011-03. 咲き初めのペトリコール
「こちらに戻っておいでよ、蓮」
白長が紡いだその言葉に、時間の進みが止まったかのような錯覚を覚える。
無論、発言者の白長とその隣に控える秘書は涼しい顔をしているものの、テイルプロ側――少なくとも柘榴にとっては、その発言は大きな爆弾と呼んで過言ではなかった。
「…………白長、」
ただでさえ低音の声をさらに低くして、尾崎が相手の名前を呼ぶ。
「まさか、それを言うためだけにここに来たなどと言わんだろうな」
「まさかも何も、その通りだよ」
朗らかな笑顔と仮面のような無表情の間に流れる、凍りつくような空気。
「…………」
客人を前にして失礼なこととは理解しつつも、柘榴は戸惑いつつ柴田マネージャー――今日は社長秘書としての同行だが――へと視線を向ける。
「………………」
返ってきたのは、柘榴の目をしっかり見据えて僅かに首を振るジェスチャーのみ。
……狼狽えるな、ということだろうか。
「……百歩譲って、そのふざけた行動理由には目を瞑るとして、だ」
氷点下の睨み合いから先制したのは、話を受けた尾崎だった。
「鈴鹿をこの場に呼んだ理由はなんだ。こんな話を聞かせる必要はないだろう」
「ああ、それは私の個人的な希望さ。君の一番の秘蔵っ子がどんなものか、直接交流して知っておきたくてね」
それに、と白長が続ける。
「未来ある若者にこそ、この業界のこれからを考える機会を与えないと」
「………………」
眉間の皺を深め、尾崎が押し黙る。
その沈黙を都合のいい意味に受け取ったらしい白長は、柘榴に視線を移してにっこりと目を細めた。
「……そろそろ次の皿が到着する頃だね。料理が来てから続きを話そうか」
「……鈴鹿くんは、我々が表舞台に立っていた頃を知っている世代だったね」
「ぁ……はい……」
「解散の理由も知っているかい?」
「…………それは……」
白長の問いに、柘榴は反射的に口籠る。
……Fsを知っていながらその理由を知らないものはきっと居ないだろうが、その話題を当人たちの前で口にするのは万人が憚るだろう。
「……鈴鹿、構わん」
肩を縮こまらせ、パスタが高く盛られた皿だけを見つめる柘榴に思うところがあったのだろうか。
助け舟を出したのは、他でもない尾崎だった。
「言っていい」
「でも……」
「大丈夫だよ、鈴鹿くん。我々はね、そんなことで今更傷付くような繊細さなんて持ち合わせていないから」
「お前はもう少し言い方を考えろ」
続けて白長にもそう言われてしまっては、逃げ場を塞がれたも同然だった。
「……知っています、もちろん。でも……」
最後の頼みの綱として視線を向けた柴田にも静かに頷かれ、柘榴は小さな声を絞り出す。
「でも、俺は――」
「『尾崎社長が現役時代に女性問題なんて起こす人だとは思えない』」
柘榴の言葉を遮ったのは、白長の凛とした声。
先程までよりも僅かに大きな声量が空気を震わせ、柘榴は反射的に肩を跳ねさせてしまう。
「そうだろう?」
「…………はい……」
しかし、柘榴が濁そうとした部分までもが明確に言語化された言葉は、続けようとしていたものと内容自体は違わない。
否定する理由などない白長の発言に、柘榴は弱々しく頷くしかなかった。
十年前、全盛期のFsを零落させた大事件。
それは、九十九蓮と業界関係者が連れ添う様子を激写したゴシップ記事だった。
ただの恋愛スキャンダルでさえ、アイドルであった九十九蓮の評判を落とすには重大過ぎる内容ではあったのだが……最大の問題は、相手女性が既婚者――すなわち、ふたりが不倫関係にあったという点だろう。
これによる各種メディアの糾弾、そして様々な外圧の結果として……九十九蓮は自ら伊久路オフィスを退所したのである。
しかし、今の柘榴はこの一連の流れに違和感を感じている。
現役時代の九十九蓮の仕事ぶりは、随所からプロ意識の高さを感じることができる見事なものだった。
そして尾崎となった今でも、その生真面目さは知っての通り。
そんな彼が最高潮の時期に自身の商品価値を下げるような――あまつさえ、社会的信頼を貶めるような不貞行為に走るとは到底思えない。
恐らく、そう感じているのは柘榴だけではなく……だからこそ、彼が社長を務めるテイルプロには、今日に至るまで多数のアイドル志望者が集まっているのだろう。
「……だそうだよ、蓮」
「………………」
「よかったじゃないか。君が選んだ後継者は、君に似て思慮深いらしい」
料理と共に運ばれてきたワイングラスに口をつけ、白長が笑う。
対する尾崎は腕を組んで椅子に深く腰掛けていて……どうやら、接待としての対応は完全に放棄しまったらしい。
「……いやはや、鈴鹿くんの思うとおりだよ」
グラスを置いた白長は、慣れた手つきでフォークを手に取った。
柘榴にとっては普段あまり目にする機会のない平打ちのパスタが、フォークを芯として反物のように巻かれていく。
「あれはね、うちの先代が仕組んだことなんだ」
「え……」
「蓮の生家と伊久路はズブズブでね。蓮のお兄様が女性関係でやらかしたものだから、揉み消す手段として背格好の似た蓮を生贄に捧げたのさ」
「……それって……」
「九十九哲郎太、真郎太親子――入閣まで果たした大物議員とその二世だ。名前くらいは知ってるだろう?」
さらりと告げられた真実に、柘榴は動揺して尾崎へと顔を向けた。
しかし、当の本人は普段通りの無表情でパスタを口に運んでいて……その無関心が逆に居心地の悪さを助長しているように思えてしまう。
「まあ、そんなことがあったものだからね。蓮は生家とも事務所とも縁を切って、今は尾崎の人間というわけだ」
なんとも惨い話だよ、と小さく肩を揺らす白長の表情は、ここに至っても変わらず笑顔だ。
ただ……その黒く潤んだ瞳の奥には、たかだか柘榴程度の人生経験では推し量れないような感情が渦巻いているように感じて、背中に薄ら寒さを感じずにはいられなかった。
「……お前はその経緯を全て目の当たりにした身で、俺に伊久路に戻れとのたまうわけか」
フォークを伏せ、グラスに指をかけながら、尾崎は白長に問いかける。
グラスの中身は白長のものと同じアルコールのようだが、その色はテレビなどで目にする赤よりも一段薄く、小さな泡が水面に向かってシュワシュワと浮かび上がっていた。
「こちらはもう伊久路ではないよ、蓮。私が手ずから作り変えた、新たなエンターテイメントの場だ」
「………………」
「あのお粗末な企みを指示したものはもう居ない。君の汚名を濯ぐための証拠だって、充分に準備ができている」
白長が穏やかな口調でそう語るも、尾崎は眉ひとつ動かさない。
それどころか、ワイングラスを置いてフォークを手に取り直すと、視線を皿だけに向けて堂々とパスタを巻き始める始末だ。
……心底興味がないという意思表示なのだろう。
「……ねぇ、蓮。君という光を失った世界は暗澹とし過ぎているよ」
尾崎のつれない態度にひとつ溜息を吐き、白長は甘えるような声で言葉を紡いだ。
「君と私が表舞台を去ってから、この業界は過去に巻き戻ってしまった。玉の中に石が混じり、無駄で無価値な摩耗によって価値が下がっていく」
「…………」
「必要なのは、彼らを統率、牽引し、時に無慈悲に選別する圧倒的な光――揺らぐことのない絶対的な偶像。世界は君を必要としているんだよ、蓮」
ゆったりとしていた口調が、捲し立てるようにテンポを上げていく。
とろりと甘い声には次第に熱が籠り、語り口はどんどん壮大なものへと変化していく。
「君の適正はプレーヤーにある。君が再びあの場所に立つことこそ、鈴鹿くんのような後進が自由に羽ばたくために必要な最大の貢献だとは思わないかい?」
白長が告げるその言葉に、きっと嘘はないのだろう。
彼はきっと、それこそがこの混沌とした時代を切り開く鍵であり――尾崎の持てる力を最大限活かす最高の方法だと信じている。
きっと、そのはずなのに。
……怖い。
浮かべる笑顔は穏やかで、発言や視座だって経営者然としているはずなのに……今の白長魅月の姿を、何故か柘榴はそう感じてしまったのだった。
「……白長」
執着とも取れるその熱量を一身に受けつつも、当の尾崎は無表情のまま口を開く。
その背筋は今一度しかと伸ばされており……一切の動揺も当惑も見せない、いつも通りの社長の姿がそこにあった。
「十年前――最後の日に、俺が伝えたことを覚えているか」
そうして、やっと真っ向から白長の目を見据え、言い放つ。
「俺はもう、表舞台には立たない」
「…………」
「お前がもう一度ステージに立ちたいのなら、好きにしろ。プレーヤーの立場での影響力についても、お前であれば不足はないはずだ」
俺は付き合わない。
そこまで言い切って、尾崎はテーブルに置かれたベルを軽く叩いた。
すると即座に個室のドアがノックされ、ぴしっとした身なりのウェイターが入室して優雅に一礼する。
「……そうか、それは残念だ」
これ以上、この話題を続けるつもりはない。
誰が見てもそう理解できる尾崎の行動を前に、白長は微笑を崩さず呟いた。




