貴方は私より病弱な幼馴染を愛しているようなので、婚約解消させていただきます
私の婚約者であるレイモンド・ヴァルトシュタイン公爵令息が、今日もまた約束の時間になっても現れない。
王都の外れにあるティーサロンの窓辺で、私は、すっかり冷めた紅茶のカップに視線を落としていた。琥珀色の液面に映る自分の顔が、ひどく間の抜けたものに見える。
待ち合わせの時間から、もう一時間が過ぎていた。
店員が気遣わしげにこちらを見ている。三杯目のお茶を頼もうかと思ったが、やめた。これ以上ここにいても仕方がない。
席を立とうとした時、ようやく扉が開いた。
「すまない、リベルテ。急にミレーヌの容態が——」
レイモンドは、息を切らしながら駆け込んできた。亜麻色の髪が乱れ、整った顔立ちに申し訳なさが浮かんでいる。
だが、その瞳の奥に私ではない誰かへの心配がまだ残っていることを、私は見逃さなかった。
ミレーヌ・ルーセット侯爵令嬢は、レイモンドの幼馴染にして、生まれつき体の弱い少女。
「お気になさらないでください、レイモンド様。ミレーヌ様のご容態はいかがですか?」
「ああ、大事には至らなかった。少し熱が出ただけで。でも、一人にしておけなくて」
「そうですか。それはよかったです」
私は、微笑んだ。
これで何度目だろう。思い返せば、婚約をしてから数日たったときからだった。
レイモンドがミレーヌの名を口にする頻度が目に見えて増えた。約束を違えることが増えた。社交の場で私の隣にいるはずの彼が、ミレーヌの傍に駆けつけていることが増えた。
最初は気にしなかった。幼馴染が病弱なのだから、心配するのは当然だと思った。
けれど、王宮の夜会で私を一人残してミレーヌの元へ向かった彼の背中を見た時、胸の奥で小さな何かが音を立てて罅割れた。
社交界では、既に噂になっている。ヴァルトシュタイン公爵令息は、婚約者よりルーセット侯爵令嬢に御執心だと。
私の耳にも、同情と好奇を含んだ視線とともに、その囁きは届いていた。
「今度の舞踏会では、必ず一曲目を君と踊る。約束する」
レイモンドはそう言って、私の手を取った。温かい手だった。この手がミレーヌの額に当てられて熱を測っていたのだろうかと、ふと考えた自分が嫌になった。
「ええ、楽しみにしていますわ」
嘘ではなかった。楽しみにしている自分がまだいることが、何より辛かった。
◇
舞踏会の夜がやってきた。
私は淡い月白のドレスに身を包み、グランヴェール公爵家の馬車で王宮に向かった。
鏡の前で何度も身だしなみを確認した。髪飾りは彼が以前褒めてくれた銀細工の百合を選んだ。
大広間に足を踏み入れると、すぐにレイモンドの姿を見つけた。
彼は広間の片隅でミレーヌの隣にいた。
ミレーヌは、淡桃色のドレスを纏い、華奢な体をそっと椅子に預けていた。顔色は悪そうだったが、レイモンドに何かを話しかけられて柔らかく微笑んでいる。
レイモンドは、ミレーヌの肩にショールをかけ直しながら、優しい目をしていた。
私がかつて一度も向けられたことのない目だった。
いや——そう感じること自体が、私の思い過ごしかもしれない。
病弱な幼馴染を心配しているだけ。それだけのこと。そう自分に言い聞かせてきた。
でも、一曲目の音楽が流れ始めた時、レイモンドは私の方を見なかった。また、彼はまた約束を違えた。
ミレーヌが小さく咳をして、レイモンドがその背を撫でていた。
音楽が流れていく。
私がレイモンドの方に歩いていくと、レイモンドはようやく顔を上げた。
私と目が合った。彼がしまったと思っているのが分かった。
「リベルテ——」
彼が立ち上がろうとした。けれどミレーヌがまた咳をして、その手が無意識にレイモンドの袖を掴んだ。
レイモンドは一瞬だけ私を見て、そしてミレーヌに視線を戻した。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。諦めだった。静かで、透明な諦め。
私はそっと踵を返し、大広間を出た。
◇
翌日、私は父の書斎を訪ねた。
グランヴェール公爵——私の父は、書棚に囲まれた革張りの椅子に深く腰かけ、書類に目を通していた。
私が入室すると、眼鏡の奥の穏やかな目がこちらを向いた。
「どうした、リベルテ。改まった顔をして」
「お父様にお願いがございます」
私は父の前に立ち、背筋を伸ばした。
「レイモンド様との婚約を、解消させていただきたいのです」
父は、しばらく黙っていた。書類を机に置き、眼鏡を外し、私の顔をじっと見つめた。
その沈黙が怖かった。公爵家同士の婚約は両家の政治的結びつきでもある。娘の個人的な感情で覆せるものではないかもしれない。
「昨夜の舞踏会か」
父が静かに言った。
「ご存知だったのですか」
「社交界の噂を知らぬほど耳が遠くはないつもりだ」
父は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「リベルテ。お前は本当にそれでいいのか?」
「はい」
「後悔しないか?」
「はい」
父が振り返った。その目元に、かすかな痛みのようなものが走った。それからゆっくりと頷いた。
「分かった。グランヴェール家の名において、婚約の解消を申し入れる。お前は何も心配しなくていい」
「お父様——」
「うちの娘を蔑ろにする相手に、大切な宝を預けるわけにはいかん。当然のことだ」
父はそれだけ言って、再び椅子に腰を下ろした。もう書類に目を戻していたが、眼鏡をかけ直す手がわずかに震えていた。
私は、深く頭を下げて書斎を出た。廊下に出てから、涙が流れた。
◇
婚約解消の通達は、その週のうちに正式な手続きを経てヴァルトシュタイン家に届けられた。そして、穏便に婚約解消することができた。
レイモンドから何度か手紙が届いた。いずれも弁明と困惑に満ちたものだった。
『誤解だ、リベルテ。僕はミレーヌのことをそんなふうには——』
そんなふうは、どんなふうだろうか。
私は手紙を丁寧に折り畳み、引き出しの奥にしまった。返事は書かなかった。もう婚約解消したから。
社交界は騒然とした。グランヴェール公爵令嬢とヴァルトシュタイン公爵令息の婚約解消は、この秋の最大の話題となった。
噂の的は主に私ではなくレイモンドの方に向いた。婚約者がいながら別の令嬢に入れ込んだ不誠実な男。公爵家の名誉を傷つけた愚か者。囁きは容赦がなかった。
私がそういう噂を広めたわけではない。レイモンドを悪く言うつもりもなかった。ただ、もう彼の隣にいる理由がなくなった。それだけのことだった。
◇
婚約解消から一ヶ月が経った頃、ある噂が私の耳に届いた。
レイモンドがミレーヌに婚約を申し込んだが、断られたと。
最初、私は聞き間違いかと思った。
「本当なのですか?」
情報をもたらしたのは、幼い頃からの友人であるセシリアだった。
彼女は、気まずそうに頷いた。
「ミレーヌ様ご自身がお断りになったそうよ。『レイモンド様のお気持ちはありがたいけれど、私はそのような感情を持っていません』と。それに——」
「それに?」
「『レイモンド様が本当に大切に思っているのは、リベルテ様だったのではありませんか』と仰ったそうよ」
胸の奥が小さく軋んだ。
ミレーヌは、最初から分かっていたのだ。レイモンドの感情が恋ではなく庇護欲であることを。幼馴染だからこそ見えていたのだろう。
そして、レイモンドは庇護欲を恋愛感情と勘違いしていた。ミレーヌへの感情を恋だと思い込み、その思い込みのために私を失い、ミレーヌに真実を突きつけられて初めて目が覚めた。
私もまた、勘違いをしていたのかもしれない。レイモンドがミレーヌを愛していると信じ込んでいた。
けれど実際には、彼は誰を愛しているのかすら分かっていなかった。そんな人の隣で、私はずっと一人で傷ついていたのだ。
馬鹿みたいだと思った。少しだけ笑って、少しだけ泣いた。
◇
季節が巡り、冬の社交シーズンが終わりを告げる頃。
レイモンドの姿を社交の場で見かけることは少なくなった。ヴァルトシュタイン公爵家は以前と変わらず名門であったが、令息の評判は地に落ちたままだった。
婚約者を蔑ろにし、その上で想いを寄せた相手にも断られた男に同情する者は少なかった。
ミレーヌとは一度だけ顔を合わせる機会があった。ある日、王宮の庭園で、偶然会った。
彼女は相変わらず顔色が悪そうだったが、冬の澄んだ空気の中で佇む姿には儚いながらも芯の強さがあった。
「リベルテ様。このたびは——」
「謝らないでください、ミレーヌ様」
私は、穏やかに遮った。
「貴女は何も悪くありません。それは私が一番よく存じています」
ミレーヌの大きな瞳が揺れた。薄い唇が何かを言おうとして、けれど結局は小さく頭を下げた。
「リベルテ様がそう仰ってくださるのが、何より心苦しいのです」
「いいえ。勘違いをしていたのは、私もレイモンド様も同じですから。貴女だけが最初からわかっていた」
ミレーヌの目尻に光るものが浮かんだ。
「どうかお幸せに」
彼女はそう言って、小さく微笑んだ。嘘偽りのない心からの祈りのこもった笑みだった。
◇
春の気配が近づく頃、父が夕食の席でさりげなく切り出した。
「リベルテ。近頃、エルデシュタイン辺境伯家の嫡男がこちらに挨拶に見えるのだが」
「はい」
「なかなか見どころのある青年だ。剣の腕が立つ。領地経営にも明るい。何より……人を見る目がある」
父はワイングラスを傾けながら、何でもないことのように続けた。
「先日、お前のことを聞かれてな。『グランヴェール公爵令嬢は、とても聡明な方だと伺っている』と」
「……お父様。それは縁談のお話ですか?」
「まさか。ただの世間話だ」
父は涼しい顔でそう言ったが、その目元にはかすかな笑みがあった。
私は少しだけ頬が熱くなるのを感じて、グラスの水に視線を落とした。
エルデシュタイン辺境伯家の嫡男。社交の場で何度か見かけたことがある。
落ち着いた物腰の青年だった。人混みの中で一度だけ目が合った時、彼は静かに会釈をした。それだけだった。その視線には、値踏みでも好奇でもない、まっすぐな敬意のようなものがあった気がする。
まだ何も始まっていない。始める気もない。
◇
春のある日、久しぶりにレイモンドから手紙が届いた。
『リベルテ。僕はずっと勘違いをしていた。ミレーヌを守りたいという気持ちを、恋だと思い込んでいた。本当に傍にいてほしかった人は、ずっと隣にいたのに。僕は——』
手紙は途中まで読んだ。丁寧に折り畳んで、以前の手紙と同じ引き出しにしまった。
返事は、やはり書かなかった。
彼の後悔が本物であることは分かる。けれど、後悔は過去に向かうものだ。私は、もう未来を向いている。
窓を開けると、春の風が部屋に入り込んできた。柔らかくて、少しだけ冷たくて、でも確かに温かい風だった。
「さて」
私は鏡の前に立ち、髪を整えた。銀細工の百合の髪飾りは引き出しの奥にしまって、代わりに母から譲り受けた真珠の簪を選んだ。
今日は午後からお茶会がある。新しい出会いの場だ。
何が待っているかは分からない。けれど、もう冷めた紅茶の前で誰かを待ち続けることはない。
それは、今の私にとっての確かな幸福だった。




