011-■. 花は折りたし
午後八時半――尾崎芸能本社、地下駐車場。
「お帰りなさいませ、白長社長」
白い灯りが煌々と輝く中を進んでいくと、黒い車の脇に立つ女性がこちらへと頭を下げる。
きっちりとスーツを着込み、長い黒髪を巻き上げてメガネを装着した彼女は、白長が車の横に立つと後部座席のドアを開けた。
「……わざわざお迎えご苦労さま、夕下くん」
開けられたドアを潜り、黒い革張りのシートに腰を下ろす。
シートベルトを着用している間にドアは閉められ、ドアから離れた女性――株式会社serp'の副社長である夕下が前方の助手席へ乗り込んだ。
「お食事はいかがでしたか」
「ああ、楽しめたよ。残念なことに、肝心の誘いについては断られてしまったけどね」
夕下にそう返し、車外に残って深々と礼をする秘書――彼にはとある仕事を命じてある――をスモークガラス越しに一瞥した後、専属の運転手に「自宅まで頼むよ」と行き先を伝える。
すると、無言で頷いた運転手の手によりエンジンを掛けられた車が、滑るように走行を開始した。
「……想定内ですか」
「勿論」
程よい音量で奏でられるクラシック音楽の中で、白長と夕下は言葉を交わす。
極限まで静粛性を高めるカスタムが施された役員車の中は、白長にとってお気に入りの空間のひとつだ。
「あれは前だけを見続ける男だ。かつての栄光に後ろ髪を引かれるような、無様で矮小な姿を見せられてはたまらない」
車がスロープを登りきり、地上に出る。
すると間もなくして、暗い色の窓にぽつぽつと水滴が落ち始め――先程までは降っていなかったはずの雨が、車体を濡らし始めた。
「まあ、久々に面と向かって話すことができて満足だよ。もののついでではあるが、彼のお気に入りも見ることができた」
「……鈴鹿柘榴、ですね」
夕下の頭が少し動き、ちらりと白長を振り返る。
どうやら彼女も経営層として、尾崎の秘蔵っ子には関心があるらしい。
「あれはいいものだよ。この世界を渡り歩くには繊細すぎる気もするが……五年耐えれば上等なものに仕上がるだろうね」
「……いかがしますか?」
「まったく、夕下くんは怖い言い方をするなあ。別にどうもしなくていいさ」
警備員の手で開かれた門を抜けると、夕方よりも交通量の増えた大通りに出る。
綺麗に舗装された歩道の上――雨から逃げるように早足で行き交う人々の姿を見物しつつ、白長はふっと小さな笑いを零した。
「……それで? わざわざ迎えに来たんだ、君の方の話も聞かせてくれるんだろう?」
「はい、全てつつがなく。イレギュラーへの即時対応が可能なよう、社長室のメンバーを数名、一般客にカモフラージュした上で現場周辺に残しております」
「結構。後のことはさっきの彼に任せてあるから、君は本件のことを一旦忘れてくれても構わないよ」
「かしこまりました」
白長の命令に、夕下は深入りすることなく従う。
そして、会話はそれきりぱったりと途絶え――白長が暮らすマンションに到着するまで、優美な音楽だけが車内を満たしていたのだった。
……嬉しいよ、蓮。
十年という歳月を経て、立つべき舞台を他者に奪われて尚――君は、この世の誰よりも誇り高く輝いているんだね。
今の君に舞台上へ戻る気持ちがないのは非常に残念だが……それについては、全てが済んでから再度考えたって遅くはない。
さあ――今度はこの場所で、もう一度始めよう。
今日までの混沌を過去にして、我々の手で新たな世界を作ろうじゃないか。




