007-01. 花笑みは綺羅星の如く
尾崎芸能が所有する多目的ホール、通称「尾崎劇場」。
尾崎芸能所属の劇団が使用することを目的として建築されたプロセニアム形式の劇場であり、キャパシティは千人弱程度。
尾崎芸能の事業拡大に伴い、今では所属タレントのファンイベントやクラシックコンサートの会場として用いられることも多く……グループ会社としてテイルプロダクションが設立して以降は、研修生を集めた収録番組の会場として定期的に使用されている。
そして、本日は『ネクスタ』の収録日。
夕方にして既に煌々と明かりの灯る尾崎劇場の前には、厳正なる抽選の結果チケットを勝ち取った選ばれしファンたちが、雨上がりの蒸し暑さをものともせずに列をなしていた。
そんな熱狂的な光景を、三階通路のガラス越しに見下ろす影がひとつ。
室内だというのにキャスケットを目深に被り、目元には黒縁の眼鏡。
そしてその右頬には、薄手の傷あてパッドが貼られている。
他でもない、橄欖坂衣織だ。
「…………」
窓から一歩下がり、衣織は溜息を吐く。
……本当は、今日は夜まで部屋の片付けをするつもりだったのだ。
にも関わらず、どうして劇場まで来てしまったのかといえば……先日飛び出していった教え子の表情が、どうにも頭から離れなかったから以外にないわけで。
とは言え、衣織は本日の出演者ではないし、バックヤードの入場申請もしていない。
建物自体の入退館は社員証があればできるものの、このままでは楽屋にも会場にも立ち入ることができない状態だ。
それを理解していながら、それでも衣織はここに居る。
ごちゃごちゃと渦巻く様々な感情に自己嫌悪を覚えつつ、やはり部屋に帰ろうと踵を返した刹那。
「……あれ?」
ちょうど通路奥のカフェから出てきたらしいピンク色と、眼鏡のレンズ越しにがっつり目が合ってしまった。
「おりくん……? おりくんだよね?」
「……人違いです」
「もー、そんなわけないでしょ! 今日来るなら教えてくれれば良かったのに~!」
アイスティーを片手に持ったまま、ローザが衣織の周りをぐるぐると回る。
その姿はさながら、無邪気に獲物を囲い込む小型肉食獣のようだ。
「ここに居るってことは、今日は観覧する感じ? 袖から? 関係者席から?」
「あー……えっと、今日は……そのー……」
こてんと首を傾げられ、衣織はしどろもどろになってしまう。
その様子を目にしたローザは不思議そうな表情を浮かべるも、ふと何かに思い至ったような顔で首を縦に戻した。
「……もしかして、申請してない?」
「ぅ……」
「ふむふむ~? ははーん、なるほどなるほど……」
「な、なんだよ……?」
「んーん! なんでもないよ~!」
鼻歌でも歌い出しそうなほどご機嫌な様子で、ローザがにこにこと微笑む。
きっと、ローザには全てお見通しなのだろう。
「……よーし、そういうことならお兄さんに任せなさい!」
「お兄さんって、ひとつしか違わな……うわ!?」
「ほらほら、早くしないとファンの子たち入って来ちゃうよ~!」
言いながら、ローザは衣織の手首をガッと掴んでぐいぐいと引っ張り始めた。
……関節の掴み方が上手すぎて、振りほどくどころかどんどん体を引き摺られていってしまう。
どこでこんな技を身につけたんだ、この人!
「ちょっ、待って待って……! 俺、バックヤードの入場申請してないんだって!」
「へーきへーき! 今日は社長も柴ちゃんも現場に来てるから、顔だけ見せてあとで書類出せば何も問題ないよ~!」
「それって完全に事後報告じゃないか! 事務方にそんな迷惑かけ……って、ろざさん聞いて!? 俺の話聞こう!?」
必死の抵抗も虚しく、衣織はローザと共連れになる形でバックヤードへと引きずり込まれてしまうのだった。
「そんじゃあ、明日中には申請書を総務に出しといてな」
「はい、お手数をおかけしてすみません……」
「あっはは、なんのなんの!」
ローザに見つかってから僅か十分後。
衣織は研修生たちが出入りする楽屋の前で、軽快に笑う柴田に深く頭を下げていた。
ちなみに衣織を連れてきた張本人は、楽屋に着くや否や衣織をほったらかしにし、ヘアメイク中のニゲラの元へと飛んで行ってしまった。
「まあ、実を言うと来てもらって助かったっつーか……」
「えっ……?」
「ほら、あそこ」
衣織が首を傾げれば、柴田が楽屋の一角――壁際に並べられたパイプ椅子の辺りを示す。
そこには、目元が前髪で隠れるほどに俯きながら、椅子にじっと腰かけている柘榴の姿があった。
「初のステージだからな。緊張してるんだよ」
「…………」
柴田の言葉を聞きながら、無言でその様子を見つめる。
……柘榴から放たれる息の詰まるような緊張感を、同じ空間に居る研修生たちは当然感じ取っているようだ。
荷物を取りに椅子の前を通り過ぎる瞬間や、今まさにメイクをしている鏡越しに、彼らがちらちらと柘榴を盗み見ているのが分かる。
それが、さらに柘榴を追いつめているように見えて、衣織は思わず眉を顰めてしまった。
「おーい、柘榴ー」
柴田が少し声を張って名前を呼べば、柘榴が弾かれたようにばっと顔を上げた。
その顔は、遠巻きに見ても分かるほどに真っ青だ。
「…………あ……」
顔を出入り口に向けたことで、柘榴は柴田の背後に立つ衣織の存在に気付いたらしい。
一瞬戸惑ったように視線を泳がせたあと、おもむろに椅子から立ち上がってこちらへ歩いてきた。
「……お疲れ様です」
三人で廊下の端に寄ってから、柘榴がおずおずと頭を下げる。
その顔には本番用のメイクを施され、いつもより数段男前になっているものの……表情のほうはいつもと違って絶望的だ。
このままステージに上がれば、ファンが絶句すること間違いなしだろう。
「衣織が応援に来てくれたぞ、良かったな!」
そんな柘榴に対し、柴田はいつも通りからっとした笑顔と声音で語りかけた。
……さすがは社長の右腕、緊張した新人なんていくらでも見てきたのだろう。
「…………ありがとう、ございます……」
なんとか絞り出したといった様子で、柘榴が小さく感謝を述べる。
その声は震えてこそいないものの、今にもえずきそうな様子で僅かに上ずっていた。
「……なあ、衣織」
それっきり再び俯いてしまった柘榴に軽く微笑んで、柴田が今度は衣織に言葉を投げる。
「まだ開演まで時間あるし、柘榴の気分転換に付き合ってやってくれないか?」
「えっ」
「俺はこのあと、お前の観覧席の用意してこないとだからさ~」
「……その言い分はずるくないですか?」
衣織は眉を寄せて苦言を呈する。
自分が不要な手間を増やしてしまった手前、この提案を断ることはできそうもない。
「そんじゃ、頼んだぞ! 本番十五分前には楽屋に戻ってきてくれな!」
柴田はそれだけ言い残すと、衣織の返事を聞くよりも先に、軽い足取りで駆けていってしまった。




