■■■-03. ■■■■
『――橄欖坂衣織くんで〝タキオン〟でした! ありがとうございました~!』
甲高い歓声が止まらない中、司会が僅かに声を張り上げてマイク越しに述べる。
その声を受け、先程までステージ上で美声を披露していた青年――橄欖坂衣織が、画面外からトークエリアに現れた。
『ありがとうございました』
『おかえりなさい! どうぞどうぞ、座って』
司会に促され、衣織は客席に一礼してから、背の高い椅子に座る。
強い照明の下でダンスを披露したためか、その首元はじんわりと汗で輝いていて、普段の涼やかさに僅かなセクシーさをプラスしていた。
『それではお話を聞いていきたいと思います。準備よろしいですか?』
『……はい、大丈夫です!』
ストローの刺さったペットボトルで手早く水分補給を終え、衣織が返事をする。
一連の所作は非常に流麗で、踏んできた場数の多さを感じさせた。
『披露していただいた〝タキオン〟ですが……カバーするのは今回が初めてということで。実際に歌ってみてどうでしたか?』
『うーん……正直、少し難しかったかも』
『おぉ、橄欖坂くんでも難しいですか』
『そんな……俺はまだまだです。やっぱり、オリジナルであるシリウスの歌唱力が凄く高いので。これからも頑張らないとって痛感しました』
衣織の瞳には、闘志のようなものがみなぎっているのが見て取れる。
……謙遜などではなく、本気でそう思っているのだろう。
『なるほど……中でも、〝ここが難しかった!〟っていう部分はありました?』
『ええっと……全体的に難易度が高かったとは思うんですが……一番は、歌唱そのものではなくて……』
『ほうほう……?』
『歌詞の解釈というか……この歌詞をどういう気持ちで歌い上げるべきなのかが、すごく難しかったです』
『あー、〝タキオン〟は詩的な歌ですから……ちなみに、最終的にどういう解釈で歌いましたか?』
『そうですね……恥ずかしながら、歌い終わったあとでも掴み切れていないんですが――』
そこまで言うと、衣織は胸に手を当て、穏やかな声音で告げた。
『――〝憧れ〟かな』
……その時、背後からドタドタと大きな音が迫ってくる。
次いでガチャンと大きな音がして、廊下の冷えた空気がひゅうと吹き込んできた。
「お兄ちゃん~、ルーズリーフなくなっちゃった~」
言いながら、押し入ってきた闖入者――妹の苺が、ドア横の棚を漁り始める。
「……いっちゃん、ノックしようね。あと、人の部屋勝手に漁らないで……」
「はあい~……っと、あったあった! 貰ってくね~」
「待って、こっちに使いかけが……ああっ……」
頭にかけていたヘッドフォンを外し、部屋の主――柘榴は袖机の引き出しに手をかける。
……しかし、悲しいかな。柘榴が使いかけのルーズリーフの袋を手に顔を上げた時、既に苺は新品の袋の封を切り、中身を半分ほどごっそり抜き取っていた。
「……っていうかお兄ちゃん、ご飯もそこそこに何見てるのかと思えばさあ」
柘榴の悲しげな顔もどこ吹く風で、苺はずかずかと柘榴の隣にやってくる。
机の上に置かれた大きなゲーミングモニターには、かつてのようなゲーム画面ではなく、アイドル番組――『ネクストスタジオ』の映像が流れていた。
「昨日教えてから、ずーっと観てるじゃん。いおりん」
「うん……こんなに綺麗な人が居るんだなあって、びっくりしちゃって……」
モニターの中では、トークを終えた衣織が笑顔で客席に手を振っている。
昨晩、苺に勧められて視聴したアイドルのライブ映像。
主役であるアイドルたちが華麗に舞う後ろで、決して目立ち過ぎず、しかし舞台に花を添える研修生たち。
その中でも、数瞬のうちに柘榴の目を奪ったのが、彼――橄欖坂衣織だ。
深い色の髪はどんな絵画の夜空よりも上品に輝いていて、瞳はオーロラのようにしっとりと光を宿す。
長い四肢を振るっての所作はコンパクトでありながらも伸びやかで、その流麗さは他の追随を許さない。
そして何より――研修生の歌唱コーナーで披露されたその歌声は、澄み切った夜風のように涼やかで、柘榴の心はいとも簡単に攫われてしまった。
自分の趣味嗜好が大きく影響しているとは言え……こんなにも美しい存在は生まれて初めて見たと、柘榴は強く感じたのだった。
「……ねえ、他にもこの人が出てるのって、あったりするかな?」
「えっ、いおりん? うーん……渡したやつが全部かなあ……」
「そっか……」
「まあ、研修生だからね。出演してたとしても、カメラで抜かれてるとも限らないし」
苺の言葉を聞きながら、柘榴は机の上に広がったケースを撫でる。
5年前のクオリアのドームライブ、3年前のホロスコープのツアー、ダビングされた『ネクスタ』の録画集(鈴鹿苺セレクション)などなど……昨晩苺から借りた円盤たちの中には、入所直後から成長するまでの橄欖坂衣織の姿が細々と収められていた。
「……まあ、そんなに気に入ったなら、ここにあるのはぜんぶ永久保存版にしないとね。これから先、増えないかもしれないし」
「え……?」
苺の言葉に、柘榴は呆けた顔になってしまう。
純粋に、言葉の意味が理解できなかったのだ。
「な、なんで……増えないの……?」
「え、だって……いおりん、怪我で活動休止中だし。シンメの紫乃ちゃんも辞めちゃったから、後追いみたいな形でこのまま辞めちゃうんじゃないかなー、って言われてるよ」
「………………そんな……」
柘榴の唇から、絶望に染まった声が零れ落ちた。
頭の奥が急激に冷たくなり、心が理解を拒絶する。
こんなに美しい輝きが、既に潰えたものの残り火で……二度と新たに生まれないかもしれないということを、信じたくない。
「うーん……あっ、そうだ」
わなわなと震える兄を見て不憫に思ったのか、苺は視線を僅かに逸らして思案を巡らせる。
そして、すぐに何かを思いついたような声を上げた。
「そんなにショックなら、一目だけでも見てきたら?」
「え……?」
「ほら、私らみたいなファンは無理だけど……お兄ちゃんにはチャンスがあるじゃん」
「チャンス、って……昨日の話……?」
昨日の雑誌撮影の現場で、釣り目の男性から差し出された名刺を思い出す。
確か……柴田と名乗っていた。
だが……。
「む、無理だよ……! そんな、生半可な気持ちでできるようなお仕事じゃないでしょ……!?」
「けど、結構居るよ? 『誰々くんに憧れて事務所に入りました~』って子」
「だ、だとしても……やっぱり、そんなミーハーなの、失礼だよ……!」
「う~ん……まあ、そうかもだけど……」
そこまで言うと、苺はポケットからスマートフォンを取り出す。
そして、画像フォルダの中から衣織の写真を表示すると、柘榴の顔と横並びにするように画面を翳した。
「……お兄ちゃん、顔はいいんだし。うまく転べばさ、大好きないおりんを引き留めて、隣に立てるかもよ?」
「…………えっ?」
その言葉に、柘榴の中の時間が止まる。
この美しい輝きを留めて、隣に立つ。
他でもない、自分が。
……ぐらり、と、心の中の理性ある自分がよろめくのを感じた。
「……なーんてね! けどまあ、せっかくスカウトされたんだから考えてみてもいいんじゃない? 身内からアイドル出るの、私は大賛成だし!」
固まってしまった柘榴の額をルーズリーフの束で軽く叩き、苺は楽しそうに笑う。
そして、訪れた時と同じように、礼のひとつも言わずに部屋を出て行ってしまった。
「…………」
それから、どれだけの時間が経っただろうか。
貴重な日曜にも関わらず、窓の外は既にとっぷりと暮れてしまっている。
「…………隣、に……」
一人になった部屋の中で、ぽつりと呟く。
昔から、容姿を褒められることが多かった。
けど、それが有利に働いたことは、今まで一度もなくて。
むしろ、変に視線を集めたり、勝手に期待されたり……そして、最後にはみんな離れていく。
だから、正直に言って……自分のこの姿は、苦手だ。
……けど。
今、この容姿が武器になる、最初で最後の日が来たのかもしれない。
柘榴は脇に置いていたスマートフォンをがばっと手に取り、足元に転がるバッグを乱雑に漁った。
「……あった」
底に埋まっていた財布を手早く取り出すと、普段はあまり使わない一番左端のカード入れに差し込まれた上質な紙を抜き取る。
そして、そのままの勢いで、名刺下部に書かれた番号をスマートフォンに打ち込み――通話ボタンを押した。
「…………あ、もしもし……こちら、柴田さんのお電話でよろしいでしょうか……?」
スピーカーから聞こえるのは、昨日対面した男性の声。
「えっと……昨日お世話になった、鈴鹿です。あっ、はい……そうです、スタジオで……」
行ってどうなるのかなんて分からない。
自分が使い物になるのかも……正直、自信がない。
ひょっとしたら、誰もが思い描くようなごく普通の人生を送れなくなるのかもしれない。
けど、それでも――
「……はい。昨日いただいたお誘いについて……その、詳しいお話を伺いたくて――」
――あの美しい夜のような歌声を、みすみす失いたくはなかったのだ。




