第6回
うすぼんやりとした闇の中。触れた指先まで貼りついてしまいそうなほど冷たく、でこぼこした壁が周囲をおおっている。
ああ、ここは岩穴だ。
そう思って、小さなレンは白い息を吐き出した。
魎鬼の群れに襲われた際、父がここへ自分を隠したんだった。
いる場所を理解できた途端、ますます冷気と孤独感は強まる。かじかむ手足をさすり、座りこむと膝を抱いて縮こまった。
早く迎えにきてくれないかと、ひたすら父を待ち続けた、あのころ。
ふわり、レンの体を離れて浮かび上がった珠に、女妖は目を眇めた。
「あらあら。これはあまりいい出来じゃないわね。
まあしかたないかしら? 人1人分の記憶だもの、なかには不出来なのもあるわ。
私としては、あの青年が出てくる分だけでいいのだけれど……とてもきれいな薔薇色をしているものね。
それともこれだけで、もうないのかしら?」
ほうっとため息をついて、囲うように浮かんでいる珠の1つへと目を向ける。
女妖が手を差しのべたそれは、淡い薔薇色に染まった珠だった。濃淡に差こそあるものの、ほかの色の珠をはるかに上回る数で浮かんでいる。
風を感じるたび、すずしやかな鈴の音を鳴らすそのどれもが美しくきらめいているのを見て、女妖は満足気に目を細めた。
「これほど純度の高い珠はめったにないわ。つくづく掘出物ね。どの記憶も生気が漲っていて、おいしそう。
あとどのくらい残ってるかしら? この様子だとそう長くはもちそうにないけれど、せめてあと2つ3つ吐き出してから死んでちょうだいね」
悪意の存在などちらとも感じさせない声で、口元に手を添えて優雅にほほえんだ、瞬間。
いまだかつて感じたことのない、底冷えする寒気が背筋を走って、その微笑を凍りつかせた。
背後の宙空に突如出現した気配に、ばっと振り返る。
「おかしいおかしいと思っていたら、案の定か」
どのような者を前にしても恐れなど微塵も感じないと自負していた女妖自身、驚くほどの戦慄を宿した声で、現れた漆黒の青年は不敵に告げる。
「ひとの物に手を出すときは前もって断りを入れるものだと、おまえの主は教えてはくれなかったのか?」
腕を組み、肩をすくめて見せる姿に、さっと女妖の面から血の気が引く。
黒く渦巻く闇の瞳からは、先までと違ってあきらかに余裕というものが欠けていた。
「きさま、どうして……たしかに、今……」
思うように消しきれない強張りとあせりにうわずった声で女妖が呻く。
その素直な感情の表れに、樋槻はいたずらっ子さながらにくすくす笑って地に足をつけた。
「まあ、うすうすとね。はっきり分かったのはさっきかな。そいつが俺に斬りかかったりしたから。あれは、記憶っていう執着心を抜きとられたせいでだったんだな。
どんなに憎んだところで絶対できるわけないんだよ。なんたってこれは、そいつの命より大切な男の体なんだから」
自信満面己を指し、言う。嘲りの声音を多分に織り込んで。
「べつにさ、俺も俺の主もとっても寛大な心の持ち主だから、手足を折ろうが記憶を奪おうが、それはかまわないんだけどさ。けど、殺すとなったら話は別だ。
主と、そしてこの俺を通してもらわないと」
「番犬というわけか……」
静かにして大胆な探りだった。そのつぶやきを耳にして、ぴくりと樋槻が反応する。
2人の間でかわされる、探るような視線は冷たく、にこりともしない。
気にいらない、そう言いたげな表情。
それだけで魅魎には十分すぎる、戦闘理由だった。
ひゅっと風をきって走る音を耳にした刹那、女妖の首元に浮かんでいた珠が砕けて粉塵と化す。
もう少し横にずらしてもよかったんだぞ、と言わんばかりの笑みに触発され、女妖の全身が白光に包まれ始めた。
「生まれて間もないひよっ子が、意気がりおって……! この湟浬にかなうと思うてか!」
猛々しい宣戦布告を発した唇が、その意味を知らぬ者であれば見惚れんばかりのあでやかな微笑をたたえる。
さああと髪が宙に散り――刹那、まるでそれ自体が独自の意志を持つ生き物であるかのように、ありあらゆる方向から樋槻へと向かっていった。
暗い岩穴の中で1人、膝を抱いてすごした。空腹に堪えかねては父を呼び、母をなじり……あれは、いつのこと?
今もまだ、こうして冷たい穴の中。差しのべられるはずの手はまだ現れない。
イクラマッテモムダヨ。
「そんなはずない。きっとだれか来てくれる」
ダレガ?
「そんなの……分かんないけど……」
ジャア、コナカッタンダワ。
「そんな……」
そんなはずない。だれかいたわ。あたしを見つけて、この岩穴から連れ出してくれた。
ソレハユメヨ。
ココカラデタクテミタ、ツゴウノイイユメ。
違う、夢じゃない。夢なんかじゃ……。
「だれも、来ない……」
ソウヨ、ダレモコナカッタワ。
ミンナシンデシマッタモノ。
「だれも……だれ、も……」
ココカラヒトリデデルナンテ、ムリ。
マツダケムダ。
ダレモアナタガココニイルコトヲシラナインダモノ。
アナタハタスカラナカッタノ。
サア、ミンナノトコロヘイキマショウ。
「……違う! 違う! 違う! 違う!!」
一生懸命首を振る。
ナニガチガウノ。
「こんなの間違ってる! あたしは助かったのよ! だれかに助けてもらって……そうよ、ともに生きようと決めたの!」
ソレハダレ?




