008-01. 花氷を砕く
『ネクストスタジオ』の収録は、つつがなく進行していった。
冒頭の全体曲から始まり、メンバーをリニューアルしたネクストスカイのパフォーマンスを二曲。
次にニゲラとローザのデュオユニットによるトークと歌唱を経て、現在はデビュー済ユニットがパフォーマンスを披露している最中だ。
「…………」
その様子を眺めながら、衣織は少し懐かしい気持ちになる。
かつては自分も、少しでも歌うチャンスを得ようとがむしゃらに努力したものだ。
個人的にあまり好きではなかったトークやバラエティコーナーでも積極的に発言したし、他ユニットの情報も徹底的にリサーチしていた。
……それでも結局、デビューまで辿り着くことはできなかったのだが。
ふと、隣に座る苺を横目で見る。
先程まで無言ながら元気にペンライトを振っていた苺は、今は手を止めて前を見つめている。
その視線はステージ上のアイドルたちを見つめているように見えるものの、どこか上の空で……彼女が何を思っているのか、容易に察せられた。
柘榴に妹が居る、ということは本人から少しだけ聞いていた。
そして、柘榴や苺の語り口や話の内容を聞くに、世間一般の同年代の兄妹に比べても、かなり良好な関係なのだろう。
そんな兄が今日、人生の岐路に立つのだ。
しかも、目指す先はアイドル――芸事の世界の中でも、人の夢や理想に寄り添う側面が特に強い職業である。
加えて、彼女はアイドルという存在について造詣が深く……求められるハードルの高さを知っているとなれば、身内がそこに立つことへの緊張もひとしおなはずだ。
衣織は静かに自分の左手を見つめる。
脳裏に蘇るのは、つい先刻の――想いを募らせたような表情。
全部を歌に乗せると言った。最後まで聴いてほしい、と。
あれは、覚悟を決めた人間の声だった。
だから……。
「……大丈夫だ」
微風が草花を揺らす程度の声で、衣織は囁く。
きっと苺にすら届いていないであろうその言葉は、劇場を満たす熱気の中に消えていった。
「みんな~! 盛り上がってる~?」
――ステージから響くローザの声が、柘榴の耳に届く。
メインMCが先程の枠でパフォーマンスを行ったため、ローザが代打として司会席についているのだ。
「……よーっし! いい感じに盛り上がってきたね~!」
「そうだな、ステージまで熱気が伝わってくる。みんな、ありがとう」
ローザに続いて、同じく司会席についているニゲラの声も響く。
マイク越しに発されているその声は、ここ――暗幕を挟んだステージ裏では僅かにくぐもって聞こえた。
「……さて、次は俺らの新しい仲間を紹介します」
スタッフの合図を待ったためか、ワンテンポ置いたあとにニゲラが収録向けのセリフを発する。
客席の反応は、ここからでは分からない。
……自分の好きなユニットを一分一秒でも多く見たいファンからすれば、新人のコーナーなんて疎ましく感じるのかもしれない。
きっと、下手なパフォーマンスを見せたら「時間を無駄にした」と想われるのだろう。
怖い考えばかりが頭を過り、指先が震えそうになる。
「…………」
それでも、柘榴は右手を開き、左手の人差し指を手のひらに沿えた。
先刻の温もりを、言葉を、丁寧になぞっていく。
ファンの理想に応えるアイドルという存在において、自分が今ここに立っている動機は不純と言わざるを得ないだろう。
けど、それこそが、それだけが、今の自分を支えるよすがだ。
自分は今日、自分自身と……たった一人のためだけに、アイドルになる。
三回なぞって、怖気と共に胃の底へ流し込む。
……そういえば。
あの人、右手に書いてくれたんだ。
俺が左利きだって、気付いてくれてたんだな。
「――今日が初ステージとなる彼を、一緒に温かく応援してあげてね!」
ローザの紹介が終わったところで、スタッフが細いペンライトで足元を照らしながら、カーテンに手を掛けてゴーサインを出す。
さあ、出番だ。
片手で開かれたカーテンの向こう――ステージをぼんやりと照らす銀色の薄明かりの中へ、柘榴は一歩を踏み出した。
星明かりを思わせるライトの下、ついに彼が現れる。
衣装についたフードを目深に被っていることもあり、まだ顔は見えない状態だ。
しかし、その高身長とスタイルの良さはどうしたって隠せない。
「……ねえ、すごいスタイルいい……」
「モデルさんみたい……」
「ねえ……あれ、もしかして……」
背の低い仕切り壁を挟んだ向こうから、そんなどよめきが聞こえてくる。
中には、存在に気付いた観客も居るらしく、色めきだった声も微かに混ざっていた。
フードの端を指で摘まみ、ポーズを取ってスタンバイ。
パフォーマンスの始まりを告げるその仕草に、劇場全体が水を打ったように沈黙した。
まるで星降る新月の夜を切り取ったようなステージに、静かなイントロが流れ始める。
ピアノが奏でるバラードのようなメロディ。選曲は、今日に至るまで何度も繰り返し耳にした――『タキオン』。
静かに紡がれる旋律に寄り添うように、彼が歌い始める。
優しく、切なく……どこまでも甘い声。
そして、ピアノが鳴り止み――きゅっと引き締めるようなバイオリンの高音が奏でられると同時に、舞台上の彼はフードを後ろに落とした。
そして、現れたのは――
「…………ぇ……」
衣織の唇から、無意識に声が零れる。
そこに居たのは、子犬のように愛くるしい笑顔の青年でも、不安に震えて泣きそうな顔をしている男の子でもなく。
鋭く光る瞳で視線の先を力強く射貫く、凛とした美しい男性だった。




