008-03. 花氷を砕く
『ネクストスタジオ』の収録は、おおよそ二十時半頃に終了した。
予定より三十分押す形にはなったものの、内容としては大きな問題もなく、閉演後の観客の雰囲気もとても良好だったように思う。
特に、本日初お披露目された柘榴については、既にSNSで話題になっていることだろう。
一応、収録内容をみだりに公表することは控えるようアナウンスされているのだが……やはり、人の口に戸は立てられない。
事務所もそれを重々理解した上で、話題作りのために利用する道を取るのだろう。
……その証拠に、会場を出て公式サイトを確認してみれば、知らぬ間に柘榴の名前が研修生紹介ページに追加されていたのだった。
時刻は、二十二時。
夕方まで振っていた雨の余韻を残しつつも、僅かな雲間からは眩い星が地上を覗く。
僅かに夏の香りを孕む夜風の中、衣織はいつも通り社員寮屋上のベンチに腰掛けて遠くの夜景を眺めている。
ただ、今日はいつものトレーニングとは、僅かに事情が違っていた。
がちゃり、と、屋上に続くドアが開く音がする。
続けてタイルを踏み締める音が響き……足音の持ち主は衣織の座るベンチへ近付いてくると、衣織の三歩程手前の位置で止まった。
「……お待たせしてすみません」
目の前の彼――柘榴が、そう言って小さく頭を下げる。
先程までステージ上で放っていた一番星の如き輝きは鳴りを潜め、その瞳にはいつも通り子犬のようなあどけなさが宿っていた。
「いや、呼び出したのはこっちだし……」
「っあ、はい……」
「……まあ、座れば?」
そう言って隣を示せば、柘榴は素直に腰を下ろす。
普段であればこのまま沈黙してしまうような空気感だが……呼び出した側という立場上、今日に限っては衣織のほうから積極的に口を開いた。
「……観たよ、さっきの」
「…………」
「すごかったよ。初舞台と思えなかった」
静かな声でそう告げると、柘榴が膝の上で拳を握る。
「……それ、は」
「…………」
「本心じゃ、ないですよね」
「……どうしてそう思う?」
「っ、だって……!」
握り込むもののない拳の内側から、ぎちりと嫌な音がした。
「俺っ……全然、歌えてませんでした……!」
「…………」
「ステージに立って、強い光に当たって……頭が真っ白になって……! 体が覚えている限りの動きしか、できなくて……!」
血が滲んでいてもおかしくないほどに力の入った手の甲の上に、ぱたぱたと音を立てて雨が降る。
前髪の奥から落ちる水滴を目の当たりにして、衣織の胸の奥がちりりと焦げた。
「っ、ただ……ただ、見てくれて、いるからっ……客席の、中のどこかに……貴方がいる、から……それだけ思い出して、動いて……!」
その声は、震えているなんてもんじゃない。
溢れる涙のせいで音はくぐもり、時折啜り上げる音を立てる。
「こ、声っ、震えてました」
「……うん」
「手も、感覚なくて、だめでしたっ」
「……そうだな」
紡がれる懺悔に、短い相槌を返す。
声の震えも、身振りの乱雑さも、衣織が感じたことと相違ない。
きっと、自分のことだからこそ、誰よりも細かく気付いてしまっているのだろう。
こういった相手への慰めや気休めが何の意味も持たないことを、衣織はよく知っていた。
「ほんっ、ほんとは……! もっと、ちゃんとしたのを観てもらいたかった……!」
「…………」
「っ……だから……悔しい、ですっ……!」
そう吐き捨てると、柘榴は目元を擦りながら本格的に泣き出してしまった。
謙遜でも卑下でもない、心の底からの屈辱。
きっと、それは柘榴の中の真実で、偽りはない。
……それでも。
「…………俺は、すごいって思った」
ぽん、と。
柘榴の太ももを軽く叩いて、衣織が零した。
「……悔しいっていうなら、俺のほうが悔しいよ。初舞台の新人にあんなステージやられてさ……『俺だってあのくらいできる』なんて、大人げなく嫉妬したんだ」
……本当は、こんなこと言うつもりはなかったのだ。
ただ、歌を続けることにした、君を見ていたらまた歌いたくなったと、それだけ伝えるつもりだった。
「馬鹿な話だろ。勝手に落ち込んで、勝手に諦めて……なのに、君の熱を――覚悟を見た途端に、『ふざけるな!』って思った。逃げ出した自分をぶん殴ってやりたいくらい、猛烈に腹が立った」
なのに、この青年が。
恥ずかしげもなく剥き出しにした心で、ぼろぼろ泣きじゃくるものだから。
こちらも、ちゃんと返したいと思ってしまったのだ。
「だからもう、うじうじしてる暇なんてない。ちゃんと、自分の気持ちと向き合って……君よりも凄い歌を、必ず歌ってみせる」
しっかりと告げれば、柘榴が恐る恐る顔を上げた。
どうやら、驚きで涙は止まったようだが……その目元は真っ赤で、細かな露に濡れた睫毛がきらきらと輝いている。
「……それ、って」
「……ああ。歌、続けるよ。仮にアイドルに戻れなかったとしても、今の時代なら歌える場所は沢山あるし……それにアイドルだって、できることなら……」
潤んだ瞳が見開かれる。
しかしそれも僅かな間で、またすぐにくしゃっと歪んでぼろぼろと泣き始めてしまった。
「っわ……!? な、なんでこれで泣くんだよ!?」
「ぅうっ……よっ、よ、かったぁ……!」
どうやら一気に気が抜けてしまったらしい。
ぐしぐしと目元を擦りながら、明らかに先程までよりも大量の涙をだばだばと流していく。
「お、おれぇ……かんらんざかさんと、うたいたいからぁ……! だから、うたってくれるの、うれじいぃ……!」
「あぁ、うんうん……」
「おれ、がんばるがらっ……いづが、いっじょに……!」
「分かった分かった。分かったから一旦落ち着こう、な?」
なんとか泣き止ませようと、衣織は少し高い位置にある柘榴の頭をぽんぽんと撫で叩く。
かつて、衣織の弟や妹が幼かった頃に効果的だったあやし方なのだが……。
「っ、う~~~~!!」
「えぇ……!?」
……悪化した。
どうしろって言うんだ!!
「うっ、がんらんざがざん~!」
「うわっ、待って! 重い! ってか鼻! 鼻出てるからなんとかしろ!」
子供のような呻き声と、おろおろと慌てふためく声が、静かな夜空へと昇っていく。
灰色のカーテンはいつの間にか風に流され、煌めく星々が二人の青年を見守っていた。




