最終回
「さあこっちへおいで。眠れないのならきみが眠るまでそばについていてあげるから」
にこやかにほほえんで、現れた青年は腕にかけていた上着をレンの肩にはおらせた。
そっと包みこむようにして触れた、あたたかな手。その身を包む朱金の輝き。
「……あなたが、出してくれたわ」
ああ、たしかにこの人だと、優美な面をのぞき上げて言う。
「あたしを、岩穴から、出してくれたの」
レンからの突然の言葉にややとまどいを見せたものの、青年はうなずいた。
「そうだよ。きみは助かったんだ」
その応えに、しかしレンは首を振る。
「でも、やっぱり1人だわ。ここもあそこと同じ。広いだけで、暗くて、冷たいわ」
「1人じゃないよ」
「1人よ。だっていくら呼んでも、だれも来てくれないんだもの。
みんな、死んじゃったんでしょう? あたしだけ残して」
みじめな、泣きたくなる気持ちをこらえて爪をくいこませた。そうやって気を分散していないと、彼の慰めに負けて、涙でごまかしてしまいそうだった。
自分は知っている、もうだれも自分を保護してはくれないのだと。
護ってくれる人も戻る家もなくした子どもを待つのは、容赦ない寒風だけ。
「独りじゃないよ」
青年は、すっかり俯いてしまったレンの小さな体をそっと抱きよせた。
「僕が来たよ。あの穴の中からも、この暗闇からも、きみの声は僕には聞こえた。
僕がここにいるから、こうして抱きしめているから、そんな、独りだなんて思ってしまわないで。
きみが僕の手を必要とするなら……もしきみがそれを望んでくれるなら、一生きみのそばにいるよ」
それを耳にしたとき。レンは心臓が止まるかと思うほど驚き、うろたえた。
こんな、気が遠くなるほど優しくて、甘くて、残酷な言葉がはたしてこの世にあったのか。
たやすく口にできるひとが、いるなんて。
「……一生……って……?」
信じたいけれど、鵜呑みにするにはあまりに怖すぎる夢物語だった。
独りの恐ろしさを知ってしまった今、独りでなくなったらもう二度と独りには戻れない。
この手まで失ってしまったら、きっと自分は生きていられない。死んでしまう。そうと分かっているのに手をとるなんて、自殺行為だ。
でも信じたいのだと、食い入るように見つめるレンの前、青年は慈愛の瞳でほほ笑んだ。
「ずっと、って意味だよ。ずっと、僕たちは一緒にいるんだ」
「……ずっと?」
「ずうーっと」
レンの目からおびえが消えた。喜びの光が浮かんで、嬉しそうな表情になったことに安堵したのか、青年は肩を震わせてくつりと笑う。
その笑みがまた得も言われないほど美しくて、本当に楽しげで……。
見とれつつ、レンも笑みを返したのだった。
「おいこら! 起きろっ!」
ぺちぺち頬をはられる痛みを感じて、レンの意識は夢の床を離れて浮上した。
思いだしたと、幸福感の満ちた胸で、涙に濡れたまぶたを開く。
強い斜光を背にしたその人をすぐそばに見出して、抱きしめた。
「彩煉……」
なぜこの名を忘れられたのか。
自分の命より大切なひとの名前なのに。
「ずっと、ずっとそばにいて……」
祈るようにささやく。けれどそれに応じた声は、レンほど安らいではいなかった。
「ああ、ずっとそばにいてやるよ」
不機嫌さ丸出しでつっけんどんに言い放つ。その皮肉気な口調、横柄な言い回しはっ!
「きさま! 樋槻!」
我に返って叫ぶなり、あわてて突き飛ばした。
いくら寝起きだからといって、このばかとあの人を間違えるなんて!
愕然としているレンを横目に、樋槻はぱしぱしこれみよがしにレンが触れていた箇所をはたいて立ち上がる。
「どうせあんたがわがきみの手で細切れにされるまでの辛抱だ。そう長くもないさ」
「きさま……どうして……? これは……」
遅れて、負の気で乱れた周囲に気付き、説明を求める。
見る限り相当な力の衝突があったようだが……それにどうして気付けなかったのか。こんな近くにいながら、平然と眠っていたのか?
「分からないだあ?」
樋槻がしかめっ面になった。
「そーりゃバカ面さらしてあんだけぐーすか寝こけてたら、分かんなくて当然だよなあっ。
つくづくおめでたいね、そのスカスカ頭は」
トゲを満遍なくくっつけた文句を投げつけられ、ムッと盾が寄ったものの、事実である以上言い返せない。
くやしがるレンを見ながら、樋槻はうなじのところで手を組んだ。
「まったく。いいところでひとの獲物横取りしやがって。本来ならただじゃすまさないところだけどな。
ま、今回だけは大目にみてやるさ。おまえでも少しは役に立つ、いい利用法を思いついたし」
めったにしない、妙にはればれとしたご機嫌顔で伸びをすると宙に浮かびあがる。
「じきに日暮れだ、さっさと動いてせいぜい大物の目にとまってくれよ。さっきみたいな小物じゃ俺は不満だからな」
いつものようにレンの意志などまるでおかまいなしの顔して言う。
何を言っているのか分からないと首をひねるレンの前で樋槻は間隙を開いて姿を消してしまい、レンの思考が正常に働き始めたのは、地表が夜の支配下におかれてからだった。
この現状にあの捨て台詞。つまり、こういうことか?
何者かがあたしに干渉をしていて、それを退治したあいつは新しい遊びを思いついた。あたしというエサを泳がせて、食らいついた魅魎を始末する、と?
「……なんてやつ」
相変わらずひとをひととも思わない勝手な言い草にむかっ腹が立つ。
なんだってあいつの言いなりになってやらなくてはいけないのか。そりゃたしかに人間をおもちゃにすると言われるよりマシだが、だからってどうしてあたしがあいつのエサ役にならなくちゃいけない!?
絶対いつの日かあいつも断ってやると、憤激しながら立ち上がる。
体はともかく、頭のほうはすっきりしていた。まるで何時間も休んだように冴えている。
夢見の良さとこの怒りのおかげで気力も充実していることだし、これならここ数日の遅れも多少とり戻せるだろう。
そういえば食糧が明日までしかないんだった。そんなことを考えながら歩き出す。
雨期は過ぎた。今日もまた皮肉なほど雲ひとつない月夜。
この空が続くシロエの町は、しかし曇天かもしれない。自分の足元も見えないほどに。
けれどそれでも。
今、レンの前に広がっているのは、月光に照らされどこまでも澄み渡った道だった。
『魔断の剣9 迷夢 了』
ここまでご読了いただきまして、ありがとうございました。
明日からは『魔断の剣10 砂海の魅魎姫』をやります。
これも個人誌ではなく同人誌に掲載していたものなので、たぶん8~10回くらいで終わると思います。
よろしくお願いいたします。




