第7回
ざくりと重い音をたて、砂原が地中深くえぐりとられた。
寸前で転移する湟浬を追い、樋槻が視線を巡らせる先で次々と砂柱が屹立し、砂塵が舞い、旋風が巻き起こる。真空という不可視の刃が空を裂き、湟浬を徐々に追いつめていた。
r……ちィッ」
ついに追いつかれ、袖ごと膚を裂かれる。
湟浬は危険を承知で樋槻の鼻先に転移した。
簡髪入れず黒髪が襲いかかる。両目を覆うと同時に全身に巻きつけ、自由を奪った。
「そこに宿る力一切を抜き出して、その身、千々に引き裂いてくれるわ!」
湟浬の黒爪が伸びて髪ごと樋槻を切り裂こうとしたときだ。ヴン、と振動音がして、髪があらゆる箇所で寸断された。
「この程度?」
力を失い、ぱらぱらと落ちる髪を肩から払う。
ダメージは欠片も受けていない、むしろ樋槻のほうこそこうなるよう仕向けていたのだとうかがわせるに足る口調でせせら笑う。
急ぎ身を退けようとした湟浬の動きをのろまと嘲るように、次の一刹那、樋槻の指が湟浬の腹部にめり込んだ。
「!」
依り代をえぐり取られる寸前、転移で距離をとった湟浬の顔には、狼狽と呼ぶにふさわしい表情がありありと浮かんでいる。
えぐられた脇腹に手をやり、そこについた己の黒血に愕然と目を瞠った。
「考えてみろよ。こんなとこで狩りをするしか能のないチンケなやつが、この俺にかなうと思ってるの?」
指についた黒血を振り飛ばしながら、またのんびりとした声だった。
金の瞳に剣呑とした光を灯し、傲然と嗤う樋槻に、湟浬はぎりりと奥歯をかみ締めた。
青冷めた獲物を前に、どう扱うも勝手と、気分次第でおまえなどどうにでもできるのだと、愉悦にひたる、それは、自分であってこそしかるべきなのに。
「おのれ……おのれ!」
ざわざわと、乱れる湟浬の心情そのままに、身を包んでいた闇が逆流を始めた。
戦闘を開始するにあたり、別空間へ移していた珠が次々と現れ、まるで彼女を恋い慕うかのように宙をとびかいだす。
「死ぬがいい!」
カッと闇が光と化した一瞬。恥辱と憤怒に身も心も焦がされぬいた湟浬の叫びとともに、恐るべき勢いで珠が樋槻めがけて突進した。
「だれかいたわ。いたのよ……」
膝に額をこすりつけ、ともすればすべてを夢や錯覚にしてしまいそうな『声』に、ひたすら否定を返し続けた。
1人無音の中にいると、本当と信じてしまいそうで怖くて、何度も声に出してつぶやく。
ふと、何か動く気配を感じて顔を上げると、涙で歪んだ視界の隅に、赤い光が浮かんでいた。
闇を照らす灯火。
だんだんと人型をとり始めたそれは、見覚えがあるような気がしたけれど、どうしても顔が思いだせない。
「あ! 待って!」
背中を向けられて、あわててあとを追おうとする。無我夢中で踏み出した足を、闇にとられて不様に転んだ。
「待って、おねがい! 行かないで!」
いくら泣き叫んでも青年の歩みは止まらない。一歩、一歩、確実に距離は開いていく。
彼が自分から遠ざかってゆくたびに、胸が切り刻まれる気がした。
呼びとめたくても、彼の名前すら思いだせない。
「いやよ! 行かないで! あなたを忘れたくないの! 忘れたくない! ――――っ!!」
すさまじい力。
その一言に尽きる、それ以外形容しがたい、凶暴な力が湟浬を中心に吹き荒れていた。
巻き上がる砂粒、1粒1粒が害意をむきだしにして湟浬の虜を傷つける。獣の牙のような傷痕を残し、頬を、肩を、足を、えぐり。さあひれ伏せとばかりに加重する。
音をたて、地表はすり鉢状に沈んでいった。
(なんという力か。なんという……!)
自分など比較にならない、圧倒的な力に打ちひしがれた湟浬の頭上から、ここぞとばかりに哄笑が降りそそいだ。
「どうした? それくらい、さっさと抜けてこいよ。ほら、俺はここにいるぜ?」
宙で、見えない椅子に座しているように軽く足を組み、回収した珠を弄びながらすずしい顔で樋槻は挑発する。
珠は完全に湟浬の支配から離れて、今では樋槻の周囲を飛び交っている。
同じ魘魅だというのに、この差は何なのか。眉間にしわひとつつくらない、まだまだ余裕といったその姿を目にして、湟浬の全身を名状しがたい畏怖が走る。
一体あれの主はどれほどの力をやつに与えたのだろうか。
あれではまるで、魅妖そのものではないか。
「……く」
自分など、あの者の敵にもならない。それはさとれた。しかしだからといって、このままおめおめなぶり殺されてなるものか。
主の決意に応じるかのごとく、湟浬の左手に付着していた黒血が蒸発しながら集結する。彼女を保護するように蠢いていた闇をも吸いこんで、手のひらに小さな黒球が現れた。
凝縮されたそれを、目前の敵目がけて放つ。
湟浬の手から離れた瞬間黒球は驚異の加速を見せて、樋槻を真正面から襲った。
渾身の一撃はとっさに張られた不可視の風壁も紙のように突き破って樋槻を貫く。
同時に力場が消滅し、しとめたとの、思いもよらなかった歓喜が容易すぎるとの懸念を押しのけて、満面の笑みとなって湟浬の面に浮かびあがるが、それも一瞬のこと。
それがただの幻にすぎなかったことに気付いたとき。数十もの圧縮した空気の弾に彼女の全身は射貫かれていた。
「あー、やっぱ、だめか」
勢いに押されて倒れ伏したものの、すぐに肘を立てて上半身を起こそうとする湟浬を見て言う。
言葉ほどに期待はしてなかったと、あっさりめの声だ。
「魘魅だもんなぁ。依り代砕かなくちゃ、死なないんだよな」
ほんと、人間なんかよりずっとしぶとくて、楽しめるな。
残忍な笑みを浮かべ、その背を足蹴にすると、左腕をつけ根から引き千切る。
本体から切り放された瞬間、樋槻の手の中で腕は闇と化して風に散った。
「あ、あぁぁぁぁあ……っ」
肩口を押さえ、激痛に悲鳴をあげつつもかろうじて転移を果たした先で、ぼたぼたと血の塊を吐き出しながら、湟浬は数歩よろめいた。
主より賜った依り代から力が失われない限り死ぬことはないとはいえ、痛覚はある。
にらみつけ、浅い呼吸を繰り返す姿を見ながら、さて次はどうしてくれようと楽しげに思いを巡らせたのち、樋槻はぽんと手を打った。
「そうだ。さっきあんたが宣言した言葉で、ひとつ面白いこと思いついたぞ。
同じ魅魎でも通じるか、あんたで試してやるよ」
嬉々とした顔でにこやかに告げる。
一体何を仕掛けるつもりか。その行為は不明ながらも対処するべくかまえた湟浬に、樋槻は沈黙すら効果的な間となるよう、ゆっくりと口呪をつぶやき始めた。
「わが闇に属する内なる闇よ」
「!! それは――」
風に乗り、聞こえてきた言葉に湟浬の顔がさっと強張る。
はっとなり、えぐられた脇の傷に目を向けた。
「わが主君・柊紫閻の名において、樋槻が命ずる」
傷口にはまだ樋槻の気が残っており、根を張っている。樋槻のつむぐ言霊に呼応し、急速に活性化を始めたそれに青冷め、うろたえるが、対抗する手段が思いつかない。
「今その眠りより目覚め、己が牙もてその肉体を千々に――」
引き裂け! そう告げて口呪が完成しようとした、ほんの一瞬をついて。
樋槻に全神経を奪われていた湟浬の脇腹を、突然背後から鋼の刃が刺し貫いた。
「!?」
ぱっと血塵を吐き散らして崩折れる。その背後より現れたのは、レンだった。
「わすれたく、ない……」
唇は言葉をつむいだが、正常な意識があるようには見えない。
焦点のあっていない虚ろな目を閉じ、湟浬の上に重なって倒れる。
どうやらまた気を失ったようだ。
無意識といえど身にしみついた上級退魔剣士としての技は適確に依り代の位置を探りあてていたようで、ぱりんとガラスが割れるような音をたてて依り代が砕けると同時に湟浬の体は一握りの闇と化して散ったわけだが。
「……な、……なっ。
なんっ、だとおーーーッ!???」
存在をすっかり忘れきっていたやつにおいしいところをかっさらわれた、あまりの出来事に呆然としていた樋槻は、そこでようやく声をあげられたものの、かといって現状は、今さら元に戻ることではなかった。




