4 王女の輿入れ
「みんな、これまでありがとう」
出立の日、私はサファライヌ神聖王国の皆に別れの挨拶をすると、笑みを浮かべた。
それは、会議室で皇帝との結婚を打診されてから、わずか一週間後の出来事だった。
私との結婚を即断したザルデイン帝国の皇帝は、何事にも時間を惜しむタイプのようで、結婚の準備に一週間しか時間をくれなかったからだ。
私を見送る人々の中に、王太子である兄の姿もあったため、私は腹立たしい気持ちを抑えるのに苦労する。
けれど、兄は私の心情など気付かぬ様子で、集まった人々を見回しながら、得意気に声を張り上げた。
「カティア、オレのおかげでお前はザルデイン帝国皇帝の妃になれるのだ! そのことを決して忘れず、感謝し続けるのだぞ!!」
私は何とか笑みを保ったけれど、胸の中で暴れまわる暴力的な感情を抑えることはできなかった。
そもそも今回、ザルデイン帝国と一触即発の状態になった原因は兄だ。
それなのに、反省するでもなく、私が帝国皇帝に嫁ぐのは自分のおかげだから感謝しろと言ってくるとは、状況を読めないにも程がある。
私が嫁ぎたくて帝国に嫁ぐとでも考えているのだろうか。
内心ふつふつとした怒りを覚えながら、兄に視線をやる。
けれど、兄は全く分かっていない様子でにやにやと笑っていたため、奥歯を噛み締めることで文句の言葉を呑み込んだ。
気分を変えようと周りを見回したところで、私を見送るために集まってくれた人々の中にヒューバートを見つける。
これで最後だというのに、冷静な表情を浮かべる元婚約者を見て、私の顔に皮肉気な笑みが浮かんだ。
―――ヒューバートはいつだって冷静だ。
会議室で、私と皇帝との婚約を聞かされた時に見せた、ヒューバートの落ち着き払った表情を思い出す。
彼が顔から表情を消した時は、もう感情の入る余地はないと決断した時だ。
そして、そんな表情をしたヒューバートは決して決定を覆さない。
犠牲になるのは開戦によって出動がかかる多くの騎士か、私一人か。
ましてや、私は死ぬわけでもなく、帝国の皇帝に嫁ぐだけ。
子どもでもわかる簡単な二者択一だ。
だからこそ、ヒューバートは間違えることなく正しい答えを選択し、私にもその答えを選ぶよう要請してきた。
私も納得してその答えを選んだのだから、私は自分の恋心に折り合いを付け、示された新たな道を歩き出さなければならない。
私は6歳の時から10年間ずっとヒューバートが好きだったから、簡単なことではないけれど、それでも彼を諦めなければならないのだ。
私の恋心を知っている侍女のシエラは、私が失恋した日の翌日、私を気遣って好きなだけ眠らせてくれた。
それから、目覚めた私の髪をすきながら、優しい言葉を掛けてくれた。
「カティア様は誰よりもお美しいですわ。そのうえ、『破滅の魔女』と呼ばれるほどの圧倒的な魔法使いですから、その価値は計り知れません。確かにノイエンドルフ公爵は素晴らしい方ですが、それでも、公爵にカティア様はもったいないと、私は常々思っておりました」
「まあ、シエラったら大きく出たわね」
私はしくしくと痛む恋心を抑えつけ、敢えて軽い口調で返事をする。
そんな私に対して、シエラは未来に希望を持てるような言葉を続けてくれた。
「カティア様は幼い頃からずっと、不思議な夢を見続けられてきましたよね。ここではないどこか、行ったこともない場所を、何度も繰り返して夢に見られていました。多分、カティア様の運命は、ここではないどこか他の場所にあるのです」
シエラはそう言うと、湿っぽさを吹き飛ばすかのようににこりと笑う。
「カティア様、世界は広うございます! ノイエンドルフ公爵以上の男性が見つかるかもしれませんよ」
不思議なことに、彼女の言葉は私の中に、その後もずっと残っていた。
だからなのか、次にヒューバートに会った時、咄嗟にシエラの言葉を流用した。
たまたま王宮の廊下でヒューバートに会った際、彼は私が帝国の皇帝に嫁ぐことに対してお礼を言ってきたため、なぜ別の男性に嫁ぐことを元婚約者から感謝されないといけないのかしら、とかちんときたからだ。
それだけでなく、ヒューバートの腕には茶髪の女性が勝ち誇った様子でしがみついていたため、胸の中がむかむかして言い返さずにはいられなかったのだ。
「あなたにお礼を言われる筋合いはないわ。私も考え方を改めることにしたの。あなたと結婚しても、臣籍降下で王族籍から抜けることになるだけでしょう? それだったら、いっそ帝国の皇帝と婚姻を結んで、皇妃として栄華を極めるのもいいと思ったの」
私の言葉に返事をしたのはヒューバートではなく、彼の腕にしがみついていたキャシー・スターキー子爵令嬢だった。
彼女は昔からずっとヒューバートに付きまとっている彼の遠い親戚だ。
「まあーぁ、さすがは優秀だと噂のカティア王女ですわ! 大帝国の皇帝が現れた途端、ノイエンドルフ公爵という最高の男性ですら簡単に捨ててしまえるのですから、計算高くて野心家ですのね! ですが、やり過ぎはよくありませんわあ。騎士団でもいつだって目立とうとして、王太子殿下に煙たがられていると聞いています。自己主張の強い女性ってのは、嫌われますわよ」
……ただの子爵令嬢ごときが、ヒューバートと一緒にいるだけで強気に出ること。
ずっと彼を追いかけていたものの、ちっとも相手にされていなかったから、晴れて隣に立つことができて浮かれているのでしょうね。
私に付き合う義理はないけど。
私は彼女の言葉を丸っと無視すると、ヒューバートに視線を定めた。
恐らく、これまで私以外の女性を一切寄せ付けなかったヒューバートがキャシーを連れているのは、世間の評判を気にしてのことだろう。
長年の婚約を解消し、慌ただしく帝国に嫁ごうとしている私を一方的に悪者にしないよう、ヒューバートにはヒューバートで新たなロマンスがあるのだと、国民に示そうとしているのだ。
けれど、別の女性と親しくしているヒューバートを見るくらいなら、皆に悪く言われる方が100倍いいわ。
それに、手っ取り早く手近な女性を選んだのでしょうけど、あからさまにヒューバートのことを好きな女性を側に置くなんて、私に対して配慮が足りないわよね。
私はまだ彼の姿を見るだけで心がじくじく痛むのに、ヒューバートはどうすれば物事が上手く回るかということしか考えていないのだわ。
ヒューバートの行動を腹立たしく思いながら、私は彼を睨みつける。
ヒューバートが帝国の皇帝と結婚する私にお礼を言ったということは、彼が私の婚約者という立場を早々に捨て、国のためになることを一臣下として考え始めたということだ。
だから、その切り替えの早さに腹立たしさを覚え、シエラの言葉を借りて渾身の嫌味を繰り出したというのに、……ヒューバートは一切表情を変えることなく頷いた。
「見上げた心意気です、王女殿下。あなた様ならこの大陸で最も高貴な女性になれますよ」
それから、ヒューバートは彼の腕にからませていたキャシーの腕を撫でたのだ。
その態度を見て、ヒューバートにとって私はもう終わった案件なのだと理解した。
だから、私は諦めたのだ……。
私は回想から戻ってくると、ヒューバートから視線を引きはがした。
彼は本当に冷静だし有能だ。
たった一週間で私と彼の婚約を解消し、私とザルデイン帝国皇帝の新たな婚約を結び直したのだから。
それから、ものすごく忙しいにもかかわらず、キャシーを連れて人が集まる色んな場所を出歩き、新たなロマンスをまき散らしたのだから。
私は笑みを浮かべると、私を見送るために集まってくれた多くの人々と言葉を交わした。
侍従、女官、料理人……たくさんの見知った顔に見送られ、私の胸はいっぱいになる。
いよいよ馬車に乗り込もうとしたところで、ヒューバートが目の前に立っていることに気が付いた。
王国の宰相として、最後のお役目を果たそうとしているのだろう。
近くで見ると、ヒューバートは酷い顔色だった。
彼はこの一週間、私の輿入れのために奔走してくれた。
だから、疲労が溜まっているのだろう。
元婚約者のために、全力で新たな婚約を整えてくれるなんてありがたいことだわ、と皮肉混じりに考えていると、彼は胸に挿していた一輪の花を差し出してきた。
思わず見つめたところ、それはサファライヌ神聖王国の国花だった。
ヒューバートが私に求婚した時に贈ってくれた特別な薔薇でも、幼い頃一緒に摘んだ思い出の花でもなく、私が去ろうとしている母国の花。
去り行く私に国花を贈るなんて、ヒューバートらしいわね。
そして、彼がもはや私に個人的な気持ちがないことは十分伝わったわ。
私は自嘲の笑みを浮かべると、花を受け取るために伸ばした手で、花とともにヒューバートの手を掴んだ。
はっとしたように顔を上げたヒューバートを見つめると、静かに口を開く。
「私は帝国に受け入れてもらえるよう全力で努力するわ。嫁いだ日から、帝国が私の国よ。あの国に誠実に向き合い、国民たちを愛するわ」
本当はその後に、こう続けるつもりだった。
『だから、私が立派な皇妃になり、この国とあの国の間を気軽に行き来できるようになったら、会いに来て。そうして、よくやったと私を褒めてちょうだい』
たった一人で獣人国に嫁ぐ私には、何らかの支えが必要だと思ったから。
だから、分かりやすい報酬がほしいと思ったのだ。
頑張ったら、―――私の最愛のあなたが私を褒めてくれる、と。
でも、止めた。
ヒューバートにはもはや私への恋心は残っていないようだから、私もきっぱりと自分の恋心を捨て去ることにしたのだ。
そして、―――私は何も持たずに帝国に行こう。それが私の最後のプライドだ。
「ノイエンドルフ公爵、これまでありがとう。―――さようなら」
私は晴れやかに微笑むと、振り返ることなく馬車に乗り込んだ。
そして、一人きりの馬車の中で、これでもかと思いっきり泣いたのだった。