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「天国・地獄・大地獄」-序章-
ただいま毎日〈月〜金のみ〉鋭意連載中!!
彼女は小声で、目の前の受付カウンターを指さした。
神経を集中させると、乱れた呼吸音と小さな嗚咽が、確かにカウンターの裏から聞こえてくる。
「そこにいらっしゃる方、聞こえますか」
山吹サチが、よく通る声でカウンターに語りかけた。
「私たちに敵意はありません。これからそちらに回り込みますが、いいですか」
この人は、もしかしたら恐れを知らないのか。
行動力があるとは感じていたが、未知の存在に動じない「重み」がある。
俺のときもそうだが、椅子を持って暴れる男に、あんな冷静に声をかけられるものだろうか。
それとも、単にそのへんが抜けているだけなのか。
ゆっくりと受付カウンターを回り込んだ山吹サチが、こちらに「大丈夫」という目配せを送る。
俺は少し安心して彼女のそばに歩み寄った。
そこには、両膝を抱えて座り込み、全身を小刻みに揺さぶる男がいた。
歳の頃は俺より少し上に見える。半袖のワイシャツにスラックスという、夏の会社員といった出で立ちだ。
こちらを見上げようともせず、床をにらみ続けている。
「はじめまして。私たちはあなたと同じ境遇の者です。
あなたは何か危険な目に合いませんでしたか?」
かがんで男と目線の高さを合わせた山吹サチは、あくまで端的に、安心させながら尋問をするという高テクニックの一文を口にした。
相手の間合いに踏み込む術を心得ている。
客観的に見ることで、その達人ぶりが際立って見える。
「危険?」
男が体を揺すりながら山吹サチを見た。
「あったよ。危険な目にあった」
「それはどんな?」
男は、膝を抱えていた両手で顔を覆った。恐怖がぶり返しているように見える。
「襲われたんだ。身を守るのに精一杯だったんだ」
「それは、罠なようなものじゃなかったんですか」
山吹サチは罠の詳細を聞き出そうと質問を繰り出すが、俺にはそうでないように感じられた。
「襲われた」と言った。それは「物に」というよりは、「人に」といった響きがある。
同じように感じ取ったのか、高遠アキハが口を挟む。
「もしかして、アレに会ったの!?」
アレ?アレってなんだ?
「ねえ、襲われたんじゃないの、怪物みたいなのに」
――怪物?今、怪物って言ったのか。なんの話だ。
ふと、カラオケルームで高遠アキハが口走った言葉が頭をよぎる。
「罠なんかよりもっと怖いもの」そう言っていた。
それが、怪物?
「どうなの、違うの?」
高遠アキハは、これまでに見せたことのない表情を見せていた。それは恐怖なのか、焦りなのか。
気圧された男は、余計に縮こまってしまう。
「わからない。しつこく追いかけてきた。たぶん、俺を殺すつもりで」
「わからないってなに!」
「アキハさん」
山吹サチが心配そうに高遠アキハを見る。
高遠アキハは、少し落ち着きを取り戻したようだった。
「もしアレが近くにいるなら、まずい」
言いながら高遠アキハも男に近づき、かがみ込む。
「ねえ、左腕、見せて」
急に何を言いだしたかと思うやいなや、高遠アキハは男の左腕に掴みかかった。
「見せなさい」
なすがままの男は、高遠アキハによって左腕を高く掲げられる。
その前腕の内側には、男の雰囲気からしたら不釣り合いに思えるような入れ墨が彫られていた。
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肘側から手首に向けて、紅くそう彫られている。
それを見た高遠アキハは、感情の読めない様子で鼻を鳴らした。
「『2』か。怪物じゃないね」
なんだなんだ。急に喋りだしたと思ったら怒涛の一人舞台だ。
数字の入れ墨が一体なんだというんだ。俺と山吹さんを置いて高遠アキハが大暴走、と思いきや。
「もしかして、あっちの部屋に」
山吹サチまで何か勘付いた様子だ。
彼女が目線を送った先には、標準サイズの鉄扉。
オフィスの裏口なのか、通常なら外階段やらに繋がっているものだろう。
ポータルだとしたら、先はわからない。
「まだいるかもね」
二人は完全に俺を置いて、目と目で通じ合っている。
09 へつづく
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