爺。そして奴が君臨する犯罪組織だ。


 この街の主要な産業の半分を牛耳るカエル爺に抗って生き残ることは難しい。

 俺はここで死ぬ。

 薄暗い路地裏は立ちこめるような臭気で満ちていて、呻き声と不気味な呟きが延々と響き続けていた。そこら中に無造作に人体が転がっている。いずれも四肢を欠損していたり骨と皮ばかりに痩せこけていたり無数の注射跡を掻き毟って奇声を上げたりと悲惨な有様だった。


 四肢を失った者の大半はそのまま働くことすらままならなくなる。

 俺の右腕は特権だった。

 この街にいるほとんどの者は懸垂式の義肢すら手に入れることができない。

 十分な治療も受けられず、傷病者たちは死を待つばかり。

 俺もまた、最後にはここに辿り着き死ぬわけだ。


 そう思うと、幾らか後ろめたさが消えていくような気分になった。

 恐怖はない。常駐している情動制御アプリ『Emotional-Emulator』が苦痛と感情を凍らせてくれるからだ。

 薄れゆく意識の中、頬を舐める感触にくすぐったさを覚えた。




 夢の中で俺はひとり、誰かを待っていた。

 誰かはいつまでも来ない。

 寂しい森で独りきり。誰も来ないと知っていても、俺にはその約束しかなかった。

 諦めることを恐れるかのように、約束した場所に執着し続けていた。

 言葉を喋れない、人と繋がれない俺に居場所などない。だからこそ、その『約束』と『待ち人』は俺にとって最後の希望だった。

 今はまだ存在しない。だがいつかはできるかもしれない居場所。


 愚かな執着だ。現実を直視しないように探しに行くことすらしていない。

 自分でもわかっている。最初から果たされることがない約束であれば、愚直に待ち続ける事で希望を終わらせずに済む。

 現実逃避の執行猶予。何もできずに十三階段を上りきる。


 小さな怪物が悲しそうに鳴く。

 その姿が掻き消えて、俺の目の前には一冊の本が現れていた。

 手に取ってしげしげと眺める。

 ずっしりとした重量感、黒い装丁はどこか古めかしい。

 奇妙な既視感。俺はこれによく似た書物を見たことがある。

 

 糸杉の森。この世界での始まり。

 影を支配する狼の王。血に染まる義手。呪い飛び交う戦場。

 死を願う声と、死者の言葉を甦らせる奇跡。互いの意思を伝える黒い本。

 そして、色の無い左手。


 俺のこの世界での記憶は、この森から始まっていた。

 本の項を捲る。何も記されていない。

 白紙の空間に、白い光が落ちた。

 軽やかな軌跡を描いて光が文字を描く。


 俺には理解できない、変化し続けるこの世界の文字。

 人との繋がりを拒むかのような文字列は、しかしこの時だけは俺を拒絶しなかった。

 奇妙な文字の形が見知ったものに変化していく。

 それは、日本語の形をしていた。

 

「ありがとう」


 理由のわからない謝意。俺はそんなことを言われるような価値のある存在ではなかったはずだ。だからこんな風に死のうとしている。こんな夢を見てしまうのは、諦め悪く救いを求めてしまっているからなのか?

 何もわからずその文字を眺めていると、続きがそっと記されていく。


「願わくば、目覚めた世界で素敵な夢が見られますように」


 その言葉が俺の中に入り込んだ途端、夢の景色が解けて消える。

 意識が霞む。視界が色を失う。

 そして俺は、急速に浮上していった。





「おい! 大丈夫か、しっかりしろ!」


 意味のある言葉と共に、ブルドッグ頭が目の前で吼えているのがまず視界に入った。

 唾が顔に飛ぶ。勘弁してくれという思考が浮かんで、自分が生きていることに気付く。

 こいつが手当てをしてくれたのか? 追っ手ではなくて?

 良くみれはこのブルドッグ顔、俺とやり合った闘技場のチャンプではないか。


「意識ははっきりしてるな? 見つかる前にずらかるぞ。そら、掴まっとけ」


 肩を貸して貰いながら状況を確認する。

 意識を失う前と場所は同じ。肩には小さな怪物が乗っており、懐かれてしまったのかしきりに身体を寄せてくる。

 ブルドッグ男はどうやら俺を助けに来てくれたようだが、一体なぜ?

 疑問にはあまりにも単純明快な答えが用意されていた。


「お前が飛び出して行った時には正気を疑ったがよ、嫌いじゃないぜ、ああいうの」


 耳は相変わらず意味不明な音を拾うばかりで意味はわからない。

 しかし視界の下方に文字列が浮かんでいた。

 まるで映画の日本語字幕だ。


「いったい何が起きてる?」


 思わず口を突いて出た問いかけが形をなす。

 日本語が空中を駆けてひらりと裏返り、見知らぬ文字列となってブルドッグ男の目の前に並んでいた。


「すげえ魔導書だなおい。そいつぁ噂に聞く『断章』ってやつに違いないぜ。へへ、お前ひょっとしたら『死人の森の女王』に気に入られちまったのかもしれねえな。ま、細かい話は後だ。今はどっかに隠れようぜ」


 男は当然のように俺の言葉を理解して応答する。

 相変わらず音は通じないまま、翻訳された文字と文字による対話が行われている。

 それを可能とするのは、ふわふわと浮遊する一冊の本だった。

 『断章』と呼ばれたそれは、半年前に森の中で見たものと同じ。

 かつてのように、言葉の通じない俺に意思疎通を可能にしてくれる奇跡の書だ。


「理解していただけたようでなにより。助けていただいた恩もありますし、ここで何もわからないまま死なれても困ります。今から表示する地図に従って移動して下さい」


 耳の傍でブルドッグ男と怪物が何か鳴いているが、それを押し退けるように自己主張する強烈な文字列が俺の目を吸い寄せる。

 どこか無機質な響きを連想させる平坦な語調。

 黒い本を通して、何者かが俺に語りかけている。


「私のことはこの『断章』の翻訳機能に付随する自動応答プログラムか簡易人工知能とでも思って下さい。名前は喪失しましたが、呼びたければどうぞタイトルからとって『生存ウィクトーリア』とでも。『ヴィク』でもいいですよ」


 次々と押し寄せる情報の波。

 こうして俺の人生は決定的な転機を迎える。

 何の因果か巡り会った『怪物』と『本』。

 通じなかった言葉は裏返り、仮初めの理解を俺に与える。


 本質的な問題は未解決、危機は依然としてそこにある。

 それは真の意味での理解ではなかったし、新しく得たと思った足場は次の瞬間には崩れるような脆いものでしかなかったけれど。

 物語はここから始まる。


 それはとてもありふれた冒険譚。

 歪な現実と脆い約束を踏み越えて進む、魔女と使い魔の物語。

 夢と呪いのファンタジーだ。




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― 新着の感想 ―
[良い点] いかなる状況でもヒーローになってくのコルセスカっぽくて好き
[一言] 1話が変化した…。 タイトルから明るい印象を受けますが、描写されていた内容を考えると、えげつないことになりそうだと感じました。
[良い点] 言葉の通じない異邦人アキラくんも面白かったけれど、こっちはこっちでどういう風に展開していくのか楽しみ。
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