003-02. 蕾閉ざす夜風
テイルプロダクションでは、未成年タレントの業務およびレッスン時間に制限がかけられている。
具体的には、二十時から翌朝五時までの時間に収録やレッスンを実施することが禁止となっているのだ。
そして、未成年の間は個人の裁量の範疇である自主トレーニングもこれに倣うという不文律が存在するらしく、二十時以降は未成年を含むメンバーのスタジオエリア立ち入りにも制限がかかる。
そのため、二十時以降の自主トレーニングは環境要因により不可能……なはずなのだが。
「…………ろざさんが言ってたの、ここかあ」
時計の針が二十時半を示す頃。
柘榴は、現在の住まいである社員寮の屋上を訪れていた。
敷地内に存在する社員寮。
六階建てのA棟と八階建てのB棟の二棟から成り、そこいらの賃貸物件よりもずっとしっかりとした造りをしている。
早い話が、それなりにいい感じのマンションだ。
そんな建物の屋上は、厳重なセキュリティにより施錠されている……というわけではなく。
柘榴の背丈よりも高いステンレス製の柵で囲まれた、立ち入り自由のビオトープとなっていた。
夜に自主トレーニングがしたい。
そんな掟破りな願いをローザに相談したのは、今日の夕方のこと。
ローザは少し思案した後、「歌だけなら」と、この屋上の存在を柘榴にそっと教えた。
「さすがに大声で叫んだりしたら怒られるだろうけど、アカペラで歌うくらいならみんな聞かなかったことにしてくれるから」というローザの表情は、紛れもなく悪戯っ子のそれであった。
教えられた通りに、ドアから出て右手に見える東屋に向かう。
綺麗に清掃された金属製の白い東屋には、同じように白く塗られた金属製のベンチが置かれていた。
踊ることができるような広さはないが、歌を練習するだけなら確かにここで充分だ。
肩にかけていたトートをベンチに置き、右耳にだけワイヤレスイヤホンを嵌める。
楽譜を片手に音楽プレーヤーの再生ボタンを押せば、先程までスタジオで何度も聴いたインストが流れ始めた。
「……――♪」
曲に乗せて、やや控えめに声を出してみる。
……やはり屋外、そして音楽用の場所ではないため、スタジオとは聞こえ方が全然違う。
ただ、今後野外ステージでライブをする機会も少なからずあることを考えれば、屋外での練習は決して悪手ではないだろう。
幸い、変な響き方や反響もないため、普段通りに声を出しても問題はなさそうだ。
「――、――――♪」
僅かに雲がかかった星空へと、音が昇っていく。
ブレス、抑揚、余韻の持たせ方……楽譜にメモした内容を的確に追いながら紡がれるそれは、しっかり歌として成立していた。
実のところ、柘榴は歌について苦手意識を持っていない。
人前で披露することについての羞恥や緊張は人並みにあるものの、自身の歌唱力については、現状で特に危惧するところはない状態だ。
それでも、柘榴にはひとつの懸念があった。
自分の歌は、誰かに聴いてもらえるほどのものなのだろうか。
心に響くだとか、胸を震わせるだとか、聴かせる力があるだとか……歌を褒める言葉は、この世に無数に存在するけれど。
そのどれもが、自分の歌を表すには相応しくないように感じてしまう。
アイドルとして歌うからには、歌唱力やテクニック以上に、もっと大切なものがあるのではないか。
例えば、あの時の――
「――――、――……」
特に突っかかることもなく、ワンコーラスを歌い上げる。
今回はテレビ収録用のため、この後にCメロを挟んで転調した大サビを――
その時。
イヤホンをしていない左耳を、水面を叩くような雑音が襲った。
「……っ!」
肩をビクリと跳ね上げて、右耳のイヤホンを外す。
恐る恐る首を捻って、先程自分が歩いてきた道のほうを確認すれば――
「…………橄欖坂、さん」
東屋まで続く、控えめにライトアップされたタイル張りの道の上。
夜空に溶け込むような色の髪を風に靡かせて、その人――橄欖坂衣織は立ち尽くしていた。
目が合ってから、どれだけの時間が流れただろうか。
「え、えと……お疲れ様です」
先に我に返ったのは、柘榴のほうだった。
慌てて楽譜をトートバッグに押し込み、ぺこりと頭を下げる。
「あの、すみません……何度かお部屋に伺ったんですが、引っ越しのご挨拶が遅れて……」
「…………」
「……橄欖坂さん?」
柘榴の挨拶にも謝罪にも、衣織は一切の反応を示さない。
ただ、呆けたような驚いたような表情のまま、じっと柘榴のことを見つめている。
何かしてしまっただろうか。
少し怖くなって目を逸らせば、衣織の足元に紅茶のペットボトルが転がっていることに気が付いた。
先刻聞こえた異音は、これが落ちた時のものらしかった。
「…………今のは、」
落ちたペットボトルを拾うべきか否か……そんなことを迷っていれば、静かな声が耳に届く。
「……今のは、君が?」
「え……?」
「今の歌だ。君が歌ったのか」
ただ冷静に、しかし問い詰めるかのように、衣織の問いかけが柘榴に迫る。
その何とも言えない勢いに気圧されて、柘榴は少し縮こまりながらなんとか首を縦に振った。
「…………っ、」
柘榴が肯定する姿を目の当たりにした途端、衣織がばっと背を向ける。
一瞬だけ柘榴の目に映った衣織の表情は、酷く傷付いたようにぐしゃりと歪んでいた。
「……あ、あの……ごめんなさい……」
「……なんで謝る」
「え、っと……」
何故か反射的に口から零れた謝罪の言葉を、今度は酷く冷たい声で刺し貫かれる。
理由は何ひとつ分からないが、衣織を怒らせたという事実が柘榴の体温を下げていく。
「何か……聞くに堪えない部分が、あったのかと……」
声が震えそうになるのをぐっと抑え込んで、なんとか答えを絞り出す。
返ってきたのは長い沈黙と――それからだいぶ遅れて、言葉だった。
「……何から何まで」
「っ……」
「……どこを取っても……全くもって、全てにおいて、未熟で、鼻について……っ」
背を向けたままの衣織の肩に、じわじわと力が入っていくのが見える。
それに合わせて、次第に声も強いものになっていき……。
「……~~っ、全然、全ッッ然! 何ひとつ聞くに堪えない!」
「っわ!?」
終いには、まるで癇癪を起こしているかのような物言いをしながら踵を返し。
柘榴の両肩をガッと掴んで、睨みつけながら喚き立てた。
「いいか!? まず姿勢からして全然なってない! なんでそんな猫背なんだ!? 歌う時はしっかり背筋伸ばすのが基本だろ! 誰に教えられたんだ、講師の名前を教えろ!」
「ぁ、ぁゎ……」
「それにAメロとBメロの切り替えも全ッ然駄目! おおかた『サビで盛り上げたいからサビ前は控えめにしておこう~♪』っていう安直な考えなんだろうが、この曲はサビ以前にAメロとBメロでも雰囲気違うだろ! 同じテンションで歌ったって間延びする! もっと頭を使って楽譜読み込め!」
「ひゃぃ……」
「極めつけは! あの! サビ! なんだあれ、あの中途半端な恥ずかしいビブラート! やる気あるのか!? 自分がちょっと、本当にちょっと! ちょーっと歌がうまいからって調子乗ってるんだろ!? あんな自分に酔ったナルシズム全開の歌をファンの前に晒してみろ! 今のご時世、ネットで笑いものだぞ!」
「………………」
ガクガク揺さぶられながら捲し立てられ、ふわりと意識が遠のいていく。
加えて、耳に届く言葉が非常に的確に柘榴の心を抉っていくものだから、終いには相槌を打つ気力すら奪われ、柘榴の瞳からは光が消えてしまった。
「……っはあ、はあ……っ、とにかく!」
一息に捲し立てた後、衣織はやっとのことで息を整えながら柘榴の肩を離す。
白熱しすぎたのか、その顔は耳の先から鼻の頭まで茹で蛸のように真っ赤に染まり、前髪で隠している顔もほぼほぼ露わになっていた。
「俺は、お前が……お前が紫乃の代わりだなんて、絶対に認めないからな!」
衣織はそれだけ言い放つと、再び勢いよく踵を返し、バタバタと足音を立てて階下へと消えていく。
ようやく月が登り始めた夜空の下には、茫然自失とした哀れな柘榴と、持ち主に置いていかれた可哀想なペットボトルだけが、虚しく残されていた。