008-02. 花氷を砕く
「……始まったか」
舞台袖、上手側。
このバックステージ内で最も大きな裁量を有する男――尾崎蓮は、無表情のままぼそりと呟いた。
その姿は普段きっちり着こんでいるスーツ姿とは若干異なっていて、ジャケットを脱いでタイを外し、シャツは腕まくりまでしている。
舞台裏に立つ際は極力現場に近い空気を纏うことが、元パフォーマーである彼なりのポリシーだ。
その切れ長の眼の中に映るのは、他でもない舞台上の新人。
ほんの二か月前まで碌なステップも踏めなかった、生まれたての赤ん坊。
……だが、それも既に過去の話だ。
今ステージに立っている男は、荒削りでありながらも激しく、熱く……その魂を燃やしている。
そこには、アイドルという存在の維持に不可欠な『覚悟』が確かに宿っていた。
「……柘榴、いい感じだろ?」
いつの間にか傍に立っていた柴田が、軽く背伸びをして蓮に耳打ちする。
先程まで研修生たちのサポートで楽屋を走り回っていたはずだが……どうやら柘榴の初舞台を見るために、ここまでやってきたようだった。
「…………出だしは及第点だ」
仏頂面のままそう返せば、隣から笑いをこらえるような息遣いが聞こえた。
新たなユニットをデビューさせ、『テイルプロが描く明日』を明確にしてみせろ。
それが、尾崎芸能株式会社会長・尾崎泰山から蓮に下った勅令だった。
『新しい明日を描き、夢見る力を提供する』――尾崎芸能が掲げる経営理念。
テイルプロ設立以来、彼が手がけてきたユニットでその理念を失していたものはひとつとして存在しない。
にも関わらず、自分の才覚を見出した養父にこの勅命を告げられた時、蓮の心を襲ったのは怒りではなく、羞恥と後悔だった。
それはきっと、市場を作っていく立場である自分の迷い――アイドルという存在が飽和状態にあるこの時代において、自分が提示する戦略が正しいものであるのか――を見透かされたが故の出来事で、それを指摘されるという至らなさが、何よりも耐え難かったのだ。
そこから苦節半年。
様々な困難で眠れない夜を繰り返しつつ、蓮は新たなプロジェクトの企画立案に取り組み続けた。
もちろん、既存ユニットのプロデュース方針を今一度見直すことも同時並行しながら、自身が掲げるべき理念の再構築を進めていったのである。
正直なところ、未だ正解は見えていない。
この自分の至らなさにより、きっと多くの人間を振り回し、不安を抱かせているだろう。
しかしこれは他でもない、テイルプロの未来を左右する重要な課題である。
下手を打てば自分の椅子はおろか、彼の信念の下に集った優秀な者たち、そしてタレントを応援するファンまでもが涙を呑む羽目になることは明らかだ。
だからこそ、蓮はこれに対する答え――その始まりの一歩となるToPプロジェクトに全霊を懸け、その重要なピースのひとつである彼らを導く必要があるのだ。
現状このプロジェクトは、先行するユニットの仮メンバーが離脱するという大問題に置かれており……開幕から絶体絶命であることは否定できない。
しかし、今日のパフォーマンスを経て、何かが大きく変わるだろう。
蓮はそんな願望に近い予感を、鈴鹿柘榴が胸に秘めるものの中に見出したのだ。
己の有する審美眼を信じ、己が選んだ一輪の蕾に賭ける。
それが、社長である蓮が選んだ決死の一手だった。
「……ここからだぞ、鈴鹿柘榴」
未だ完成品には程遠い輝きに目を細め、蓮はその名を口にした。
「…………」
声が、言葉が、出ない。
眼下に広がる光景は、ステージで踊る見知った彼の姿は。
先日まで星空の下で微笑みながら披露されていたそれとは、明らかに違っていた。
……衣織の中の冷静な部分が、しっかりと目の前のパフォーマンスを分析する。
歌声――指摘した箇所はきちんと押さえているものの、声がブレている。後述する動きのせい。
ダンス――勢いはあるが暴れすぎだ。止まるべきところを勢いで振り抜くなど、勝手なアレンジが多数見える。
総評――中の下。魅せるということを忘れ、熱に浮かされているのがありありと分かる。
……そのはず、なのに。
どうして、こんなにも胸が、心が震えるのか。
『タキオン』は、とある男の心情を描いた楽曲だ。
その歌詞の端々から滲むのは、焦がれる者の衝動。
かつて、衣織もこの曲に挑戦したことがあったが……曲の表現には非常に難儀した。
なんせ、ここまで焦がれる様な衝動に、衣織は覚えがなかったからだ。
散々頭を捻りに捻って解釈に迷った挙句、オリジナルの歌唱者であるシリウスのもとへ直々に相談しに行ったほどである。
その際、シリウスは「俺も未だ、明確に言語化できるほどの自信はないが」と前置きをした上で、「これは単純なラブソングではない」と語ったのだ。
『声は遠く 星は白く そこは遥か夢の彼方』
『君を求め手を伸ばす 指先が虚ろ掴む』
『今はまだ届かないけど』
……安直に読み取るなら、恋焦がれる相手を求めて手を伸ばす、片想いの描写だ。
しかし、曲はこう続いていく。
『歌を超えて 色を超えて 消えぬ熱を連れてくから』
『誰も証明できない 破れた因果の先で』
『君とふたり終わりのないソラへ』
『君』を求めて追うこの歌の中に、『待っていて』の言葉は一度も登場しない。
自分が追いかける。光の速さすら超えて、この熱をぶつけに行く。
だから、どうか止まらないで。
永遠に続くソラを、俺の前を、ずっと走り続けていて。
そして、衣織は男の心をじりじりと焦がす衝動の輪郭を知ったのだ。
――ああ、これは。
――これは、憧れの歌だ。
サビを歌い終えて間奏に入る。
星空の下を駆け抜けていくようなバイオリンのメロディに合わせ、柘榴は長い脚を器用に捌きながらステップとターンを決めていく。
空に手を翳し、星を掴み取るかのようにぎゅっと拳を握る柘榴の表情は、眩さに照らされて突き動かされているかのような、渇求の色を浮かべていて。
長い睫毛に縁どられた瞳が揺れる様に、その場の全てが呑まれていく。
「…………どうして……」
ゆらり、と。
胸の奥に、感嘆とは異なる何かが鎌首をもたげるのを感じる。
「……どうして、お前が歌えるんだ」
俺だって、ずっと掴めていないのに。
オリジナルのシリウスだって、難しそうな顔をしていたのに。
今歌っている柘榴は、彼自身の『タキオン』を完成させている。
旋律を自在に操り、歌っている。
まさしく――心のままに。
その事実が、衣織がずっと封印してきた強固な心の栓を、乱暴な手付きで抜いてしまった。
どうして。
どうして、どうして、どうして。
俺のほうが先に向き合ったんだ。
俺のほうが先に答えの概形を捉えていたんだ。
それなのに、なんで。
なんで、俺に憧れただけの分際で、俺の言葉を鵜吞みにした新人の分際で、俺の目指す場所にもう立っているんだ。
俺は歌では絶対に負けちゃいけないんだ。負けたくないんだ。
じいちゃんに育ててもらったこの歌声に懸けて、一番になるためにずっと努力してきたんだ。
その血反吐を吐くような苦悩を、孤独を、こんなぽっと出のやつに軽々飛び越えられていいはずがないだろ。
堰き止めるものがなくなってしまえば、もう止まらない。
みるみるうちに嵩を増し、溢れ、こんがらがった塊を根こそぎ流し去っていく。
歌う理由が変わった?
馬鹿言え、今でもこんなに煮え滾っているんだぞ。
目の前に提示された、簡単で分かりやすい道しるべに甘えただけだろ。
紫乃に申し訳が立たない?
他人のせいにするな、馬鹿野郎。
第一、俺がしたいって思ったことに文句を言うような奴なら、いつも通りこっちからコンビなんて願い下げだ。
もうアイドルとしては商品にならない?
知ったことか、俺は歌うためにアイドルになったんだ。
たとえアイドルの道が閉ざされたとしても、歌うことをやめていいわけがないだろ。
悔しい。
悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい!
ああっ、イライラする!
髪の毛を片手でぐしゃぐしゃと掻き乱し、ギッと柘榴を睨む。
瞬間、天を仰ぐ柘榴と目が合った気がした。
何が憧れだ、何が絶望だ。
逃げていいわけないだろ、歌は俺の人生なんだぞ。
歌う理由なんて、プライドひとつで充分だ。
追いつかれてたまるか。
光速すら超えて追ってくるっていうんなら、俺はその上の速さで逃げてやる。
お前が「待って」って泣きべそをかくまで、先へ先へ進んでやる。
この身が落とす影すら、踏ませてやるつもりはない!
最後のフレーズを終え、短いアウトロと共にパフォーマンスが終わる。
永遠とも錯覚する数瞬の沈黙ののち――甲高い歓声と拍手が、劇場全体を揺るがした。
他の観客同様に、衣織は手のひらを打ち鳴らして拍手を送る。
しかしてその腹の中は、久方ぶりに薪をくべられた炉の如く、怒りに似た高温の感情をめらめらと燃え盛らせていた。
見てろよ、鈴鹿柘榴。
お前の鼻っ柱に、俺の本気を叩きつけてやる。




