第3回
「いつまで寝てやがんだよ、おらっ! 起きろ!」
げしげしげし。
樋槻は『遠慮』という言葉にかけらほども美徳を感じていないので、思いきりよく腹を踏み敷く。ぐりぐり踵で円を描いたところで、ようやくレンが身を起こした。
「なにをするか!! きさま!!」
痛みを緩和するべく踏まれた腹をさすりながら怒鳴る。その脇に、樋槻は荷袋を蹴り寄せた。
「もうとっくに陽は落ちてるのに、グースカ寝こけてるからだろ。
こんなつまらないことまでいちいち俺に面倒かけさせんなよ、グズ」
――――――っっっっ!
口にしたところでなんら意味を成さない文句は奥歯でぎりぎり噛み砕いて飲みこみ、ひったくるようにして荷を担ぎ上げる。
せっかくいい夢を見ていたのに、目を覚ました途端これだ。なんで寝ているのを起こしてまでわざわざ悪態をつくんだ。与えられた仕事が気に入らないのなら適当にしてればいいだろうに。妙なとこで真面目というか……こっちだってそうしてくれた方がよっぽどマシだった。あんないい夢はめったに――って、あれ?
ふっとあることに思い当たり、歩き出そうとしたところで足を止める。
何の夢見てたんだっけ?
「あの人の夢、よね……? 覚めたくないくらいいい夢だったんだから……。
でも……」
どんな夢だったか、片鱗も思いだせない。
「おい! そこでぶつぶつ言ってないで、さっさと歩け!!」
ガーっと牙をむく樋槻からの文句などまるきり無視して、どんな夢だったのか必死に思い起こそうとしているレンのフードに、宙に浮いていた樋槻の靴底がぐりぐり押しつけられる。
いくら気に入らない相手とはいえ、これが婦女子にすることだろうか。
……そうだ。もとはといえばこいつがあんな起こし方をするから、きっとそのショックで忘れたんだ。
寝ている人の無防備な腹を踏み敷くなんて、子どもだってしないこと、よく恥ずかし気もなくできたものだ。
「なんだって?」
胸の内でぼやいてたつもりがうっかり口に出していたのだろうか。
言葉尻をとらえて鋭く問い正してこられたことに内心で舌打ちしながら、止めていた足を前に踏み出した。
ちょっともったいない気もするが、忘れてしまったものはしかたないと、すっぱりあきらめてそれ以上ひきずるのはやめにする。
第一そんな、何かを片手間にできるほど気楽な旅ではない。
陽暮れから夜明けまでを活動にあてているが、それでも砂上をずっと歩きつめるのは体力の消耗が激しい。睡眠で取り切れない疲れが積み重なって、すぐ手足がだるくなる。
数時間おきに休憩を挟んではいるが、口やかましい見張り番がどこからともなく現れてガミガミ追いたててくるから、満足に休むこともできない。
ただ、休むだけ町へ着くのが遅れることを思えば、食糧事情に余裕を欠く今、樋槻の言い分が間違っているともいえないだろう。
移動用動物さえいればきっとこんな苦労、半分くらいですむのに。
(やっぱり金鎖と交換に、イマラを買っておくべきだったのかも……)
そうは思うものの、あのときはいつ樋槻が現れるか分からず長時間の交渉は無理だったし、それに、自分の食糧ですら危ういのに、道中のイマラのエサなんて買えるわけがない。
「……っ」
陽は沈んだばかり。歩き出してまだ間もないというのにはやくも息が上がった。脱水症でも起こしかけているのか、熱っぽくてくらくらする。
胃や脇腹はきりきりするし、こめかみはうずくし。体中どこもかしこもぼろぼろだ。間違いなく体重もかなり減ってしまっているだろう。
町は遠い、ひとの助けは期待できない、食糧も不安というこの最悪の状況下にあっては『このままのたれ死ぬかもしれない』という言葉が浮かぶのは至極当然のことだ。この数日の間、疲労したレンの脳裏を幾度かすめたか知れない。
しかし幸か不幸かその可能性だけは論外とすることができた。
死は、ありえない。たとえどんなに死にたがっても、あいつが死なせてくれない。
忌々しい顔が浮かぶ。
あの日以来、何度胸の中で断ったか知れない魅魔・柊紫閻。憎んでも憎みたりない。目の前であの人を殺した。
だれよりも優しく、純粋だった、あたし、の――――?
「わっと」
突然足をとめたレンに、後ろについてふよふよ浮いていた樋槻がぶつかりかける。
「あっぶねーやつだなっ。急に止まったりすんじゃねーよ!」
「あ、ああ……」
心ここにあらずといった様子で、そんな気の抜けた返事を返す。
レンは、何か気にかかっているような、でもそれが何か思いだせないような素振りでしばらく口元に手をあてていたものの、じれた樋槻からの催促に、またゆっくり足を動かし始めた。
おかしな感覚。あの人を思い浮かべるのにどうしてこんなためらいが出るんだろう。
一瞬の、あの空白の間はなんだったのか。
いくら考えても腑に落ちない疑問も、疲れて集中力を欠いているからだといえばそれまでかもしれないと、早々に考えることをやめる。
しかし、夜明けが訪れるほどの時間を経ても、なぜか晴れない感覚となって、それは長くレンの内に残っていた。




